自衛隊こぼれ話

     会計幹部課程へ

 昭和33年1月、輸送航空団に在勤中「会計幹部課程」に入校を命じられた。当時の術科教 育はまだ整備途上にあった。会計職域の術科教育は、浜松南基地の整備学校が担当し、 格納庫 の一部を間仕切りした教室で実施していた。それを、松島に「要務学校」を新設して移転する ことになったのである。  この要務学校は、臨時松島派遣隊(第4航空団編成準備中)の騒音問題で買収した矢本町の 小学校を利用したものである。ここで、会計職域と総務・人事職域の術科教育を実施すること になった。  会計職域では3佐の主任教官を含め教官6名。 学生は幹部課程が16名、空曹課程が10名 で合わせて30名程度で、およそ自衛隊らしくない雰囲気の学校であった。食事は朝昼晩とも 臨時松島派遣隊から運搬して配食していた。浴場は校舎の中に設備されていて、教官が子供を 連れて入浴に来るほど気ままな雰囲気である。暖房は達磨ストーブで亜炭を燃料にしていた。  夜の自習時間など、どてらを着込んだ者や、ウイスキーをなめながらストーブを囲んで雑談 にふける者など、さまざまである。もちろん大半の者は町に遊びに出て、自習室で真面目に勉 強する者などほとんどいない。私も日曜ごとに外出して、日本三景で有名な松島海岸や仙台市 の青葉城跡など見物して回った。         青葉城跡。
 アメリカがソ連に対抗して人工衛星の打ち上げに成功したニュースを聞いても、あまり興味 を示す者はいない。むしろ4月から実施される、「赤線」廃止の方が話題の中心であった。  このクラスの構成は学生長川崎3佐以下13名の昭和32年度の公募幹部が主体で、それに 11期の部外幹部候補生出身者が2名であった。私と部内幹部候補生同期の、井上君と金田君 の両名は前の期の課程に入校したため、 私以外に部隊での実務を経験した者はいなかった。 授業科目は空曹課程とほとんど同じ内容の繰り返しである。だから、特に勉強する必要もなく 理解することができた。  主任教官は、浜松の整備学校以来の藤田3佐である。彼とは、整備学校の会計空曹課程時代 からのお馴染みである。また、第9040部隊で会計科長の職にあった森1尉も、会計教官の 配置についていた。  課程も半ばを過ぎた頃の事である。主任教官藤田3佐に呼ばれて教官室に行った。 「永末3尉! 君は今度の試験でカンニングをさせただろう? 情けをかけるのも相手により けりだぞ……」 と、叱責された。  シマッター! ばれたのだ。だが、ここは言い逃れる以外に手はない。あくまで知らぬ存ぜ ぬで通すことにした。  教室で、私の隣には公募幹部の山口3尉が座っていた。いつも勉強などせずに、女性に宛て た手紙ばかり書いていた。これが一風変わっていて、必ず写しを取っている。彼の話によれば、 複数の彼女がいるので混乱を避けるための処置だとのことであった。  日ごろ勉強しない彼に、優秀な成績を望むのは無理である。試験のたびに担当教官から注意 を受けていた。主任教官の藤田3佐は、彼の成績があまりにも悪いので教官室に呼び付けて、 「今度の試験で欠点をとれば、会計職種不適格として原隊復帰させる……」 と、申し渡した。彼は切羽詰まって私に泣き付いてきたのである。  当時の試験は「四答択一」方式であった。だから、初めから自分で回答する意志を捨てて、 私の筆先だけを注視していればある程度の正解は得られるのである。私は空曹時代に術科教育 は2回も受講していたので、試験問題の傾向も熟知しており自信を持っていた。  だから彼に、 「私の回答は、90パーセント以上正解の自信がある。だから、5問に1問の割合で私とは違 う答に印をしなさい」 そう言っておいた。それでも充分な成績は得られるはずである。    ところが、彼は私の答案に不安を感じたのか、この注意を無視して、全部私と同じ回答に印 をして提出したのである。今までの劣等生が急に最高点を取れば、教官室でも問題になるのは 当然である。そして、これにはおまけが付いていた。彼の答案をさらに写し取った某3尉がい たのである。私達の話を聞いていて乗ってきたのだ。  私は、彼らが勝手に盗み見たのだと最後まで言い張った。それにしても、要領の悪い連中で ある。私と同じ回答にせず、 ほどほどに間違いを作っておけば、決してバレる心配はなかった のである。       *  12週間の教育も終わりに近い3月末、空幕(防衛庁航空幕僚監部の略)会計課長の北川空 将補が来校された。新任の会計幹部を面接するためである。航空自衛隊発足当初のレーダーサ イトでは、会計法規に定められた「資金前渡官吏」や「収入官吏」の役職は会計以外の職域の 幹部が便宜的に兼任していた。そして、実質的な業務は会計空曹が担当して会計幹部は配置さ れていなかった。  アメリカ軍のレーダーサイトが次々に日本側に移管され、編成人員が増加するにしたがって、 各サイトにも専門の会計幹部を配置する必要に迫られた。そこでその要員選考を兼ねて、新任 の会計幹部を掌握するための面接である。この面接には、主任教官藤田3佐も立ち会っていた。  私は美保基地で、すでに北川空将補の面接は受けていたので形式的なものであった。 「君は、今度のコースに来ていたのか……、帰ったらしっかり頼むよ……」 と、激励されただけで、面接は終わった。北川空将補と応対する場合、数字絡みの回答は端数 を省略しないことが肝要である。約とか程度といった表現を極端に嫌う。人数なら何十何人、 金額なら何十何円まで端数を含めて答えなければ失格である。この性格を知らないと失敗する。  こん度の面接でも、返答に窮した者が何人もいる様子である。内容を聞いてみると、具体的 な数字で回答しないためさらに追及された例が大半である。しかし、概数しか知らない数字は、 誰でも約や程度を付けなければ答えようがない。罪な話である。  私は輸送航空団で北川空将補から面接を受けるにあたり、当時の会計隊長高次3佐からこの 「北川空将補対策」について、前もって入れ知恵されていた。だから、給与支給人員や予算の 額などの質問に、適当に端数をつけて回答した。これで最初の面接を無難にすましたのである。
      前列左から5人目 北川課長 右斜め後筆者
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