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  最後の特攻出撃

         同期生との雑談。  長谷川昌昭君は、鹿児島空の予科練から谷田部空の飛練と同じ分隊で苦労を共にした仲 である。戦後再会して旧交を暖めている。彼は三〇二空の所属で、終戦の際に「厚木事件」 に加担し「軍法会議」にかけられた経歴の持ち主である。  ある年の同期生会で私が、「俺が今度本を出すのに、お前の厚木事件の体験談を載せた いと思うから、原稿を書いてくれないか……」と頼みました。「神雷部隊」で出撃経験の ある、長浜君や「白菊特攻隊」での出陣を体験した、藤岡君の原稿は既に手元に届いてい た時期である。  ところが、「馬鹿言うなよ! 俺は巣鴨にかまって(収監されて)軍法会議にかけられ、 下士官から兵隊に降等された人間だぞ! 皆に自慢できるような話なんかじゃないぞ!」 と剣もほろろであった。  二村君(二十二分隊一班)と長谷川君(二十二分隊二班)は隣同士の班で訓練を受けた仲で ある。「二村よ、お前らは戦争が終わってから出撃したのに、何のお咎めもないのか…… 俺たちのは計画だけで、出撃もしていないのに軍法会議だ! 不公平とは思わんか……」 「馬鹿言うな、戦死した人間を軍法会議なんかにかけられるか…… 」 「お前らの出撃は十六日で、停戦命令が出た後だったと永末や出が言ってるが、本当はど うなんだ…… 」 「永末の奴、あんな事を言い出しやがって、真相は俺しか知らんのに…… 」  二村君は最後の特攻の生き残りとして、いろいろな作家からの取材を受け、実情を話し たのだが、必ずしも彼の真意が伝わってないことに、不信感を持っている様子であった。 だから私は、自分の筆で真相を書いて発表しないかと勧めた。そして、彼から送られてき た手書き原稿を活字に直し、再度の校正を経て出版社に送った。  彼の意に反する加筆や訂正は一切行っていない。当時の校正資料は現在も保管している。 また、「宇垣特攻十六日説」との並行掲載も考えたが、真相はいずれ解明できると思って 見送ることにした。      最後の特攻出撃  「白菊特攻隊」第二部 かえらざる翼 (光人社刊)    二 村 治 和(愛知県出身)  私は谷田部航空隊で赤トンボをやり、宇佐航空隊で九六艦爆と九九艦爆の操縦教育を受 けた。この時の分隊長兼教官が、「宇垣特攻」の指揮官として出撃した中津留大尉である。 海上自衛隊鹿屋基地の資料館にその遺影が飾られている。 ふっくらとした温顔の士官で、 私は特に可愛がってもらった。最後の出撃に際して、私を二番機につけてくれたのである。  昭和十九年十一月、飛練を卒業した私は明治基地の二一〇空に赴任した。ここで、彗星 艦爆(三三型)の操縦員として錬成訓練を開始した。実家から近かったので、訓練飛行の たびに我が家が無事かどうか確認することができた。鹿児島県の国分基地に進出したのは、 昭和二十年三月末である。中津留大尉も少し遅れてやってきた。出撃の機会は二回あった が一度は中止、一度は屋久島の上空まで進出した時、「引き返せ」の命令を受けた。  六月に再編成のため、美保基地まで後退した。私物はほとんど国分基地に残したままで ある。後輩甲飛十三期生出身の栗原浩一二飛曹とペアを組んで、近くの隠岐島〜米子基地 〜美保基地のコースを飛んで訓練を行っていた。  七月始めごろ、中津留大尉に率いられて大分基地へ向かった。大分基地上空に着いたの は夕方五時ごろであった。着陸寸前のことである、前方の一番機がいきなり機首を起こし て急上昇していくのが見えた。私もハッと気づいて急上昇して離脱した。全く突然という 感じで、グラマンF6Fに襲撃されたのである。私は目の隅で三番機が別府湾に落ちてい くのを見た。  耶馬渓の上空まで退避し、時間を見計らって引き返した。敵機は引き揚げたらしく、よ うやく着陸することができた。その後も頻繁に空襲を受けた。そのため、飛行機は掩体壕 に隠したまま温存された。飛行訓練は止むなく中断して待機する日々が続いた。  八月十四日の夜、珍しく中津留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきた。 「今夜はひとつ、皆であるだけの酒を飲んでしまおうや……、貴様たちも取っておきを出 さないか」 大尉からそんなことを言われるのは初めてのことである。一斉に歓声を上げながらそれぞ れ秘蔵の酒を持ち出し、二十名ほどが車座になって酒盛りを始めた。大尉は酒には滅法強 い、いくら飲んでも酔った様子はなくニコニコ笑っていた。私は酔い潰れて、いつ寝たの か全く覚えていない。  「出撃命令だぞー」と、揺り起こされた時は既に午前九時を過ぎていた。素早く飛行服 を着込んで、宿舎まで迎えに来たトラックに乗り込んだ。 「これは特攻だ! ついに来るべきものが来た」と、私は感じた。トラックが飛行場に向 かう途中、 積んであった陣太鼓を打ち続けた。心の昂ぶりを押さえかねて撥を叩きつけた。  海軍橋の袂で道路作業をやっていた、甲飛の後輩たちが、 「先輩、頼みまーす!」と、トラックを追いかけ、涙を溜めて口々に大声をかけてきたの を覚えている。  飛行場には十時ごろ着いた。「搭乗割」の黒板を見ると、二番機に私の名前があった。 中津留隊長機に続く二番機の指定である。私は少なからぬ感激と優越感をおぼえた。十二 時出撃とのことで待機していたが、そのうち出撃命令はなぜか解除され、 「そのまま待機せよ」と、指示された。私たちは指揮所に近い裏川の土手の上に行って、 昼飯の赤飯の缶詰とパイ缶を食べた。  私たちは正午に、天皇陛下の重大放送があったことについては何も聞かされなかった。 午後何時頃だったか覚えていないが「沖縄に特攻をかける」との命令がきた。「搭乗割」 から洩れていた連中が、同行させてくれと騒ぎだした。黒板を蹴倒したり、男泣きしなが ら隊長に詰め寄るさまを、私は選ばれた者の一種の優越感をもって眺めていた。 「爆弾を八〇番に変更せよ」との指示で、積み替えを実施したが、弾倉に入りきらず半 ばはみ出したまま装着した。「ガソリンも半分抜き取れ」との指示もでた。  午後四時、われわれ二十二名は二列横隊で指揮所前に整列した。私は右から三番目に並 んだ。日の丸の鉢巻の裾を長く背中に垂らして、 次の命令を待っていた。やがて黒塗りの 乗用車が三台近づいてきた。私は内心驚いた。高官たちが揃って見送りにくるなんて初め てのことである。更に、第五航空艦隊司令長官の訓示があると告げられた時は耳を疑った。  第三種軍装の宇垣中将が折り畳み椅子の上に立ち、 「本職先頭にたって、今から沖縄の米艦艇に最後の殴り込みをかける。一億総決起の模範 として死のう!」と言われ、山本五十六元帥から戴いた短剣をぐっと前に突き出された。 われわれも一斉に、「ワーッ」と歓声を上げ右の拳を突き上げた。続いて、中津留大尉が、 「降爆してから一旦機を引き起こし、そのあと空身で突っ込め」と、指示された。  一番機の操縦は中津留大尉、その後席に宇垣中将と遠藤飛曹長が乗り込んだ。一番機に 続いて二番機の私も離陸、初めて積んだ八〇〇キロの重さで、一、〇〇〇メートルの滑走 路を一杯に使ってようやく海面スレスレに浮上した。    別府湾や青い山々を見下ろして、これが祖国の見納めかと感慨にふけりながら、隊長機 に従い阿蘇山を越えて九州を横断し東支那海を南下するコースをとった。高度四、五〇〇 メートル八代海を抜けた付近でプロペラピッチを二速に切り替えた。途端に《ガタガタガ タッ》と振動がきた。みるみるうちにブースト計、油圧計、回転計の針がゼロを指してし まった。手動ポンプをついてみたが回復せず、ついにプロペラも止まってしまった。 「どこら辺だ! 甑島辺りか!」 「よく分かりません……」 「馬鹿やろう!」 と怒鳴り返したが、もう隊長機を見失ってしまった。とにかく不時着するしかない。高度 一、五〇〇メートルで爆弾を捨てた。海に降りて鱶の餌食になるのは御免である。海岸を 目指したがとても無理な距離である。 「不時着するぞー」と後ろに叫んだのと、左翼端が海面を叩いたのが同時であった。機は クルクルット激しく一回転して浮かび、逆立ちは免れた。風防を押し開け、栗原と一緒に 海に飛び込んで海岸目指して泳いだ。泳ぎ着いて分かったのだが、そこは鹿児島県の西方 であった。  昭和五十九年、私は三十九年前に泳ぎ着いた砂浜を再び踏み締めた。そこは私の第一の 人生を締めくくり、第二の人生の第一歩を踏み出した美しい砂浜、西方海岸である。当時 十九歳であった。
最後の特攻出陣式。右端、中津留大尉。三人目、二村一飛曹。
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