先生が勧めなければ……
後藤義治君(大分)や山村輝夫君(山口)は、鹿児島空では私と同じ第22分隊5班で
同じ食卓で飯を食った仲である。谷田部空の飛練でも班は違っていたが同じ4分隊で飛行
訓練を受けた。次に彼らは豊橋空に移り、延長教育は陸上攻撃機を専修した。
飛練を卒業して配属された実施部隊は、762空攻撃406飛行隊(出水基地)で、搭
乗機は銀河である。ここで、宇佐空で艦上爆撃機を専修した古小路裕君や江藤賢助君それ
に松木学君などと合流した。またこの部隊には、 偵察の飛練を卒業した同期生、岡田武教
君や山根三男君それに橋本守君が所属していた。
後藤君や山村君それに島津君らは昭和20年3月上旬、新しい銀河を受領して空輸する
ため、鹿屋基地に派遣された。そこで、ウルシー泊地の片道攻撃に出撃する、「梓特別攻
撃隊」の、林栄一君(愛知・19歳)や葛佐直夫君(徳島・18歳)それに、原田照和君
(佐賀・18歳)らの同期生と偶然行き合わせた。そして、最後の言葉を交わしている。
出撃する彼らはそれぞれ次の辞世を残し、従容として死地に赴いた。
命下り振り返れば桜島 別れ惜しむか煙り棚引く 林 栄 一
大君に召されしわが家誉れあれ 春きたらむと祈りつつ征く 葛 佐 直 夫
御国のため楯になりしか若桜 散りにし後に誰かおしまむ 原 田 照 和
*
762空攻撃406飛行隊では、「神風特別攻撃隊第七銀河隊」を編成した。この攻撃
には江藤賢助君(福岡・18歳)と岡田武教君(大分・17歳)が参加した。昭和20年
4月16日1720、勇躍出水基地を発進した「第7銀河隊」は、喜界島155度50浬
の敵機動部隊に対し、壮烈なる「体当たり攻撃」を敢行した。
その前夜、出撃する彼らを囲んで山村君や島津君など同期生が一緒になって夜遅くまで
別離の杯を交わしたという。彼らは次の辞世を残して悠久の大義に殉じた。
大君に召されし我が身國のため 起死回生の特攻たらむ 江 藤 賢 助
命下り楯にならむと我はゆく 祈る心は長閑な春を 岡 田 武 教
*
沖縄戦の激化にともない、九州南部の各基地はB29や艦載機による空襲が頻繁に行われ
るようになった。そのため、美保基地に移動して錬成訓練を続けていた攻撃406飛行隊
に、沖縄周辺の敵艦船群に対する雷撃命令が下った。
昭和20年5月17日、美保基地を離陸して一路出撃基地である宮崎へ移動した。ここ
で燃料と魚雷を搭載し、準備万端の後藤1飛曹たちは、慶良間列島付近に遊弋する、敵艦
船群に対し夜間雷撃を敢行するため勇躍基地を発進した。
この攻撃で敵夜間戦闘機の攻撃からは逃れることができたものの、猛烈なる対空砲火に
さらされ、偵察員佐藤正義1飛曹(神奈川)は機上で戦死した。後藤1飛曹も負傷したが、
薩摩半島沖まで帰り着き、枕崎の海岸に不時着して九死に一生を得ることができた。だが、
戦傷いまだ癒えず、療養の身である。
攻撃406飛行隊では、特攻作戦に参加して「体当たり攻撃」を敢行するのと並行して
夜間雷撃をも実施していた。山村輝夫1飛曹(山口・18歳)は昭和20年6月5日夕刻、
沖縄周辺の敵艦船に対する夜間雷撃の命を受けて宮崎基地を発進した。そして、悪天候を
突破し、敵夜間戦闘機の追撃をかわして雷撃を敢行せる模様なるも、以後消息を断って、
帰投時刻を過ぎてもついに帰還しなかった。
引き続き6月25日2237、島津一達1飛曹(大分・17歳)が夜間雷撃のため宮崎
基地を発進した。だが、26日0017以降交信が途絶え、ついに未帰還となった。彼ら
も、江藤君や岡田君らのあとを追うようにして、 沖縄の海に消え去ったのである。
*
山村輝夫君は前述のとおり、鹿児島航空隊の予科練時代、私や後藤義治君と同じ第22
分隊5班の所属であった。基本教練をはじめ体育・武技・水泳・カッターなど厳しい訓練
を共に耐え抜いた仲である。
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22分隊5班。2列目右から、長浜・後藤・筆者。3列目左から2人目山村君。
当時の班長、田島壮司2等整備兵曹を囲んで班全員で撮った写真と、拙著「かえらざる
翼」を山村君の母親へお送りした。その後次のお手紙をいただいた。
初めまして
先日は御丁寧にも本と写真をお送り下さいまして 誠に有難う御座いました
何度も繰り返して読ませて頂きました 輝夫は長男だから予科練に行くのは反対でした
しかし 中学校の担任の先生が グライダー部の教師であったためにすゝめられました
下関中学から三十数名受験して 三名が合格して十二期で入隊しました
三年生から受かったのは輝夫だけで 同級生は皆不合格でした
他の同級生は一期遅れの十三期に入隊して 終戦後は皆無事に帰還されました
一期遅ければ戦死しなくても済んだものにと 当時は悔やんでいました
しかし 人それぞれの寿命というものがあり だから仕方ないとあきらめました
六月四日に生まれて六月五日に戦死とは因縁というものでしよう
私も一月十日で満九十四才になります
輝夫の分まで長生きさせてもらっているのだろうと思っています
貴方様も大切な命をもらったのですから 充分に御自愛なさって戦友の分まで長生きを
して下さい
つまらない事をごたごたと書きましたが乱筆乱文にて御許し下さい
か し こ
山 村 ツ ヤ
「担任の先生が勧めなければ……」。「1期遅れて13期ならば……」。最愛の長男に
先立たれた母親の悲しみは、寿命と諦めるには余りにも深く、そう簡単に諦められるもの
ではない。50年を越える永い年月、事あるごとに長男が生きていればと、その面影を偲
んでこられたのであろう
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[AOZORANOHATENI]