カ ク テ ル バ ー
脊振山サイトを最後に、全国のレーダーサイトがアメリカ軍から航空自衛隊に移管された。 これで、沖縄を除くわが国の防空システムの運用主体は、航空自衛隊に引き継がれたのである。 昭和36年7月、防衛庁関係の法律が改正され、これに伴う編制改正により部隊の改編が実 施された。サイト関係では今までの警戒隊が警戒群に昇格改編された。この編制改編にともな い、警戒群本部・監視管制隊・通信電子隊・基地業務隊が編成された。私は会計小隊長を兼務 して初代の基地業務隊長に任命された。また群司令には、武者2佐の後任として清光2佐が着 任された。 これで、航空自衛隊が自主的に運用する防空態勢が整ったのである。だが、いろいろと未解 決の問題も山積していた。基地業務隊の関係だけでも、隊舎の改修をはじめ隊員の娯楽施設、 専用道路の維持管理、冬季の除雪問題、自家發電の商用電源への切り替え、それに燃料問題な どである。どれ一つを取っても、予算の限られた自衛隊で解決するには、相当の努力を必要と する問題ばかりであった。 アメリカ軍が居住していたカマボコ兵舎には、自動給油装置のついたオイルストーブが部屋 の内部に2個、両側の便所と洗面所兼シヤワー設備のある入口の小部屋に1個づつ、合計4個 が設置されていた。ところが、自衛隊が引き継いで使用する際は、石炭ストーブを部屋の中央 に1個だけ置き、入口の小部屋にあったストーブは贅沢品とでも見なされたのか撤去されてし まった。 冬の脊振山。
ところがその冬、便所及び洗面所は完全に凍結して使用不可能となった。最高最低寒暖計の 針は、マイナス16度を記録していた。このことを春日原の司令部に言っても、 「なに? そんな馬鹿なことがあるはずがない」 と、言って信用しないのである。だが、標高1055メートルの脊振山上では、マイナス10 度以下を指すことは再々であった。これもエアコンと同様、隊員は我慢しても設備が我慢でき なかった事例である。 また、電球一つにしても例外ではない。自衛隊で購入した電球がすぐに断線するのである。 これを不良品を売り付けられたと誤解して、販売した電器店に苦情を言ったことがある。とこ ろが、 よく調べてみるとこれは電圧の差であった。 脊振山サイトのアメリカ軍は、必要な電力はすべて自家発電で賄っていた。そして、その電 圧は110ボルト以上もあった。だから、 100ボルト用の電球ではすぐに断線して使用不能 となることが分かった。ちなみに、アメリカ軍使用の電球は113Vと表示されていた。 九州電力と交渉して、6千ボルトの電源を引き込むための受電所設備の工事も急がれていた。 とにかく形式上は自衛隊の自主運営となったが、内容的にはお粗末なものであった。 * アメリカ軍から基地施設が返還された後、自衛隊側で最初の施設として「娯楽センター」が 建設された。ところが、これが脊振山の実状を全く無視した建物であった。机の上だけで計画 し設計したらしく、山上の風雪に堪えられる構造ではなかったのである。 雨は上から降るものと思い込んでいる者が設計したのである。山上では横からも下からも降 るというより吹き付けるのである。だから、一雨くれば部屋の中は水浸しであった。冬になる と、勾配の少ない屋根は雪の重みでつぶれそうになる。山上にはアメリカ軍時代からいろいろ な建物があったが、雪降ろしを必要とするのは新設の「娯楽センター」だけであった。 司令部からは、全国のサイトに先駆けて、せっかく建ててやったのになぜ使用しないのかと、 矢の催促である。しかし、使いたくても使えないのが実状であった。せめて窓だけでも改修し て、雨の降り込みだけは止めてほしいと要望して、それまでは使用を拒否した。この間約半年、 司令部担当者の再三にわたる要求にも頑として応じなかった。旧NCOクラブが利用できるの で隊員に不便をかけることはなかった。 司令部に対しては強気であった私も、裏では着々と新しい店の構想を練っていたのである。 だから、改修が終わると同時に開店した。その目玉は「カクテルバー」であった。管制隊の隊 員に西口と浜砂という2曹がいた。 彼らは、 バーテンダーの真似ごとができると聞いたので、早速くシェーカーやカクテルグラ スなどの道具一式を揃えた。材料の洋酒なども準備して、氷はアメリカ軍のBOQが製氷機を 持っていたので無償で貰うことにした。
開店行事には、西部航空警戒管制団司令の多田1佐をお招きして、テープカットをお願いし た。懸案が解決したので上機嫌である。準備万端整えての開店は爆発的人気であった。そして その主役は、白シャツに黒の蝶ネクタイに身を固めた2人のバーテンダーであった。 ☆当時のバーテンダー西口隆君は、平成21年秋の叙勲で「瑞宝双光章」を受賞しました。目次へ戻る 次頁へ [AOZORANOHATENI]