まだ死にたくない
父上様 母上様 姉上様、 在世中は色々と有難う御座いました。
この度の醜敵米鬼に断固反攻すべく、沖縄へと選ばれて征く事になりました。
かへりみれば、私在世中は思い出深い事ばかりでした。
在世中十七年の間、父上母上様の御慈愛により、私も空の特攻として、
短い十七年を立派に散る事ができて、誠に本懐に堪へませぬ。
私も台湾沖航空戦に死場所を得たにもかかはらず、おめおめと生き延びて、
先に逝った先輩に対して、誠に申訳ないと存じて居ましたが、
今度破格にも漸く立派な死場所を得て、これで先輩にも、父上母上様にも
申訳ができて、何の未練も無く敵艦に突っ込んで行く事ができます。
故郷の友達諸君も職場に学窓にまた野良に、元気で一生懸命頑張って居る事と
存じますが、私から宜しく言ったと御言伝下さい。
中村の叔父様にも、その外知人にも宜しく。
今生の御別れに一筆記して、一生の離別の辞と致します。ではお体を大切に。
父上様、母上様、姉上様、御機嫌よう。 義 明
二〇、四、一五、
*
これは小野義明君が面会に来た福田周幸君の母親に託した遺書である。福田君の母親は
面会からの帰りに、久留米市の小野君の家に立ち寄り、今なら間に合うから面会に行くよ
うにと勧めたそうである。小野陸子さんは、当時の様子を次のように話された。
昭和二十年四月二十五日の朝、福田さんのお母様がおみえになり、「今鹿児島から面会し
ての帰りですが、今すぐ行かれたらまだ息子さんにも会えるかも知れません」と、知らせ
に来て下さいました。
早速切符を手に入れて、母と二人で夜行列車で久留米を発って、翌早朝西鹿児島駅に着き
ました。すぐに、空襲警報にあい、昼ごろまで足止めされました。
日豊線も不通となり、困りましたが、午後四時ごろ開通。隼人駅まで行き、歩いて夕暮れ
せまるなか、日当山温泉に着き、その夜は温泉に泊まりました。
翌朝早く出発。歩いて基地に向かう途中、またも空襲警報に会い、ここでもまた足止めさ
せられました。昼ごろ解除になり、やっと山にたどり着き、二十七日の午後一時ごろ面会
することができました。農家の庭先で三時間ぐらいの短い別れの一刻でした。
母が折角作って持って行った「おはぎ」も、暑さと長い時間が経った為に、味が変わって
食べられませんでした。残念でなりませんでした。
母が苦心して手に入れた白絹のマフラーと交換に、自分の首に巻いていたマフラーをはず
して私達に渡しました。これが唯一の形見となりました。
いよいよ別れるという時に「まだ死にたくない……」と、ただ一言呟やいたことが胸に
ジーンときました。これが最後の言葉となりました。弟から渡されたマフラーには、寄せ
書がしてありました。
散れ彗星の花吹雪 鹿島二飛曹
九州男子大いにあばれよ 原島一飛曹
悠久の大義に死す 本川上飛曹
*
私も経験したことだが、人間の感情には起伏がある。「特攻隊」に編入された時点では、
「よーし、やるぞ!」と、決心を固めていても、日が経つにつれて「まだ死にたくない」
との思いが募ってくるものである。
だから、小野義明君が遺書に書いた決意も真実であり、母親と面会して今生の別れに漏
らした言葉もまた真実である。
「世間の人は、特攻隊だ、特攻隊だと称えて下さるけれど、本当はまだ死にたくない」。
これが出撃を翌日に控えた小野君の偽らざる心であろう。だが、そう打ち明けられても、
なす術を知らぬ母親や姉上の胸中は、いかばかりであっただろうか。
昭和20年4月28日、小野義明君の搭乗した99式艦上爆撃機は、基地総員の見送り
を受けて第2国分基地を発進、沖縄周辺の敵艦に対して必死必中の体当たり攻撃を敢行、
悠久の大義に殉じた。彼は昭和2年5月13日生まれで、満17歳であった。
*
昭和54年4月6日、鹿児島県姶良郡溝辺町は、沖縄作戦に際して艦上爆撃機の出撃基
地として使用された、旧海軍第2国分基地を見下ろす上床公園の一画に「特攻慰霊碑」を
建立した。
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十三塚原慰霊碑。
百里原空をはじめ名古屋空や宇佐空それに951空で編成された「神風特別攻撃隊」は、
この基地を発進して、還らざる攻撃に飛び立つたのである。伊東君をはじめ福田君や小野
君それに漆谷君など、大勢の同期生や先輩たちが祖国に最後の別れを告げた場所である。
彼らの御霊は今いずこに眠っているのであろうか。
鎮 魂
白雲にのりて
君還りませ
さくらのそよ風
菊のかおり
あなたの守り給える
ふるさとは いま
平和に 満ちています
昭和五十四年四月六日
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[AOZORANOHATENI]