予科練出身者集合
各隊に着任の挨拶回りをした。通信隊長は甲飛10期の先輩である木船3佐、飛行場勤務隊 長は私と甲飛同期の末富3佐、業務隊長は甲飛15期の岡部3佐である。基地業務群以外にも、 適性検査隊長上村2佐(甲飛13期)、適性検査隊河本3佐(甲飛13期)、整備補給群整備主任 三原3佐(甲飛13期)、補給隊長岡崎1尉(甲飛15期)とそれぞれ要職を占めている。また 気象隊には、幹部候補生同期の前田3佐(甲飛14期)が勤務していた。
よくもこれだけ甲飛出身者を集めたものである。そのうえ、基地業務群本部勤務の岡野准尉 (甲飛15期)が「海友会」と称する旧海軍出身者の親睦会を作ってその世話役をしていた。 毎年5月27日の「海軍記念日」には、記念行事を盛大に行うとのことである。 「海友会」の会員名簿を見せてもらって驚いた。戦艦長門の艦長を勤めた、兄部少将を筆頭 に多士済々である。甲飛出身者だけでも防府北基地に13名、南基地にも6名在籍している。 また自衛隊以外にも甲飛10期の先輩を含め、市内居住者十数名が名を連ねていた。 これらの関係者は、帝国海軍の残党が集まり共に歓談を楽しめる、年に一度の「海軍記念日」 を待ち遠しく思っている様子であった。 私は、芦屋基地同様ここでも単身赴任して幹部宿舎に入居した。ここの幹部宿舎は基地外の 官舎地区にあって、南北両基地の幹部が同居していた。正確に言えば南基地の管理する宿舎に、 北基地や陸上自衛隊第13飛行隊の幹部がお世話になっていたのである。 そして、芦屋基地と違いそれぞれが個室であった。テレビに冷蔵庫それにマージャン卓を取 り揃えた私の部屋は、忽ち愛好家の溜まり場となり、快適な夜の生活を送ることができた。 班長時代の浜田君 南基地補給隊長の浜田1尉も幹部宿舎に入居していた。彼とは浅からぬ因縁があった。私が 第1期の公募空曹として、 自衛隊に入隊した時の班長であった。そして、第10期の幹部候補 生として奈良に入校した際は同期生である。 幹部候補生学校を卒業して数年後、私は脊振山サイトに転属した。当時の補給班長中島1尉 が事故で死亡されたとき、その後任として着任したのが彼であった。官舎も隣合わせに住み、 お互い家族を含めての交際を続けていた。 彼は真面目な性格でマージャンなどの遊びには興味を示さず、 酒も程々で、仕事一筋の男で あった。その彼が突然入院して胃癌の手術を受けた。突然と言ったのは、その前日まで普通に 勤務し、毎日の駆け足も人並み以上の距離で頑張っていたからである。だから入院したと聞い ても、まさか? と信用しなかったのである。 術後の経過も良好で面会も可能だと聞いたので、幹部候補生同期の前田3佐を誘って見舞い に行った。思ったより元気そうである。 「浜田、お前……、胃癌ということに自分では気が付かなかったの?」 胃癌に自覚症状がなかったとは考えられないからである。 「うーん、体重が少し減っていたけど、これはジョギングのせいと思って気にもしなかった」 「走っていて、きついことはなかったのか?」 「うーん、特別に感じなかった。ただ、今になって考えると、あの方が半年ばかりご無沙汰し ていた……」 「ホー、胃癌にはそんな症状が出るのかなぁー?」 「でも、全然その気にならなかったもの……」 「医者にそのこと、話したのか?」 「まさかぁー……」 そのまま順調に回復すれば笑い話ですんだのである。ところが退院して自宅療養を行ってい た彼が、また入院したことを知った。そして、再び彼の元気な姿を見ることはできなかった。 まだ40歳を過ぎたばかりである。返す返すも残念なことであった。惜しい同期生を亡くした ものである。目次へ戻る 次頁へ [AOZORANOHATENI]