17歳の回想
世紀末と呼ばれる2000年の幕開けから、5千萬円恐喝事件や豊川市の主婦刺殺事件、
JR電車内での殺人未遂事件、さらにバス乗っ取り事件と続き、ついに母親を撲殺すると
いう悲惨な事件へと、17歳の暴走は後を絶たない。人生で17歳とはどんな時期なのか。
過ぎ去りし過去を回想しながら、己の17歳を検証するのも無意味ではないと思う。
私の満17歳の誕生日は昭和19年2月20日であった。だが、当時は自分の誕生日に
あまり関心がなかったように思う。戦前の年齢は「数え年」といって、正月に加齢してい
たからである。そのうえ当時の私は、鹿児島海軍航空隊において海軍甲種飛行予科練習生
として猛訓練の真っ最中であり、自分の誕生日を意識する余裕などなかったのである。
17歳の筆者。
翌3月25日、予科練(飛行予科練習生の略)を卒業し、操縦員と偵察員とに別れて、
それぞれの飛練(飛行術練習生の略)へ進んだ。私は陸上機の操縦員に指定され、茨城県
の谷田部航空隊に移り中間練習機 (赤トンボ) による飛行訓練を開始した。操縦の基礎で
ある離陸着陸に始まり、編隊飛行、特殊飛行、計器飛行そして夜間飛行と夜を日に継ぐ猛
訓練が続いた。
同年7月29日、中間練習機教程を終了し百里原航空隊へ転属した。 ここで97式艦上
攻撃機による飛行訓練を開始した。艦上攻撃機とは水平爆撃や雷撃(魚雷攻撃の略)を主
任務とする飛行機である。特に一発必中の雷撃が訓練の主体であった。
昭和19年12月25日、全ての訓練を終了し晴れて一人前の搭乗員として、海上護衛
部隊の中核である903航空隊(館山基地)へ赴任した。ここで艦上攻撃機の操縦員とし
ての勤務が始まった。そして、満18歳の誕生日は館山基地で迎えたことになる。だが、
ここでも誕生日の思い出はない。なぜなら関東地区は2月16日早朝から連日、敵機動部
隊の空襲をうけ、19日には硫黄島に敵軍が上陸するという混乱の時期だったからである。
昭和20年3月中旬、大井航空隊への転属命令を受けて赴任した。ここで「神風特別攻
撃隊」に編入され、死の瀬戸際を体験することになった。以上が私の17歳前後の経歴で
ある。昨今若者の自殺がよく報道されている。貴重な若い命をなぜ粗末にするのだろうか。
私の17歳は、「特攻」の至上命令により生きていたくても生きられない時代であった。
平和に恵まれ何不自由なく育った現代の若者の行動は、私には理解しがたい面がある。
それと同様に現代の若者には、「体当たり攻撃」という無謀な自殺行為を断行しなければ
ならなかった、私たち17歳の心情は想像できないであろう。
*
私は昭和2年2月20日、福岡県田川郡方城村で兄2人姉3人の末っ子として生まれた。
方城村は田川郡の北西部、福知山の南側に面した山村である。だから、肥沃なたんぼなど
はなく、労力の割には生産性に乏しい棚田の耕作や山林の伐採、それに山菜などの採取に
頼る貧しい生活であった。
そのため、幼いころから家業の手伝いは当たり前のこととして育った。農繁期には「田
植え休み」と称して、小学校が数日間休校して児童が農業の手伝いをするのが恒例化して
いた。夏休みになると「田の草とり」、冬休みには山に入って「薪とり」など、子供にも
季節に応じた仕事が割り当てられ、一人前の働き手としての役割を分担していた。
遊びにしても玩具などは買ってもらえず、ほとんど手作りであった。年上の子供に教わ
りながら、竹トンボや水鉄砲それに竹馬などを作って遊んだ。春には野苺を摘み、夏にな
ると近くの小川で魚釣りをしたり沢蟹を取ったりした。また、堤(農業用の溜め池をこう
呼んでいた)で泳ぐのが日課であった。秋になると野葡萄や桑の実それにアケビなどを取
りに行った。これが、昭和不況の時代に田舎で育ったわれわれの日常生活であった。
私の育った弁城と呼ばれる集落は、「上野焼」で有名な上野村(現在赤池町)に隣接し
ていた。子供のころ、古くからの窯元である「熊谷窯」や「高鶴窯」などに遊びに行き、
唐臼を使って土を砕く様子や、仕事場で轆轤を足で回しながら、茶碗などを作るのを興味
ぶかく眺めたものである。
また、延元・建武時代の武将、足利尊氏にゆかりの「興国寺」には、4月8日の「花祭
り」にお参りして甘茶を戴いた。夏には上野峡の「白糸の瀧」に遊んだり、標高900米
余の福知山に登って、その雄大な眺めを楽しんだものである。
*
昭和に生まれ昭和に育ったわれわれの世代が、物心ついて小学校から中学校へ進んだ時
期は、国内的にも国際的にも国家の存亡にかかわるような重大事件が次々に起こり、激動
の機は刻々と迫りつつあった。
昭和 6年9月 満州事変勃発。
昭和 7年1月 上海事変勃発。
昭和 8年3月 日本政府、国際連盟脱退を通告。 (4月・小学校入学)
昭和11年2月 2・26事件発生。 (小学校・3年)
同年 11月 日独防共協定調印。 (小学校・4年)
昭和12年7月 支那事変勃発。 (小学校・5年)
昭和13年4月 国家総動員法公布。 (小学校・6年)
昭和14年5月 ノモンハン事件発生。 (旧中学・1年)
昭和15年3月 新中国政府樹立。 (旧中学・1年)
昭和16年4月 日ソ中立条約調印。 (旧中学・3年)
同年 7月 米政府、在米日本資産を凍結。
同年 8月 米政府、対日石油輸出を全面禁止。
同年 11月 米政府、「ハルノート」を提示。
同年 12月 大東亞戦争勃発。 (旧中学・3年)
*
昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した。真珠湾の奇襲攻撃による大戦果、引き
続きマレー沖海戦によるイギリス東洋艦隊の撃滅。軍艦マーチとともに放送されるこれら
の臨時ニュースに国内は涌き立っていた。
当時の国際情勢をみると、アジアの国々は殆ど西欧諸国により植民地化され、独り日本
のみがこれに対抗している状況であった。そして長期化した支那事変に加えて、ABCD
(米・英・支・蘭)各国による軍事的包囲網の重圧。さらに、経済封鎖や石油の輸出禁止
などにより物資は極端に欠乏していた。一般国民はこれら外部からの重圧を打破し、東洋
平和の確立と自存自衛のため、死中に活を求める思いでこの開戦を歓迎したのであった。
*
開戦当時私は、田川商工学校の3学年に在学していた。旧制中学校は5年制でる。だか
ら、卒業後の就職や将来の進路についてはまだ真剣に考える時期ではなかった。それでも、
同級生の中には日本郵船や大阪商船などの、外国航路の船員(パーサー)になって外国に
行くと言う者や、満鉄や華北交通など、大陸に雄飛する夢を語る者もいた。
戦争が始まると、陸軍の少年航空兵や海軍の甲種飛行予科練習生など、大空に対する関
心が高まりはじめた。私の村からは、香月一利氏が甲飛(甲種飛行予科練習生の略)1期
生とし入隊していた。氏の弟が小学校の同級生だった関係で、1等航空兵曹に進級して、
艦上爆撃機の搭乗員として、第一線で活躍している様子を聞かされていた。
私は、昭和17年度前期の甲飛に志願を試みたが、入隊時に満16歳以上との年齢制限
があり、4ヵ月不足のため受験できなかった。当時甲飛の募集は年2回実施されていた。
昭和17年10月、海軍省から後期の募集が告示されたので、早速志願の手続きを行った。
ミッドウエー海戦や、ソロモン群島方面での航空戦で、虎の子の飛行機搭乗員を大量に
喪失した海軍は、これを急速に充足する必要に迫られた。そこで、訓練期間が短くてすむ
甲飛を増員することにした。第10期生1,100名、第11期生1,200名に対して約
3倍に近い、3,200余名の採用が計画されたのである。
そのため、年令制限が1歳切り下げられて入隊時満15歳となった。そのうえ、服装も
ジョンベラ(水兵服)から海軍兵学校に準じた「七つ釦」の新しい形の制服に改められ、
志願者の拡大が図られた。
第1次試験は身体検査と学科試験で、昭和18年1月6・7日の両日全国一斉に実施さ
れた。私は小倉市(現北九州市)で受験した。試験科目は、国語漢文・数学・英語・地理
歴史・物理化学の5科目であった。
次に2月中旬、第1次試験の合格者が横須賀・舞鶴・呉・佐世保の各鎮守府ごとに集め
られ、第2次試験が実施された。私たち佐世保鎮守府関係の志願者は、佐世保空(空は海
軍航空隊の略)に集められた。第2次試験は、精密身体検査と航空適性検査である。身長
や体重など基本的な身体検査にはじまり、各種の器具を使って視力や聴力それに反射神経
など、綿密な適性検査が1週間にわたって実施された。
第2次試験。最後列左から3人目筆者4人目西部君。
昭和18年8月1日、試験に合格した私は、 第12期(第3次)甲種飛行予科練習生と
して鹿児島海軍航空隊に入隊した。予科練の教育はまず、海軍軍人としての基礎教育から
始まる。次に、操縦専修と偵察専修に分けられ、それぞれ飛行機搭乗員として専門の教育
が実施された。
昭和19年3月、訓練期間短縮により8ヵ月で予科練を卒業したわれわれ後期のクラス
は、偵察専修は上海空と大井空へ、陸上機の操縦は谷田部空へ、そして水上機の操縦は天
草空と小松島空へと移り、第37期飛行術練習生として、実際に飛行機に搭乗しての各種
訓練が開始された。
昭和19年9月末、まず偵察員が飛練を卒業して一人前の搭乗員として実施部隊(実戦
配備の航空隊で数字で表示される。地名を冠した航空隊は搭乗員を養成する練習航空隊)
に配属された。次に、陸上機操縦員は7月末に中間練習機課程を終了し、戦闘機(筑波空)
艦上攻撃機(姫路空・百里原空)艦上爆撃機(宇佐空)陸上攻撃機(豊橋空)の機種ごと
に別れて実用機課程へ進んだ。そして、機種により多少の差はあったが、概ね昭和19年
末までに飛練を卒業し、偵察員の後を追って実施部隊へと巣立ったのである。
実施部隊においても錬度の向上を図るため、実戦さながらの錬成訓練が実施された。そ
して、空中衝突その他の事故により多くの犠牲を払いながら、一人前の搭乗員として鍛え
抜かれたのである。またこの間に、戦局は急激に推移していた。入隊当時の遠いソロモン
群島方面での戦闘は、今や南洋群島から比島方面へ、さらに台湾沖へと身近に迫っていた
のである。
10月中旬に敵機動部隊が沖縄及び台湾方面へ来襲した際の戦闘、即ち「台湾沖航空戦」
がわれわれ同期生の初陣となった。そして、最初の戦死者を出すに至ったのである。これ
以降それぞれの所属航空隊で、索敵や哨戒それに雷撃や爆撃にと本格的な戦闘に参加する
ようになり、戦死者は次第に増加していった。
明けて昭和20年、戦闘はますます激烈となり、戦線が内地に近づくにつれて戦没者は
急激に増加した。762空攻撃262飛行隊では「丹作戦」に呼応して「菊水部隊『梓』
特別攻撃隊」を編成し、初めて内地からの「特攻作戦」を実施した。
早春の3月11日0920、鹿屋基地を発進した銀河(爆撃機の名称)24機は、飛行
艇に誘導されて洋上遠く 1,360浬彼方、ウルシー環礁内に停泊する敵機動部隊の攻撃
に向かった。そして、10時間に及ぶ飛行の末1900過ぎ、夕闇せまる敵泊地に殺到し
て必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行したのである。
この攻撃には、葛佐真夫2飛曹(2等飛行兵曹の略)と原田照和2飛曹それに林 栄一
2飛曹が参加し、同期生として「体当たり攻撃」の先駆けとなった。狭くるしい座席内で
バンドを締めての長時間の飛行が、どれほど肉体的な苦痛を伴うものであるか、そのうえ、
生還が許されない死出の旅路であってみれば、その胸中や察するに余りある。
命下り振り返れば桜島 別れ惜しむか煙り棚引く 林 栄一
大君に召されしわが家誉れあれ 春きたらむと祈りつつ征く 葛佐 真夫
御国のため楯になりしか若桜 散りにし後に誰かおしまむ 原田 照和
梓特別攻撃隊23号機ペア。
左から(操)原田二飛曹・(電)葛佐二飛曹・(偵)松井飛長。
茫洋たる大空を飛行すること実に10時間余。その間彼らは何を思い何を語らったであ
ろうか。おそらく、遠ざかりゆく故郷の山河に思いを残しながら、過ぎし日の回想にふけ
ると共に、死を目前にして人生の儚さや無常さを感じていたであろうと想像する。そして、
「体当たり」の瞬間彼らの脳裏に去来したものは、ご両親の面影と古里の情景であったに
違いない。
*
昭和19年末までのクラスの戦没者は20柱である。明けて1月は8柱、2月は14柱、
3月には35柱、そして4月になると58柱と沖縄周辺での戦闘が激化するにつ、戦没者
は急激に増加した。そしてその大半は、「全機特攻」の至上命令により編成された「神風
特別攻撃隊」の「体当たり攻撃」による戦死者である。
このようにして終戦までに、クラス総員700余名のうち、「特攻戦死」61名を含む
223名が大空に散華した。
予科練を卒業し、飛行訓練を開始してからわずか1ヵ年。心身共に鍛えぬかれた若鷲は、
爆装零戦をはじめ、艦上攻撃機や艦上爆撃機それに陸上攻撃機とそれぞれの愛機を駆って、
沖縄周辺の敵艦に対して、次々と「体当たり攻撃」を敢行して祖国防衛の礎となった。
昭和20年3月18日、「神風特別攻撃隊・菊水銀河隊」の一員として築城基地を発進、
九州東方海上の敵機動部隊に対し、必死必殺の「体当たり攻撃」を決行して散華された、
西山典郎2飛曹(熊本)は、特攻隊員としては最年少の満16歳であった。
目次へ
次頁へ
[AOZORANOHATENI]