♪ひな祭り♪

自衛隊こぼれ話

弁城と伊方の由来

 福地山系の峰続きで、私の生まれた集落の端に「シロヤネ」と呼ばれる竹林に覆われた 山があります。山城の跡をしめす礎石や空堀が今も残っています。古老の話を総合すると 次のようになります。    この城は源平の昔(保元三年)、平家の手によって築城されました。そのとき、杵島姫の 命(弁財天厳島神社)を祀り、居城を「弁財天」を戴して「弁天城」と名づけました。そし て城主として「永野新九郎貞恒」が派遣されました。  今でもベザイテン(弁財天)の地名があり、その近くには、ヤノドンやオコンドンなどの 屋号が残っています。ヤノドンは矢野殿の意味で、矢野伝左衛門宗冬という武将の屋敷跡 と言われ、オコンドンは右近殿のことで、右近少監友房の屋敷跡と言われています。  永野新九郎貞恒は、平家が壇ノ浦で滅亡したとき、その落人を導き匿くまったそうです。 その場所は平家屋敷と呼ぶ地名で今も残っています。  また彼の一族は平家の滅亡によって武士を捨て、農民となって暮らすことにしました。 その家系は今も永野姓として弁城の地に残っています。また平家の落人も氏素姓を捨て、 武具を農具に変えて農民として生きる道を選びました。  当時「弁天城」と呼ばれたこの里も、のちの人々が地名に「天」は恐れ多いと「弁天城」 から天を抜いて「弁城」と呼ぶようになったそうです。         *  中哀天皇は熊襲の反乱を平定するため、九州に兵を進めました。そのとき、この地には 弓矢に長じた者が多いと聞き、召し出して先鋒の軍に加えました。そしてその強さを認め られてこの里から毎年5名の「射方(イカタ)」を出させて国役に就かせることにしました。  それからこの地は「射方の里」と呼ばれるようになりました。それが「伊方」の地名の はじまりだそうです。  方城村は明治22年伊方村と弁城村が合併して誕生しました。当時の人口は 3,332 人と記録されています。その後、筑豊炭田の一角であるこの地に、三菱が炭砿を開発しま した。三菱方城炭砿です。黒ダイヤと呼ばれた石炭景気に支えられて、人口も逐次増加し ました。  戦後の昭和31年8月1日、町制が施行されました。当時の人口は16,783人に増加 していました。ところが、エネルギー政策の転換による廉価な石油の輸入に対抗すること ができず、石炭の生産は激減し炭砿は次々に閉山されました。そして、さしもの石炭景気 は鉱害のみを残して終わりを告げたのであります。  炭砿が無くなれば農業以外に生計の道がない所謂過疎の村です。国の施策による鉱害復 旧工事が細々と続けられましたが、昭和32年の 17,016人をピークにして町の人口 は激減しまし。平成3年4月には 8,209人までに半減し、その後も減り続けています。  私の育った上弁城区もご多分に漏れず、農業以外にこれと言った生産手段を持ちません。 その農業にしても、生産性の乏しい山間の段々畑での耕作では後継者が育つわけもなく、 典型的な過疎の村となりました。  戦後の核家族化と若者の都会への流出で、農村の衰退は目を覆うばかりです。ことある 毎に帰省していますが、老人ばかりが増えて子供の数は極端に少なくなりました。戸数こ そあまり減った感じはしませんが昔の面影はすでにありません。         *  私は先祖伝来のある口伝を親から受け継いでいます。それは平家の落人たちが氏素姓を 隠して農民となる際、何時の日か平家再興のために挙兵することを誓って、武具や軍資金 にするための財宝を隠匿したというのです。口伝はその場所を伝えるものです。  これは文章や図面ではなくて、一定条件の者に対して、先祖代々口伝として伝えられた ものです。しかし、今考えるといろいろと疑問な点もあります。それは各個人がそれぞれ に隠匿して、それぞれが子孫に伝えたものなのか、それとも全員のものを集めて隠匿し、 特定の者だけに伝えたものなのかです。  口伝だから代々伝えるうちに、内容が多少変化しているかも知れません。しかしながら、 今となっては確かめようもありません。ただし、最小限私の先祖が隠匿したものは、口伝 の場所に秘匿されていると推察されます。       我が家は長男が戦死したため次兄が家を継ぎました。今は次兄の長男が家を護っていま す。その甥から、毎年税金を払っているのに、自分の相続した山林の場所を知らないと言 うので、現地に案内することにしました。この土地は元々は竹林で、子供の頃は筍かぎに よく行っていました。  そして、その一部の比較的平坦な場所に父親と杉の苗木を植え、下草刈りなどにも度々 行っていました。その杉も60年以上経っているので大きくなっているはずだし、場所は すぐに確認できると思って出かけました。  ところが私が村を離れてから50年、山の様子は激変していました。山道が無くなって いたのです。子供のころ庭先同様に往来していた里道が跡形もなく、山は想像以上に荒れ 果てていました。近年は山菜などは見向きもされず、薪を焚く家庭など一軒もありません。 だから、山に入る人など誰もいなくなっていたのです。  平家再興の夢もさることながら、生まれ育った故郷の山々の荒廃を目の当たりにして、 寂寥の念一入でした。 西日本新聞「こだま」

 

      父 勇三           母 トミエ
     母方の従兄妹と子供集合。母の実家、三光寺にて。
目次へ戻る
[AOZORANOHATENI]