会 計 一 家
幹部候補生学校を卒業して6年ぶりに、再び古都奈良の地を踏んだ。学校は本部庁舎が新築
されて立派になっていた。旧庁舎は学生隊本部として使われている。ところが、学生隊舎や講
堂などはわれわれが入校した時のままであった。
学校長には北川空将補がすでに着任されていた。空幕会計課長・空幕監理部長・第3術科学
校長と、いわゆる会計職域での出世コースを順当に登りつめられた方である。空幕会計課長在
職当時、美保の輸送航空団に視察に来られた。
この時、会計幹部として初めての面接を受けることになった。会計隊長高次3佐が私を呼ん
で、数字には特にうるさい方で、「約」とか「程度」とかの表現を極端に嫌う方だから、数字
は端数を省略せずに具体的に説明するようにとの助言があった。
案の定、所属隊員の人数とか、関係予算の額などについて質問された。どうせ会計課長も概
数しか知らない数字だからと、適当に端数を付けて答えた。ところがこれは大成功であった。
うるさいことでは定評のある北川空将補に、その後一度も小言をいわれずにすんだからである。
航空自衛隊には、約200名の会計幹部が所属していた。それが「会計一家」と称して独特
の職域を形成していた。「予算調整会議」や「資金前渡官吏会議」などが定期的に開催される
以外に、「給与講習」や「契約担当者講習」など、随時に計画し担当会計幹部を招集しては、
会計幹部間の意志の疎通を計っていた。昼間の会議もさることながら、夜の親睦会を特に重視
する傾向さえあった。
2〜3年も経てば全国各基地の会計幹部との面識ができ、公私にわたっての交流が計られる
のである。予算を握っている者の強みであろうか。その「会計一家」の頂点に立つのが空幕の
会計課長である。
新しく会計幹部が誕生すると、折りをみて直接会計課長が面接を行う仕来りであった。ある
部隊で新任の会計幹部が北川課長の面接を受けた。担当業務を説明するため、資料を作成して
持参した。ところがこの資料を一瞥して、
「伊藤君、これは絵かね? 字かね?」
そう言ってポーンと突き返した。悪筆で読めないわけではない。 もちろん、絵など書くはずが
ない。少々走り書きしていたのが気に入らなかったのである。
*
幹部候補生学校に着任して、申告のため校長室に入った。型どおりの申告をすませると、
「サイト勤務ご苦労でした。何年勤務したのかね?」
「ハイ、三年とニヵ月です」
ここでも端数を省略せずに答える。
「ここには会計幹部が3名もいるし忙しくないはずだから、当分の間休暇を取って休みなさい」
と、ねぎらいの言葉をいただいた。
2年前、空幕監理部長として、航空幕僚長・源田空将に随伴して脊振山サイトに視察に来ら
れた。その際不便なサイト勤務の実状を説明したのが印象に残っている様子である。河野2佐
が心配する程の事はない、北川空将補に対する私の第一印象はまだ効いていたのである。
さらに驚いたことには、脊振山サイトの隊長であった、武者1佐が教育部長として着任され
ていたことである。さっそく挨拶に伺った。
「オォ! 来たか、山ではご苦労かけたなあ……。皆元気にしてるか……」
と、ここでもねぎらいの言葉である。隊長転出後の山の様子などを説明したら上機嫌であった。
この調子なら、ここも何とか無事に勤まりそうである。
幹部候補生学校幹部一同。
*
のんびりした勤務ができるはずと思っていた幹部候補生学校も、しばらくすると急に忙しく
なった。それは北川校長が教育環境の改善に着手されたからである。庁舎だけは新築されたが、
学生隊舎も教室もわれわれが入校した当時のままであった。教育環境の重要性を認識されてい
る北川校長は、空幕会計課と折衝して、関係予算を獲得してこられたのである。元会計課長の
威力である。
今までの幹部候補生は一般隊員と同様の小さな箱型のロッカーしか貸与されていなかった。
だから制服などは2段ベッドの枠や壁に釘を打ってかけていたのである。それを個人別の大型
ロッカーを備え付けるために予算を獲得してこられたのである。
数量が多いので、市内の事務用品販売店では調達が間に合わず、わざわざ高松市にある専門
メーカーの工場まで出張して調達した。教室用の机も木製の古いものから綱製の事務机に更新
した。そして、隊舎毎に娯楽室を設けて休息用のソファーや応接セットなどの備品を購入した
のもこの時である。
またグランドの排水が悪いので、暗渠を入れる工事も実施した。これらの大型工事は本来防
衛施設庁の担当で部隊予算では実施しないのが普通である。建物本体だけは部隊予算では手が
付けられず元のままだったが、内部は見違えるように改善された。
次に、学校案内も本格的に企画された。私も予算担当者として参画した。カラー写真入りの
立派なものである。ところが、表紙に使った写真の飛行機の方向が校長の気に入らない。これ
は、子供に乗り物の絵を画かせると左向きに画く、旗を画かせると右になびいた形に画く、こ
れが世間の常識というものである。だから、表紙の飛行機は左向きでなければ駄目だと言うの
が校長の主張である。
すでにゲラ刷りのできた段階である。担当の教務課長が困り果てて、
「泣く子と地頭には勝てぬ、何とかしてくれ……」
との相談を受け、印刷業者と折衝して刷り替える一幕もあった。
非常に頑固な一面、実行力は抜群であった。お陰でわれわれの幹部候補生時代とは見違える
ほど教育環境は改善された。洗濯機を購入して各隊舎に備え付けたのは言うまでもない。
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