トラ・トラ・トラ
幹部候補生学校での勤務も5年になり、次の配置について空幕から打診が始まった。北海道
の千歳基地か北陸の小松基地所在の戦闘航空団勤務が濃厚となった。どちらも寒い所である。
九州育ちの私には寒さが苦手である。何とか暖かい九州へ帰りたい一心で、教官配置を希望し
ていた。幸運にも7月10日付で第3術科学校所属が発令され、故郷に近い芦屋基地に赴任す
ることができた。
昭和43年は、1月に原子力空母エンタープライズの佐世保入港反対運動があり、全国的に
学園紛争が続発し、東京大学の安田講堂が学生に占拠されるという事件もあった。そして6月
2日には、九州大学工学部に建設中の電算機センターに、アメリカ空軍板付基地のF4ファン
トム戦闘機が墜落して、ここでも基地反対運動が盛り上がっていた。
着任してみると、アメリカの20世紀フォックス社と日本の東映との合作で、帝国海軍の真
珠湾攻撃を映画化した、「トラ・トラ・トラ」が撮影の真っ最中であった。芦屋飛行場西側の
海岸には、航空母艦「赤城」と戦艦「長門」の実物大のセットが建造されている。艦首を海に
向けているので、艦尾の方から見るとちょうど海に浮かんでいる感じである。
戦艦長門 実物大模型。
またT6練習機の外観を97式艦上攻撃機や零式戦闘機に似せて改造し、これを飛ばしなが
らいろいろな情景を撮影している。自衛隊も全面的にこれに協力していた。
ここで「トラ・トラ・トラ」の語源を初めて知った。「トラ・トラ・トラ」とは「我、奇襲
ニ成功セリ」との隠語である。真珠湾攻撃に際して第1次攻撃隊の指揮官淵田中佐が、機動部
隊指揮官宛に発信した有名な電文である。
聯合艦隊司令長官山本大将はブリッヂの名手であったと聞く。ブリッヂで「スリーノートラ
ンプ」というコールがある。これは切札を決めずに9トリックを獲得するという宣言である。
成功すれば一発で勝負を決めることができる。普通これを「スリートラ」と略してコールする。
この「スリートラ」が隠語「トラ・トラ・トラ」発想の元であるという。真偽の程は明らかで
ない。
*
第3術科学校には「教育技術課程」という特別な課程がある。教官の資格を取るためには、
8週間のこの課程を履修しなければならない。8月中旬から10月初旬にかけて、同課程の履
修を命じられた。教材の作り方や試験問題の作成要領など、盛りだくさんな教育内容である。
私は子供の学校の都合で単身赴任していた。そのうえ学生の立場では責任が伴わないので、
気分的には楽な毎日であった。幹部宿舎に居住して、毎晩マージャンやブリッジで暇を潰して
いた。
またゴルフを始めたのもこの時期である。当時西戸崎にあったアメリカ軍「キャンプ・ブレ
ディー」に、9ホールのゴルフコースがあった。平日は1弗週末が2弗で利用することができ
た。だから、土曜日の午後、帰宅途中ここに立ち寄ってゴルフを楽しむことにしていた。
ところが楽しいことは長続きしない。降って湧いたような問題が起こった。またまた天皇に
絡んだ事件である。会計職域にも天皇がいた。彼は昭和29年に陸上自衛隊からに転換して、
航空自衛隊の草創期、会計教官の配置にいた人物である。私も「会計空曹課程」と「会計幹部
課程」の2回にわたってその薫陶を受けた。
個性が強く、決して妥協しない性格であり階級以上に君臨していた。その頃からすでに天皇
の称号で呼ばれていた。この称号は陸上自衛隊時代からの申し送りかも知れない。はったりが
強く、会計法規などはすべて暗記しているといった顔をしていた。
会計空曹課程での出来事である。何かの試験で○×式の出題があった。解いて行くとほとん
ど○である。しかし、こんなはずはない、○×式での正誤の割合は普通半々である、偏っても
3分の1までであろう。半信半疑ながら無理に幾つかに×をつけた。ところがやはり全部○が
正解であった。一般の常識が通用しないのが彼の本領である。
その天皇が、第16飛行教育団(築城基地)の会計隊長に配置された。口先だけなら、航空
幕僚監部の会計課長でも勤まる人物である。ところが、現実は厳しい。理屈どおり行かないの
が世の常である。部下の出納係が、金銭を着服する事故を起こしたのである。金額はたいした
額ではなかったのだが、長期間にわたって収入金を帳簿に計上せずに横領していたことが発覚
した。当人は即刻「懲戒免職」の処分を受けたのはもちろんである。
次に天皇の監督責任が問題となった。長期間この不正を発見できなかったのだから当然であ
る。ところが天皇は自分に落度はないと主張して譲らない。確かに監督責任の範囲については
判断が難しい。
航空自衛隊でもこの種の事故は何度か起こしている。ただいえることは、事故処理にも上手
下手があることだ。事故は止むを得ないが、事故処理が見事であったと評価された者もいる。
その反面、事務上の単純なミスなのに、 これを隠そうとしたために、却って疑いを深められた
事例もある。
あるレーダーサイトの会計小隊長が、小切手の金額を誤って印字して支払うミスを犯した。
事情を説明して過払い分を回収すれば問題は起こらなかった。ところが彼は、間違った金額を
正当化するため関係書類の方を改竄した。結果的に不正行為と判断され、会計幹部を更迭され
る事件があった。
天皇の責任問題は紆余曲折の結果、とりあえず空幕の監理課に配置された。次に第3術科学
校の研究部に転属となった。ところが、それ以後停年までの9年間、どこの部隊からももらい
の口はかからなかった。
栄枯盛衰は世のならい。天皇の名声も落ちれば落ちるものである。第3術科学校では古巣で
ある教官室に行っては無駄話をしたり、会計課に顔を出しては暇を潰したりで、特に仕事らし
い仕事をしている様子は見受けられなかった。第3術科学校会計課は課長の羽谷3佐(会計幹
部課程同期)を始めとして、隊員はほとんど彼の教え子であり、教官室の教官も同様である。
だから誰に遠慮もいらない立場であった。
私が赴任した時も、このような状態がすでに7年間も続いていたのである。本人の精神状態
はともかく、他人から見れば、真に羨ましい存在である。ところで仕事がないどころか、3年
も前から研究課題が与えられ、その提出期限が目前に迫っていたのである。
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