「三矢研究」の後遺症
昭40年2月、防衛庁の実施した「三矢研究」が、衆議院の予算委員会で問題となる事件が
起きた。「三矢研究」とは、第2次朝鮮動乱が勃発したとの想定で、これの対応処置を研究し
たものである。ところが紛争が起きた場合の行動において、現行法規では対応できない問題点
にまで踏み込んで研究していたことが仇となったのである。
これに懲りた自衛隊では、以後この種研究には非常に消極的になった。そのため現行法規の
範囲内との条件付きで、有事に際していかに部隊を運用すべきかの研究が始められた。その研
究の一部を担当していたのが、第3術科学校の研究部である。
「有事における部隊運用」が研究の主題である。紛争が起きた場合の部隊運用のうち、後方
支援部門について、編制単位部隊ごとの運用を研究し、その対応策を纏めることになっていた。
「有事における、航空団会計隊の運用基準」。これが天皇に与えられた課題であった。
私が赴任した当時の研究部長は沖津1佐である。沖津1佐は、元幹部候補生学校業務部長の
職にあり私の上司であった方である。数ヵ月前に研究部長として着任して、前任者から引き継
ぎをうけた。ところが、補給、施設、輸送、給養など他の後方支援部門はすでに完成している
時期に、ひとり会計隊部門のみがほとんど手付かずの状態であることを知った。
そこで天皇を督励して、完成を急がせていたのである。ところが、研究部長の手に負えるよ
うな天皇ではない。ほとほと困り果てていた所に私が着任したというわけである。これ幸いと
私に助力を求めてきたのだ。さーて困ったことになった。天皇の誇りを傷付けるわけにはいか
ない。さりとて、研究部長の窮状を見過ごすこともできず進退ここに極まったのである。
しかし、このまま放置することもできず研究部長との相談が纏まった。課題作業は研究部の
所管であるが、教育部所属の私が個人的に行い、その成果は直接研究部長に提出する。その代
わり、研究部長から私の所属する第1教育部長と第3科長に了解を得てもらい、作業に必要な
時間的余裕を確保していただく。ということで話がついた。
ところが結果的には、教育部長や第3科長から特別な時間など全く与えてはもらえなかった。
そのうえ転属と同時に「教育技術課程」の受講を命じられていた。だから学生として授業を受
けながら余暇を利用して、天皇が3年間も温めていた課題を、たったの3ヵ月の間に仕上げな
ければならなかったのである。
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教育技術課程受講記念。
これは大変な作業であった。お陰でマージャンやブリッヂそれにゴルフなどの遊びは、当分
の間断念するしかなかった。そのうえ皆が楽しみにしている、メキシコオリンピックのテレビ
放送までも犠牲にして、連日連夜この「運用基準」作成に専念した。
この作業実施に当たり、幹部学校普通課程の課題研究が非常に役立った。また、航空自衛隊
の全体的視点からの基地運用と、航空団会計隊の所掌任務についての研究は、個人的にもよい
勉強になった。
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