自衛隊こぼれ話

       百里原海軍航空隊

 航空自衛隊百里基地は、その昔、百里原海軍航空隊があった場所である。私は谷田部空での 中間練習機課程を終了して、昭和19年7月この地に移り、艦上攻撃機による飛行訓練を開始 した。霞ケ浦上空での編隊飛行訓練や大洗崎沖での雷撃訓練など、数々の思い出が残っている。  飛行術練習生の卒業も近づいたある日、分隊士堅田飛曹長に呼ばれた。そこで、長兄がフィ リピン方面で戦死したとの公電があったことを知らされた。そして、「必ず仇をとれ!」と、 激励された。  昭和19年12月21日、大洗岬沖での雷撃訓練に出発した堅田飛曹長は、編隊集合の際の 空中衝突事故で殉職された。卒業を前にしてわれわれの配属先が発表された。私の配属先は、 903空であった。この部隊は海上護衛部隊の中核として、 敵潜水艦の捜索攻撃を主な任務と する航空隊である。ここで、堅田飛曹長から生前聞かされた言葉の意味を悟った。私の長兄は 去る10月26日、バシー海峡において敵潜水艦の雷撃を受けて戦死したのであった。  暮れも迫った25日、すべての訓練を終了したわれわれは、決戦の大空へと巣立っていった。 明けて昭和20年、戦局は推移して沖縄方面への侵攻が予測されるに至り、決戦準備が進めら れた。そこで、練習航空隊は廃止され実戦部隊に編成替えとなったのである。 そのうえ、全機 特攻の指令が発せられ、次々に特別攻撃隊が編成された。  百里原空では、われわれを教え育てた教官教員が中核となって、訓練に使用していた飛行機 で、「体当たり攻撃」を実施することになった。編成された特別攻撃隊は、艦上爆撃機は国分 基地へ艦上攻撃機は串良基地へ進出し、沖縄周辺へと還らざる攻撃に飛び立つたのである。  昭和20年4月 6日  第一正統隊 九九艦爆10機20名 大 尉 桑原  知  国分  同    4月12日  常磐忠華隊 九七艦攻 6機18名 大 尉 西森 秀夫  串良  同    4月16日  皇 花 隊 九七艦攻 4機12名 中 尉 畑  岩次  串良  同    4月28日  第一正気隊 九七艦攻 2機 6名 少 尉 須賀 芳宗  串良  同    同      第二正統隊 九九艦爆 6機12名 中 尉 後藤 俊夫  国分  同    5月 4日  第二正気隊 九七艦攻 2機 6名 中 尉 五十嵐正栄  串良 同  5月25日 第三正統隊 九九艦爆 1機 2名 上飛曹 安斉 岩男 国分 右は出撃年月日、隊名、機種、突撃成功機数、戦死者数、指揮官、出撃基地である。 またこの「体当たり攻撃」には、次の教官教員(艦上攻撃機隊関係)及び同期生が参加している。  教 官 常磐忠華隊 大 尉 西森秀夫 (福井)  中 尉 中西達二(山口)   教 員 同      上飛曹 春原宗治 (長野) 横山安詔(鹿児島) 高尾重夫(山口)                増子定正 (福島)     皇 花 隊 上飛曹 吉池邦夫 (東京)    第一正気隊 上飛曹 桐畑小太郎(大分)  同期生 第一正気隊 2飛曹 弥永光男 (福岡)   第二正統隊 2飛曹 福田周幸 (福岡) 漆谷康夫(福岡) 伊東宣夫(大分)                小野義明 (福岡)  いかに国のためとは言っても、「体当たり攻撃」がいかなる意味を持つのか、平和に慣れた 現在の人々には想像もできないであろう。ここに、「神風特別攻撃隊」の一員として散華され た同期生の遺書の一部を紹介させていただく。     遺 書   十有七春秋逝くものは將又何 幼時濃藍の空に浮かぶ三日月を眺め何を 願いしや 悠久三千年 皇国の歴史は今日何おか語る 噫々時遂に来る  粉骨以って皇國に報ゆる時は来れり 既に右田戦死し真島又沖縄に散る   われら貴様等のあとをしたいて 今日特攻の一員に加わる事を得 喜ぶべし 武人の本懐これに過ぎるものなし   それ報恩の道 今日をおきて又何れの日にか求めむ     三千とせの 歴史守りて捨つる身と          思えば軽き わが命かな      いざ勇み 我は出て征く琉球の          空に散りにし 友をしたいて   寸骨を埋むる 豈青山を待たんや  吾身北邱山頭一片の煙とならむとも   英霊とこしへに祖國を守らん 皇天后土 願はくば吾が機を守らしめ給へ   古より曰く“一念石に立つ矢の験あり”と 何ぞ一撃沈まざる敵艦やある    快なる哉 壮なる哉この一挙 桜花の下いざ若桜 勇躍征かん   天皇陛下萬歳 帝國海軍萬歳   最後に 皇恩の萬分の一にも報ゆる事の出来ざるを詫び    又吾人をして 今日まであらしめ給ひし   御両親 教官 教員 恩師に対し 衷心より感謝申し上ぐ次第なり        百里原空特攻隊   海軍二等飛行兵曹  伊 東 宣 夫    辞 世       行く春に 逢はで散りゆくますらおの              心は常に 楽しくありけり       煙り吐く 桜が島に生いたちて              煙り吐く日に 桜散り行く  故海軍少尉伊東宣夫君は大分県佐伯市の出身である。昭和20年3月、百里原航空隊におい て「神風特別攻撃隊・第二正統隊」の一員となる。同年4月、鹿児島県第2国分基地へ進出。 昭和20年4月28日15:15、九九艦爆に搭乗して同基地発進。沖縄周辺の敵艦に対して 必死必殺の体当たり攻撃を敢行。(行年十七歳)                   *  次に、「神風特別攻撃隊・第一正気隊」故海軍少尉弥永光男君の絶筆を紹介させていただく。 彼も百里原空で艦上攻撃機による特別攻撃隊に編入され、前線基地の串良に進出した。出撃に 際し、便せん一枚に書いた次の遺書を、故郷福岡県三井郡山本村に住む母親ハルヱさんに届け てほしいと、同期生萬善東一君に無理を承知で依頼した。昭和20年4月28日早朝のことで ある。      母上様、長い間色々とお世話になりました。      いさぎよく敵空母に突込んで行きます。      皆々様、どうかお身体に充分注意されんことをお祈り致します。         出撃の朝           百里原空 神風特別攻撃隊                  海軍二等飛行兵曹 弥 永 光 男       母上様       姉上様  私は、この簡潔な文章の行間に彼の苦衷を感じ取り涙なくして読むことができない。当時は 下士官兵の生活に自由などない。一枚のハガキを出すにもすべて検閲を受けるので、本心など 書ける雰囲気ではなかった。さらに特攻隊が編成され、遺書を書く段になっても、必ず肉親に 届けてもらえる保証もなかった。また、検閲などで他人の目に触れることを考えれば、心の中 をそのまま書くことなど思いも寄らないことであった。  恐らく彼も、特攻隊が編成されてから遺書を書くことで悩んだに違いない。まず他人の目に 触れずに確実に母親に届ける手段を模索したであろう。これができれば思いの侭を書き残すこ とができるからである。しかし、これは不可能に近い。次に、 心情をいかに表現するかである。 もし他人に読まれても不自然でない文章で、肉親には本心を伝えることを模索したに違いない。  その当時、電話もある程度普及していた。だが、官庁とか大きな商店しか加入しておらず、 また遠距離の市外通話など、ほとんど聞き取れないのが実情であった。電話の発達した現在で は想像もできないことである。  戦後知った話である。同期生故松木学君は訓練基地美保で「銀河」による特攻隊に編入され、 前線基地宮崎に向かう途中で編隊を離れて生家の上に飛び、母親に宛てた遺書をマフラーに包 んで投下するという非常手段をとった。  しかし、これは故郷が飛行経路に近い愛媛県であり、偵察員が同期生の山根三男1飛曹で、 下士官だけのペアであったことなど、条件が揃ったからできたことで、例外的な事例である。  同じ境遇を体験した私には、彼の胸中を察することができる。あれも書きたいこれも残した いと思いながらも、結果的には何一つ書けずに通り一遍の文章になったと想像する。彼はこの 数行の文字を書くのに、恐らく一睡もできなかったのではなかろうか。  「いさぎよく」この五文字に彼の苦衷が凝縮されている。書きたいことが山ほどありながら 一晩かかっても纏めきれず、万感の思いをこの五文字で表現したのであろう。この世の未練や 肉親との哀惜の情をいさぎよく断ち切り、命令にしたがって敵艦に体当たりするという彼の決 意は、誰に見られても恥ずかしくない立派なものである。しかし、内心では伝えたい事の万分 の一も書けない焦燥に打ち拉がれていたであろうと推察する。  あれからすでに30年余が経過した。われわれが練習生当時の飛行隊長、後藤仁一氏の呼び かで、海軍時代の関係者が集まり、航空自衛隊百里基地の一隅に桜を植えて記念碑を建立した。 碑銘は次のとおりである。        ここに百里原海軍航空隊ありき        記念に桜を植えその栄光を伝う       昭和五十一年三月          百里原海軍航空隊有志  そして、戦死者及び殉職者の名簿を軍艦旗につつみ、3吋砲薬莢に収めて碑の下に埋めた。 形は歴史を語る継ぐ記念碑としたが、われわれの真の願いは慰霊碑である。当時、航空自衛隊 百里基地には同期生が2名在隊していた。司令部総務部長の鶴田2佐と整備補給群補給隊長の 江藤2佐である。彼らの協力で碑の建設も順調に進み除幕式を迎えた。
 江藤2佐とは前にも述べたとおり、予科練から飛練そして百里原空の実用機教程と共に訓練 を受けた仲である。除幕式には必ず出席せよと案内を受けていたのだが、会計検査院の検査の 日程と競合し、出席できなかったことを今でも残念に思っている。
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