弁城小学校の同窓生
私の育った方城村には、弁城小学校と伊方小学校がありました。三菱方城炭鉱の最盛期
で、伊方小学校は児童数も多くて大きな学校でした。それに高等科も併設されていました。
それに引き換え、弁城小学校は児童数が二百人にも満たない小さな学校でした。
隣村の市場小学校の児童が、遠足などで横を通るとき、「弁城の学校はチンガラ学校!」
とコナシていました。勿論一学年一学級の男女共学です。私達のクラスは多少の出入りが
ありましたが、卒業は三十七名でした。
一、北にそびゆる 福智山 南に流るる 英彦の川
田園ひろく 見下ろして 輝きたてる わが校よ
二、自然の土に 育まれ 清き心と くろがねの
強き腕を 誇りつつ 学びの道を 踏み行かん
三、正直 努力 親愛の 尊き教えを 則として
良き里人と 我ならん 良き国民と 我ならん
これは、弁城尋常小学校の校歌(曲も同じ)です。当時在職されていた、加来絢子先生が
作詞作曲されたと聞いています。
運動会の歌
朝きり晴れて 天高く
馬さえ肥える 秋の日に
開かれたるは わが校の
待ちに待ちたる 運動会
騎馬戦の歌
わあ荘勇 わあ荘勇
川中島の戦いは
日本男児の誉れにて
真似して遊ぶ我々は
大きくなりて 国のため
尽くす用意は今なるぞ
永末保美君の葬儀に参列し、弔辞を捧げました。同級生で参加したのは「君ちゃん」だけでした。
☆同窓生からの近況紹介。(平成24年2月23日)
同期生との無駄話で、彼の入院を知って電話しました。
この便りが最後になりました。
小学校卒業記念。
☆同窓生からの時候見舞。(平成23年7月10日)
☆同窓生からの時候見舞。(平成22年6月10日)
郷里に残って農業を継いだ同窓生からの時候見舞を戴きました。同窓会も中断しています
ので、近況を知ることができて貴重な友人です。
☆小学校同窓会。(平成18年10月20日)
小学校同窓会を今年もまた「源じいの森」で行いました。楽しい一夜を語り明かしました。
☆写真家、加来昭二君の作品。(平成18年7月)
脊振山のツツジ
脊振山からの眺め
枯れ木に群がるカラス
☆小学校同窓会。(平成17年10月24日)
小学校同窓会を「源じいの森」で行いました。年々参加者が減って淋しい限りです。
☆お便り戴きました。(平成21年5月)
☆年賀。(平成17年正月)
あけまして おめでとうございます 訃報(2月26日)
☆小学校同窓会。(平成16年10月18日)
昭和14年弁城小学校卒業。37名中13名参加。
☆小学校同窓会。(平成15年10月10日)
昨年より2名減少。
☆小学校同窓会。(平成14年10月4日)
昭和14年弁城小学校卒業。37名中12名参加。
郷里に残って家業を継いだ当時の級長の肝いりで、毎年同窓会を開いています。今年も
同じ郡内の「源じいの森」に集まり、楽しい一夜を語り明かしました。元級長とは同室で、
喜寿を迎える歳になって、同級生の中で、果たして誰が一番有意義な人生を送ってきたの
かが話題になりました。
我々の世代は、戦争に青春を奪われ、戦後の厳しい時代を生きてきたのです。それぞれ
の身の上話には、身につまされるものがありました。参加した女性の半数以上は未亡人で
した。その中に一人に、小学校時代から大変身した方がいました。
勿論、出世頭は東大を出て一流企業の社長まで勤めた者もいますが、これは別格です。
小学校時代はホケのようにして、勉強はできず何を考えているのか分からなかった女性が、
懇親会のリード役となったのです。歌や踊りで場を盛り上げます。我々ですら忘れがちな
古い歌詞など、よくも覚えていたもと感心しました。
更に、誰々さん(足が不自由)が来たと聞けば、真っ先に立ちあがって玄関まで出迎えて
手を貸しています。こまごまとした心使いが自然に身についていました。当時の農村では、
中等学校へ進学するのは二割程度です。あとは高等小学校を出ると直ぐに働いていました。
彼女も義務教育を終わって農業の手伝いをし、そして近隣の農家に嫁いだので、世間が広
いとは申せません。
小学校の国語や算数が出来なくても、人間として一番大切なものは身に付けていたので
す。知的教育万能の今の学校教育は再考する必要があるのではと、つくづく感じました。
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