天 皇 諌 言
航空自衛隊では幹部に対して、毎年一編、研究論文の提出を義務付けていた。課題は事前に
指示される場合もあるが、通常は自由課題であった。毎年提出期限が近付いても題目すら決ま
らず、目前になって慌てて書き上げるのが通例となっていた。
その頃教育部長は武者1佐に代わって、某1佐が着任していた。彼は武者1佐とは陸軍士官
学校同期生の53期出身である。このクラスには豪傑肌の人物が多く、彼も武者1佐以上にう
るさい存在であった。
そのため、陰では○○天皇と呼ばれていた。われわれが、こういう呼び方をするときの天皇
とは、新憲法の象徴天皇を意味するものではない。絶対的権威の権化として名付けられるもの
である。しかし、尊敬の念は込められていないのが普通である。
教育部の教官連中は、やれ剣道だ、やれサッカーだと連日のように鍛えられていた。天皇は
剣道が得意で、特別製の太い竹刀を持って遠慮会釈もなく殴りつけていた。幹部候補生を教育
するためのに教官になったのに、これでは、学生の方がましだと陰で愚痴をこぼしても、面と
向かっては誰も反抗できないでいた。
その天皇がある日、膝を痛めたとかで足を引きずりはじめた。教官連中に聞いても、今一つ
その原因がはっきりしない。真偽のほどは分からないが「公務災害補償費」が目当てだという
噂がささやかれはじめた。もしこれが本当なら大問題である。
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むかし天皇陛下のために、一度は死ぬ覚悟決めた《特攻くずれ》である。いくら格が違うと
いっても、天皇に諌言するのも忠義というものであろう。とは言っても、面と向かって直言で
きる立場ではない。さっそく論文の課題に決めた。
その頃、幹部自衛官で金銭に執着する者が多かった。例えば転属して扶養親族移転料を請求
する。支払いが終わつた途端に家族は元の住所に帰す。住むつもりがないのだから家族の荷物
は着替え程度しか持ってきていないのである。中には初めから転出入の書類だけで処理しよう
とする者もいる。
通勤手当も同様である。バス通勤として手当を申請しながら、実際には自転車で通勤してい
る(当時は自家用車やバイクなどはまだ少数であった)。 出張の際に普通車に乗ってグリーン
料金を浮かす程度のことは、ご愛嬌の部類である。
業務中や訓練中に事故などで負傷すると国の費用で治療を行う。完全に回復しないで症状が
固定すると、その症状の程度に応じて「公務災害補償費」が支給されるのである。従来からの
不正請求の事例や、今後の対策などを盛り込んで論文は完成した。
「文臣銭を愛せず、武将死を惜しまざれば、天下泰平たらん」とは岳飛(宋史)の言葉である。
武将である幹部自衛官が金銭に執着する現状を、岳飛なら何と評するであろうか。と結んだ。
ほどなく論文の審査結果が発表された。私の提出した論文も撰に入っていた。審査委員長で
ある教務課長に呼ばれた。
「君の論文は学校止まりだ、分かるなあ……、 その代わりこれが賞品だ」
そう言って万年筆を渡された。本来優秀論文は、航空幕僚幹監部まで提出されることになって
いる。だが、個人名こそ挙げていないが、あの内容では空幕に提出するには問題があるのだろ
う。教務課長の裁定も仕方のないことである。
その後、○○天皇から関係予算の問題などで呼ばれる機会が度々あった。直接話してみれば、
見識もあり立派な方だとお見受けした。部下との人間関係を誤って、反感を買っていたのかも
知れない。またいつ頃から天皇の称号を得たのか知らないけれど、やはり凡人離れのした人物
であった。
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