♪琉球民謡♪

自衛隊こぼれ話

       沖縄研修

 昭和41年1月、私は本土復帰前の沖縄に研修旅行を命じられた。当時はパスポートの申請 からドルの交換まで外国旅行と同じ準備が必要であった。為替レートも1弗360円の時代で ある。伊丹空港から嘉手納基地までは、輸送航空団のC46輸送機を利用した。
   
     ひめゆりの塔や摩文仁が丘などの南部戦跡はもちろんのこと、嘉手納や普天間の航空基地を 始め、残波岬一帯の対空陣地やキャンプハンセンとその演習場などのアメリカ軍施設を、四日 間にわたってつぶさに見学して回った。

         守禮の門。

         空華の塔とひめゆりの塔。
 残波岬の対空陣地では、無人機を飛ばしてこれを標的とした実弾射撃が展示された。まず、 低空用のホークミサイルが発射され、眼前で標的機に命中し見事に撃墜した。  次は高々度迎撃用のナイキミサイルの発射である。あいにく上空には薄雲が広がっている。 発射されたナイキミサイルは、 ほぼ垂直に上昇して3万メートルの上空に達する。次に降下し ながら「コマンド誘導」にしたがって標的に命中する。雲を通して遥か上空でオレンジ色の閃 光が広がった。
 
     キャンプハンセンの訓練場と残波岬の対空陣地。  航空自衛隊は、国内にナイキの実弾射撃可能な射場を持たない。だから、ニューメキシコ州 のマックグレゴアー射場まで、人員及び機材を運んで実弾射撃訓練を実施する。昭和40年度 の例で「集団訓練外国旅費」の予算は8600万円が計上されている。機材などの運搬費用は 別予算である。  同年度の全般の出張旅費である「職員旅費」が8300万円、自衛官の制服や作業服などの 費用である「被服費」の6600万円と比較すれば、大変な費用であることが分かる。それな のに沖縄のアメリカ軍は、自分の陣地にいながら実弾射撃訓練を行っていたのである。  キャンプハンセンの海兵隊の演習場では、小銃から機関銃、それに迫撃砲から大型砲に至る 大小各種の火器の威力を誇示する展示演習が実施された。ここには、見学者用のひな壇までが 準備されている。外国からの視察団なども訪れるのであろう。  展示演習での圧巻は戦車搭載の火炎放射器の威力であった。この装置は放射器から直接火炎 を噴き出すのではない。まず燃焼液が消防ポンプの感じで噴射される。次に花火状の着火剤が 発射される。すると真っ赤な炎と真っ黒な煙りを噴き上げ、仮設陣地を一瞬に焼き尽くす。  また各種火器の威力もさることながら、訓練で使用される実弾の豊富さに国力の差をまざま ざと見せつけられた。それに引き換え自衛隊の射撃訓練では、 「たまに撃つ、弾もないのが、珠に疵」と川柳で歌われているように、射撃動作の演錬ばかり が多くて実弾の発射は、たまにしか実施されない。
   
                     *  嘉手納基地内には、アメリカ軍の沖縄侵攻作戦の模様を伝える資料館がある。この中には、 人間爆弾「桜花」をはじめ、当時の日本軍の武器や遺品などが数多く展示されている。また、 合衆国沖縄侵攻軍司令官バックナー中将が、戦死直前に糸満付近の前戦観測所で海兵隊の進撃  状況を視察中の姿を等身大に描いた油絵が館内の壁面に飾られている。  案内役のアメリカ軍将校は、中央床面に設置した大きな沖縄のパノラマ模型を示しながら、 上陸作戦に続く戦闘の推移や激戦の模様などを説明した。  1945年6月18日、バックナー中将戦死。続いてその翌日、歴戦の勇将イーズリー准将 が戦死した様子などを説明し、日本軍の勇敢さを称えた。また「カミカゼ」による連日連夜の 空襲はアメリカ軍将兵に強い衝撃を与え、恐怖心から一時パニック状態となって精神異常者が 続出したと言う。これらの説明を聞き、先輩や同僚が我が身を捨てて勇戦敢闘された往時を偲 び、感慨深いものがあった。                  *  私は甲飛第12期の出身である。われわれのクラスが飛行訓練を終了し、決戦の大空へと巣 立ったのはすでに戦争も末期であった。フィリピン方面の戦闘を始め、硫黄島、沖縄周辺と、 次々に参戦し、戦死者は続出した。クラス総員762名のうち、戦没者は223柱に達した。 その大半は、沖縄周辺の敵艦船に対する「体当たり攻撃」による戦死者である。  また、沖縄所在の基地に派遣され、 飛行機の損傷で戦う翼を失い、敵上陸軍に対する切込隊 となって戦死した者もいる。だから、沖縄の戦闘には特に関心が深い。                      *  ところで、嘉手納基地資料館でのアメリカ軍将校の熱弁は、裏を返せばこれだけ大きな犠牲  を払って占領した戦略的重要拠点である沖縄基地を、アメリカ軍は決して手放すことはできな いという決意の披瀝とも受け取れた。  昭和47年5月「沖縄返還協定」が発効して沖縄の本土復帰が実現した。しかし、施政権が  返還されてから20数年が過ぎ、終戦からはすでに50年になるのに、40ヵ所、240平方 キロメートルに及ぶ広大な基地施設は、依然としてアメリカ軍の管理下に置かれている。この 現実を認識すれば、沖縄の戦後処理は決して終わったとは思えないのである。  いや沖縄だけの問題ではない、沖縄以外にも首都圏を含めて方々にアメリカ軍の基地が存在 し騒音問題などで争われている。さらに北方4島の問題もまだ未解決のままである。その上、 数十万柱の英霊は未だ異国の地に眠ったままである。これらを考え合わせるとき、戦後処理は 本当に終了したのかと疑わざるを得ない。一部には既に戦後は終わったとの報道が見聞される ようになった。しかし、この人達は戦後をどのように認識しているのであろうか。  昭和20年8月14日、日本政府は「ポツダム宣言」を受諾した。翌15日、天皇陛下自ら 終戦の決意を放送され戦争は終わった。そして、日本政府が宣言の綱領を誠実に履行したこと を連合国が認め、占領を終結して、すべての領土が返還されて初めて、戦後は終わったと言え るのではないだろうか。 単に武力戦のない時期が、 一定期間続いたから戦後が終わったと宣言するのは、時期尚早で あると思う。そのためにも、われわれは改めて「ポツダム宣言」を読み直して、再認識する必 要がある。ポツダム宣言は13項目からなっている。その降伏条件は次のとおりである。   一、日本国民を欺瞞し、世界征服の擧に出させた権力の永久除去。   一、平和安全秩序ができ、戦争遂行能力の破砕が確認されるまで、連合国が占領する。   一、日本国の主権は、本州、北海道、四国、九州とし、連合国の指定する小島に極限される。   一、日本国軍隊の完全武装解除。   一、戦争犯罪人の処罰と、民主主義傾向の復活強化の障害の除去。   一、日本経済と産業の維持と、 再軍備産業の禁止。        以上のとおり、北方4島の被占領や、安全保障条約によるとはいえ、未だ各地に外国軍隊が 駐留する現実を直視し、その由来について、われわれ国民は謙譲に反省する必要がある。これ なくして、戦後は終ったなどとは決して口に出せるものではないと思う。
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