武 者 振 山
昭和33年9月、第一航空教育隊勤務を命じられ、防府南基地へ赴任した。防府南基地は、 航空自衛隊に入隊した最初の部隊で思い出の地でもある。給与班長を命じられ、事務機による 給与計算業務の導入に尽力した。次に契約班長を拝命、調達業務も体験した。
第1航空教育隊会計隊一同。前列左から3人目筆者。
昭和35年5月、第43警戒隊会計班長を命じられて脊振山サイトに赴任した。幹部候補生 学校を卒業して3年、輸送航空団、第1航空教育隊と業務経験を重ねて、ようやく独立勤務を 認められたのである。階級も2月1日付で2等空尉に昇任していた。 会計班長は帝国海軍でいう「主計長」の役職である。この配置は会計法規に定められている 国庫金(国の予算)の出納や保管を掌る「資金前渡官吏」。物品や役務の調達を実施する「契 約担当官」。国の収入金を収納する「収入官吏」などの官職に指定される。責任は重大である。 正式名称は、西部航空警戒管制群第43警戒隊である脊振山サイトは、別名「武者振山」と 呼ばれていた。交通が不便で生活環境が悪いうえに、隊長武者成一2佐の訓練の厳しさがこの 名称の由来である。「武者震い」と「脊振山」をもじって誰かが命名したのであろう。 赴任してみると、次席幹部は牛島3佐であった。彼は陸上自衛隊から航空自衛隊に転換した 会計幹部である。第9040部隊に勤務していた当時は、一時期会計科長の職に就かれ、私の 上司であった方である。その後、アメリカに留学してコントローラー(要撃管制官)に職種を 変更されたのである。 「永末くーん、大変な所に来たなー、 ここで武者隊長に仕えきるなら、あんたも一人前たい」 と、言った。彼がそれほど言うのだから、これは本当に大変な所に来たものだと覚悟を決めた。 その当時、 脊振山サイトはアメリカ軍からの移管を控えて多忙を極めていた。航空自衛隊で は、昭和33年5月の下甑島サイトを皮切りに、逐次計画的にアメリカ軍からの移管を受けて いた。そして、脊振山サイトの移管が完了すれば、全国24個サイト(沖縄返還前)がすべて 自衛隊で自主的に運用することになる。 脊振山サイトは「陸の孤島」といわれるほど交通不便な山頂にあって、勤務も一般の基地と は異なっていた。通常の勤務者は月曜日の早朝にトラックに揺られて、車の離合もできないよ うな、 狭い山道を登る。一週間の勤務が終わり、土曜日の午後に山を降りる。その間、山篭り の生活が続くのである。 交替制の勤務者は、4クルーに分かれ3シフト8時間交替で、24時間それぞれの配置に就 いていた。宵勤3日、日勤3日、深夜勤3日連続して9日間勤務し、 これが終わると3日間は 下山して休養する、これの繰り返しである。その間、営内者はもちろんのこと、幹部や営外者 もすべて山上の隊舎に泊まり込んでいた。 福岡市大字上曰佐に14、5戸の幹部自衛官用の官舎があった。ここは別名「メカケ部落」 と呼ばれていた。週に一回旦那が通ってくる。 そして、月に一度お手当を持ってくる。誰れが 言い出したのか的を射た表現であった。 陸の孤島脊振山
* 脊振山は標高1,055メートルで、その稜線約2キロにわたって各種施設が点在していた。 山頂にレーダードームがあり、その真下に半地下壕方式のオペレーションが設備されていた。 そこから、約30メートル下った所に横穴式の発電所があり、その前がドラムヤードである。 さらに南東へ向かって、警衛所、自衛隊隊舎、ヘリポート、レシーバー(受信所)、モーター プールが1本の専用道路に沿って設置されている。そして南東の外れが米軍の居住地区である。 倉庫・事務室・カマボコ兵舎など10数棟が散在していた。 私が赴任した頃から、アメリカ軍の施設が逐次自衛隊側に移管され始めた。オペレーション を始め、兵舎・倉庫・事務室と施設や機材が次々に引き渡され、6月末までに基地の管理面は 全面的に自衛隊に移管された。 しかし、運用面については、まだ少数のアメリカ空軍チームが残留して、自衛隊との連携を 保っていた。これは、サイト移管に伴って自衛隊のコントローラーが板付飛行場に配備されて いるアメリカ空軍の戦闘機に対して要撃を指令するという、変則的な運用が実施されていたか らである。 その当時、国会でも問題になった「松前・バーンズ協定」なるものが存在していた。これは、 今までアメリカ軍管理の基地施設を自衛隊が使用していたのが、基地移管に伴い逆に自衛隊の 基地施設をアメリカ軍に提供することになるため、施設の使用および支援業務の範囲などに関 して在日アメリカ空軍と航空自衛隊との間に交わされた基本協定である。 これにを基本にして、各基地毎に具体的な支援内容を決める協定(ローカル アグリーメン ト)を結ぶようにと指示された。脊振山サイトには移管後も10名前後のアメリカ空軍チーム が引き続き残留することになっていたので、居住施設の提供やその他の支援について現地協定 が必要であった。 ところが、司令部では簡単に現地で話し合って協定を結べと言うけれど、基本協定の条文や 現地協定の雛形も示されないので、具体的な協定の条文など部隊で作れるはずがない。 まず話し合うと言っても英語が分からない。コントローラーを通訳に仕立てて話し合っては みたものの彼らの「ジャパン エア フォース」の認識に対して、自衛隊は「エア セルフ デヘンス フォース」である。これと同様に兵舎・隊舎・宿舎など用語一つにしても統一解釈 などされていない状況では、交渉の仕様がない。 おまけに彼らは「松前・バーンズ協定」の存在さえ知らない様子である。これで話を纏める など至難の技である。サイトではお手上げでこればかりは司令部に下駄を預けるしか方法がな かった。 * サイトが移管されて後、しばらくしてオペレーションから電話があった。エアコンが故障し たから至急直すようにとの要求である。すぐに施設の担当者とオペレーションに行った。しか し、どう処置したらよいか分からない。恥ずかしい話だが、その当時はエアコンに関する知識 など全く持ち合わせていなかったのである。どこの業者に依頼すればよいか、どれ程の予算が 必要なのか、皆目見当もつかなかった。 とは言っても、事は急を要する。まず春日原基地の司令部に電話して予算の措置を頼んだ。 次に、取り扱い業者の選定を依頼した。ところが、司令部でも過去そんな修理契約をした例が ないという。当時、冷蔵庫は家庭用にもボツボツ普及し始めていたので、電器店に電話を入れ てみた。ここでも装置の構造は想像できるが修理は無理ですと断わられる始末で、万事窮して しまった。 その頃、司令部のお偉方から電話があった。 「エアコン、エアコンと贅沢言うんじゃない! いくら夏だと言っても、脊振山は下に比べれ ば涼しいんだから、少しぐらい暑くても我慢するように隊員に言っとけ!」 ご尤もなお小言である。ところで、隊員は言われなくても我慢していたのである。我慢できな いのは機材の方で、一定以上に熱を持つと能力が低下する。だから騒いでいたのである。
思い余って、春日原ベースのアメリカ軍施設ショップに連絡を取ってみた。アメリカ軍とは いうものの従業員の大部分は日本人である。 「恐らく故障ではなく、フレオンガスの不足だと思いますから、ガスをそちらで準備すれば直 しましょう」 との回答を得て一件落着した。 確かに脊振山は真夏でも涼しかった。夜になると寒いくらいで毛布は決して手離せなかった。 アメリカ軍では夏の間もストーブを焚いていた。また梅雨から初夏にかけては、毎日が霧雨の 中である。下では晴れていても、山頂付近が雲に覆われることは珍しくない。おかげで被服か ら書類までカビだらけであった。 * アメリカ軍から引き継いだ建物の中にNCOクラブ(兵員用娯楽室)があった。さっそくそ の活用を計画した。当時の編制では、会計幹部が会計業務以外に厚生業務も担当していたので ある。ところが、隊員の数が少ない上に交通の便が悪いので採算が取れそうにないため、適当 な委託業者が見付からないでいた。 輸送班の先任空曹後藤1曹は、元帝国海軍の搭乗員である。彼がある業者を推薦してきた。 私の後輩甲飛14期の出身で、雑飼隈でスタンドバーを開いている人物であった。輸送用には ジープを購入するとまで言っている。それほどの熱意があれば何とかやれるだろうと思って、 任せることにした。 彼の思惑は、山での儲けは少なくても隊員連中と顔をつないで、雑飼隈で営業しているスタ ンドバー「ベア」への来店増加を狙っていたのである。 一般の基地では隊内での飲酒は禁止されている。しかし、人里離れた脊振山上では外出して ちょつと一杯というわけにはいかない。だから、隊内でも勤務時間以外は酒は黙認されていた。 さっそく店開きした。板前も年季の入った職人が登ってきた。なかなかの腕前である。サー ビスの方も若い娘さんが、彼の経営する雑飼隈の店から交替で上がってくるので、隊員の人気 も上々であった。 それに引き換え、春日原の司令部の連中からはいろいろな批判を受けた。隊員用の部隊車輌 に女の子を乗せているとか、女の子を基地内に宿泊させているとかの類である。これは事実だ から反論するわけにはいかない。 「じゃあーどうしてくれるんだ!」 と、開き直ることもできない。隊員が喜んでくれればそれでよいのだと、司令部の批判は無視 した。隊長武者2佐の耳にも当然いろいろ雑音は入っていたはずである。ところが、訓練には 厳格な武者隊長もこの種の問題はすべて任せ切りで、一切口出しされることはなかった。 ある時、武者隊長が司令部の幕僚と電話で話していた。 「……今頃になって、のこのこと何を見に登ってくるんだ! 山の状況が知りたいならばなぜ 真冬に来ないんだ! 避暑のつもりで夏になって来たって、サイトの実状は分からん!」 と、怒鳴りつけている。いやはや大変な指揮官がいたものである。[AOZORANOHATENI]