自衛隊こぼれ話
かえらざる翼 甲飛十二期生の軌跡 有限会社 海鳥社 1994年9月10日出版 福岡市中央区大手門3丁目6番13号 電 話 092(771)0132 大東亜戦争が終結して既に半世紀が経過しようとしている。長い歳月の流れに拘わらず 若くして大空の彼方に消えた同期生の面影が事ある毎に今も眼前に彷彿とする。復員して 一旦は散りじりになった同期生も、地区毎に集まり、航空隊別の会合など重ねてその消息 も次第に判明してきた。そして、戦没同期生の慰霊祭を兼ねた全国同期生会も、ご遺族を お招きして定期的に実施されるようになった。 戦争末期の戦死公報などは形式的な記述のものが多い。そのうえ遺骨さえ還らない現実 に無情を感じられているご遺族が大勢おられるはずである。ご遺族の方々は、戦没者の生 前の生活や出撃の様子などの情報を、生存同期生に求めてこの会合に遠路参加されている ことは、その言葉の端々からも感じとることができる。 何処の基地からどんな飛行機に乗って出撃したのか? そして何時何分どのような状況 で戦死したのか? また生前どこの基地でどんな生活をし、どんな訓練を受けていたのか、 知りたい事は山ほどあるはずである。 しかし、搭乗員の宿命として死亡時刻や死亡場所など確認できる状態ではなかった。出 撃して、予定時刻になっても還らなければ戦死と認定される。また特攻隊員には初めから 帰還の予定時刻など無かったのだ。出撃即ち戦死である。最後の状況など誰も見ていない のが通例である。たとえ見ていた者がいたとしてもその者もまた後に続くのである。だが、 ご遺族としては戦死の状況や生前の生活など詳しく知りたいのは人情であろう。 当時の状況を回想すると、一枚のハガキを書くにも検閲を意識して事実を書くことは憚 られた。また特攻隊が編成されてもその事実を知らせることさえ禁止されていた。更に、 遺書を書くにしても確実に父母の手元に届く保証は無かった。そのうえ、他人の目に触れ ることを考えれば、通り一遍の文章しか書けず、本心をそのまま伝えることなど不可能で あった。 彼らと同じ立場を体験した我々は、遺書の行間に隠された文字を読み取り、その苦衷を 察することができるだけに、涙なくして読むことができない。しかし、今なら真実を話す ことができる。電話の発達した現在では想像もできないことだが、親や兄弟に伝えたいこ とが山ほどありながら、我々はその手段を持たなかったのである。 大多数の者は一枚の遺書を書く機会さえ与えられず、言いたいことも言えずただ黙って 大空の彼方へ消え去ったのである。その彼らの心情を推し量り、真の姿を少しでもご遺族 に伝えることができればとの念にかられ、生前の彼らと生死を共にした思い出を纏め拙文 を顧みずに出版したのが、「神風は吹かず」である。幸いご遺族や読者の方々からの感想 を頂いて光栄に思っている。 ある朝、「西日本新聞」の文化欄、溝口雄三先生(大東文化大教授)の「東往西来」を 読んでいて衝撃が走った。「百年同じく謝(お)つ西山の日、千秋萬古たり北○(ほくぼ う)の塵(北○は山名、北○の塵は死んで土に帰ること)との一文が目に止まったからで ある。 ○印の文字は「」(ぼう)。 昭和二十年四月、弱冠十七歳で沖縄特攻に殉じた伊東宣夫君の遺書に、 「北○山頭一片の煙と……」と書かれていた。浅学非才な私にはその意味が理解できず、 単に沖縄本島北部の山々程度に解釈していた。だから、「神風は吹かず」でも誤ったまま 紹介してしまったのである。 何とかこの誤解を解かなければと、西日本新聞の「こだま」や「風車」に原稿を送った。 しかし、掲載して頂けなかった。残る手段は自分自身で解決するしかない。それには改訂 版を出す以外にないとの結論に達した。 たまたま延岡市在住の長濱敏行君から、「神雷部隊」での体験手記を頂いていたので、 これを追録するとともに、内容の一部も改訂した。また戦没者名簿に出身府県名や戦没時 の年齢を追加するなどの一部修正を含めて、新たに「かえらざる翼」として出版すること にした次第である。 最後に各種貴重な資料を提供して下さった、鹿児島県東串良町の中西スミ子様や、同期 生諸兄に、誌上でお礼を申し上げてあとがきとしたい。 平成六年八月十五日 かえらざる翼 あとがき より 注 ○印には「」(ぼう)の文字を挿入。 拙著「かえらざる翼」を北条司氏が劇画にして「少年ジャンプ」に連載したものです。 千葉県館山市 鶴賀様からのお手紙です。貴重な資料もご送付頂きした。(平成14年11月) 著書等紹介へ戻る [AOZORANOHATENI]
大東亜戦争が終結して既に半世紀が経過しようとしている。長い歳月の流れに拘わらず 若くして大空の彼方に消えた同期生の面影が事ある毎に今も眼前に彷彿とする。復員して 一旦は散りじりになった同期生も、地区毎に集まり、航空隊別の会合など重ねてその消息 も次第に判明してきた。そして、戦没同期生の慰霊祭を兼ねた全国同期生会も、ご遺族を お招きして定期的に実施されるようになった。 戦争末期の戦死公報などは形式的な記述のものが多い。そのうえ遺骨さえ還らない現実 に無情を感じられているご遺族が大勢おられるはずである。ご遺族の方々は、戦没者の生 前の生活や出撃の様子などの情報を、生存同期生に求めてこの会合に遠路参加されている ことは、その言葉の端々からも感じとることができる。 何処の基地からどんな飛行機に乗って出撃したのか? そして何時何分どのような状況 で戦死したのか? また生前どこの基地でどんな生活をし、どんな訓練を受けていたのか、 知りたい事は山ほどあるはずである。 しかし、搭乗員の宿命として死亡時刻や死亡場所など確認できる状態ではなかった。出 撃して、予定時刻になっても還らなければ戦死と認定される。また特攻隊員には初めから 帰還の予定時刻など無かったのだ。出撃即ち戦死である。最後の状況など誰も見ていない のが通例である。たとえ見ていた者がいたとしてもその者もまた後に続くのである。だが、 ご遺族としては戦死の状況や生前の生活など詳しく知りたいのは人情であろう。 当時の状況を回想すると、一枚のハガキを書くにも検閲を意識して事実を書くことは憚 られた。また特攻隊が編成されてもその事実を知らせることさえ禁止されていた。更に、 遺書を書くにしても確実に父母の手元に届く保証は無かった。そのうえ、他人の目に触れ ることを考えれば、通り一遍の文章しか書けず、本心をそのまま伝えることなど不可能で あった。 彼らと同じ立場を体験した我々は、遺書の行間に隠された文字を読み取り、その苦衷を 察することができるだけに、涙なくして読むことができない。しかし、今なら真実を話す ことができる。電話の発達した現在では想像もできないことだが、親や兄弟に伝えたいこ とが山ほどありながら、我々はその手段を持たなかったのである。 大多数の者は一枚の遺書を書く機会さえ与えられず、言いたいことも言えずただ黙って 大空の彼方へ消え去ったのである。その彼らの心情を推し量り、真の姿を少しでもご遺族 に伝えることができればとの念にかられ、生前の彼らと生死を共にした思い出を纏め拙文 を顧みずに出版したのが、「神風は吹かず」である。幸いご遺族や読者の方々からの感想 を頂いて光栄に思っている。 ある朝、「西日本新聞」の文化欄、溝口雄三先生(大東文化大教授)の「東往西来」を 読んでいて衝撃が走った。「百年同じく謝(お)つ西山の日、千秋萬古たり北○(ほくぼ う)の塵(北○は山名、北○の塵は死んで土に帰ること)との一文が目に止まったからで ある。 ○印の文字は「」(ぼう)。
昭和二十年四月、弱冠十七歳で沖縄特攻に殉じた伊東宣夫君の遺書に、 「北○山頭一片の煙と……」と書かれていた。浅学非才な私にはその意味が理解できず、 単に沖縄本島北部の山々程度に解釈していた。だから、「神風は吹かず」でも誤ったまま 紹介してしまったのである。 何とかこの誤解を解かなければと、西日本新聞の「こだま」や「風車」に原稿を送った。 しかし、掲載して頂けなかった。残る手段は自分自身で解決するしかない。それには改訂 版を出す以外にないとの結論に達した。 たまたま延岡市在住の長濱敏行君から、「神雷部隊」での体験手記を頂いていたので、 これを追録するとともに、内容の一部も改訂した。また戦没者名簿に出身府県名や戦没時 の年齢を追加するなどの一部修正を含めて、新たに「かえらざる翼」として出版すること にした次第である。 最後に各種貴重な資料を提供して下さった、鹿児島県東串良町の中西スミ子様や、同期 生諸兄に、誌上でお礼を申し上げてあとがきとしたい。 平成六年八月十五日 かえらざる翼 あとがき より 注 ○印には「」(ぼう)の文字を挿入。
[AOZORANOHATENI]