殉職事故の裏話
第8航空団(築城基地)業務隊長の西部3佐は私と同郷の福岡県田川郡の出身である。彼は
田川中学(旧制)から甲種飛行予科練習生を受験した。佐世保空で実施された2次試験の適性
検査では私と同じ班であった。入隊も同じ鹿児島空の同期生である。
彼は、上海空に渡り偵察員としての飛行訓練を受け、実施部隊は台南空に所属した。次に、
神雷部隊として有名な721空に移って活躍したいわゆる《特攻くずれ》である。彼の向こう
見ずな性格は中学生時代からのものである。その当時から「硬派」の代表格であった。だから、
彼の性格は特攻隊時代の影響とは言い難い。典型的な「川筋気質」の男であった。
航空自衛隊も公募空曹1期生として一緒に入隊した。幹部候補生の合格は彼が半年早かった。
その彼が、2等空尉時代にある部隊で業務小隊長として勤務していた時の出来事である。ある
夏のこと、彼の部下が磯遊びに行って誤って水死した。
普通であれば、部下が公務以外で死亡した場合には葬儀を取り仕切り、 香典を少々奮発して
弔辞を読めば、それで上司としての任務は終了する。だが彼は、遺された遺族の将来のことを
気遣い、公務死亡として処理する事を考えた。
そのためには訓練中の事故として、「一般命令」を出す必要がある。基地業務隊長と相談し
て、水泳訓練中の事故として処理することにした。命令の日付を遡って発令すことは不可能で
はない。それより問題なのは監督責任をどうするかである。
訓練指揮官は訓練中の事故に対して責任を負うのは当然である。だから、懲戒処分を覚悟し
なければできない処置であった。その懲戒処分も死亡事故が対象となれば軽度のものではすま
されない。また「減給」や「停職」などの重い懲戒処分を受けると期末・勤勉手当(ボーナス)
が減額される。そのうえ次期の昇任にも影響する。
当時私はこの事実を知らなかった。だから、事故の話を人伝に聞いて「西部の奴、訓練中に
死亡事故を起こすなんて、運が悪かったんだ……」程度にしか考えていなかった。ところが、
その後事故当時の彼の上司であった岡部3佐と同じ部隊で勤務する機会があり、この事件の真
相を聞くことができた。
全責任は私がとるからと言って強引に「一般命令」を起案したそうである。さすがに、義理
と人情の「川筋気質」の男である。並の人間にできる決断ではないと感心した。
一般に事故が起きると、いかにして責任を逃れるかを考える者が多い。他人のために進んで
泥を被る精神は貴重なものである。この犠牲的精神は、やはり特攻精神に通じるものがある。
西部君は私と同じ昭和18年8月、旧制中学5年1学期終了の満16歳で予科練に入隊した。
中学生時代の言動から彼は代表的な「硬派」だと思っていた。ところが人は見かけによらない
ものである。予科練に入隊する前、すでに交際している女学生がいたのだ。そして、 上海空の
飛練時代、彼女との文通が教員に見つかり制裁を受けている。これは、最近になって彼が告白
した物語りである。彼にも多感な青春時代があったのだ。
*
昭和19年12月、百里原空で雷撃訓練中に空中衝突事故を起こして同期生を含む5名の者
が殉職した。遠く長崎市から駆けつけて、海軍葬に出席された浅井勇三君の父親が、
「『殉職』では遺骨を持って故郷には帰れません、何とか『戦死』にして下さい……」
と、涙ながらに哀願される一幕があった。
またこの事故で殉職された、堅田瑞穂飛行兵曹長は甲飛4期の先輩である。航空母艦瑞鶴の
雷撃機搭乗員として珊瑚海々戦に参加され、アメリカ空母レキシントンに対して肉薄雷撃を敢
行して抜群の功績を挙げられた。しかし、「戦死」と違い訓練中の事故による「殉職」では、
叙位叙勲もなく、故郷に錦を飾ることもできなかった。
「何でこんなことで死んだ!」
と、嘆かれた父親の気持ちには、事故で死ぬくらいなら、珊瑚海々戦で敵艦と刺し違えてでも
「戦死」して欲しかった。との願いが込められていた。
戦争中の風潮としては「戦死」は最高の名誉であるのに反し、訓練中の「殉職」はややもす
ると身の不始末と見られ、恥辱とされる傾向さえあった。だから、父親の願いは尤もなことで
ある。しかし、われわれにはどうすることもできなかった。
練習生を卒業して、実施部隊で勤務するようになりいろいろな事例に遭遇した。903空で
の出来事である。早朝に対潜哨戒に出発した一機が予定時刻を過ぎても帰投しない。その時期
敵機動部隊の来襲はなかったので、エンジン故障による不時着と判断された。それにしても、
電報一本打つてこないとは不思議であった。
古参の搭乗員に言わせると、原因は間違いなく居眠りだと断言する。一人でも着水前に目が
覚めれば事故には至らず無事に帰投できたのである。数日が過ぎても消息が不明で「戦死」と
認定された。
単調な哨戒飛行が5〜6時間も続けば眠くなるのは当然である。特に最終コースで基地が近
付くにしたがって気も緩んでくる。
私も経験がある。903空時代に筑波派遣隊を離陸し館山基地の本隊に帰る1時間足らずの
コースでの出来事である。天気も良く目視飛行で航法の必要もないので、 安心して盛んにお喋
りしていた後席が急に静かになった。振り返って覗き込むと、偵察席も電信席も共に白河夜舟
であった。
また、要務飛行で八丈島派遣隊に飛ぶ準備をしている飛行機があった。見ていると60キロ
爆弾を搭載している。人員輸送が目的だから、爆弾を積まないほうが身軽なのにと思っていた。
ところが、これには別の魂胆があったのだ。爆弾を積まず単なる要務飛行で不時着などの事故
を起こして死亡すれば「殉職」扱いである。しかし、爆弾を積んで飛行目的を「対潜哨戒」に
しておけば、たとえ不注意による事故であっても「戦死」として取り扱うことができるからで
ある。
最近、戦没同期生の名簿作成のため当時の死亡状況の調査を行った。個々に状況を調べると、
訓練中の事故で明らかに「殉職」と思われる事例でも「戦死」と認定されている。その反面、
当然「戦死」と認めてもよいと思われる状況でも「殉職」と厳しく判定している事例も見受け
られる。これは当時の部隊指揮官の人格や、人事担当分隊士の性格などに因る判断の差である
と思われる。
*
現在自衛隊の「殉職」に対する考え方は、旧軍におけるそれと大きな開きがある。それは、
旧軍のように「戦死」と比較対照されないからである。また公務か非公務かの判断にも部隊指
揮官の人格が反映される。だが、同じ公務死亡と認定されても、その内容は千差万別である。
航空機事故についても同様である。スクランブルの指令を受けての行動中で、止むを得ない
事故もあるし、これに準ずる訓練実施中の事故もある。これらは、自衛隊の任務遂行のための
貴い犠牲であり、またそれによって貴重な教訓が遺されるのである。
ところが、中には疑問の残る事故もある。例えば、本来の任務を逸脱し、上司の許可も受け
ずに意識的に訓練空域を遠く外れて飛行し、同乗させた整備員に迎合して気象状況も考慮せず
に低空飛行を行って山腹に激突した事例である。
当時者は生命で代償を払い、部隊側は貴重な飛行機を喪失したうえ、捜索や遺体収容それに
後始末と、費用と時間の浪費を重ねる結果となる。そのうえ新聞種にでもなれば恥の上塗りで
ある。関係者はこれらの対応に悪戦苦闘する。航空自衛隊の正常な発展のためにも、この種の
事故は撲滅したいものである。
それには、訓練中の「殉職」は名誉ではなく恥辱であるという旧軍時代の考え方を復活させ
る必要があると思う。死者を鞭打つ気持ちは更々ない。しかし、公務中であればいくら本人の
不注意が原因の事故であっても、すべて名誉であるかのように取り扱う現在の風潮は改めるべ
きではなかろうか。
4級賞状受賞記念。会計隊一同。
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