♪蛍の光♪

自衛隊こぼれ話

離 島 生 活

 その当時、下甑島には各集落の間を結ぶ道路などはなかった。早朝、下甑島南端の手打港を 出港した連絡船が、青瀬・長浜と次々に寄港しながら昼前に串木野港に着く。午後、この船が 折り返して夕方近く手打港に帰ってくる。               これとは別に、阿久根港を早朝出港して昼頃に手打港に到着、午後「本土」へ引き返す便が あった。「本土」とは大袈裟な表現だと思ったが、島の人々は九州をそう呼んでいた(本土は 本島の聞き違いだったかもしれない)。 これらの連絡船は、停泊する串木野港や手打港は別と して、その他の寄港地には桟橋などない。  お客は海岸の石垣や砂浜から伝馬船に乗り、沖泊りした連絡船に接舷して乗り移るのである。 降りるお客や荷物なども同様である。だから、波が荒いときは大変である。慣れるまでは少な からず緊張した。     夕暮れ近く連絡船が着く頃になると、外出中の隊員は申し合わせたように港に集まってくる。 誰か知人が来るとか、友人を見送るとか特別の目的があるわけではない。ただ何となくそんな 気持ちになるから不思議である。離れ島特有の雰囲気である。
 そして、「蛍の光」のメロディーを流しながら、静かに遠ざかりゆく連絡船を、いつまでも 寂しそうに見送るのである。島で生まれ育った者はいざ知らず、われわれ、のように他所から 来た者には、この寂しさは堪え難い。二〜三ヵ月の間にノイローゼになった隊員が二人も出た ことでもうなずける。望郷の念とでも表現したらよいのか、体験した者でなければ理解できな い寂しくて、やるせない感情である。  さて、われわれの唯一の外出先である長浜は、半農半漁の小さな集落である。半農といって も水田が有るわけではない。僅かばかりの段々畑に、陸稲や唐芋などの野菜を栽培している程 度であった。  野菜類にしても自家消費のため植えられたもので、当時30名程度の小所帯であった自衛隊 の需要を満たすほどの余裕もなかった。だから、野菜類などは「本土」から送ってもらうこと になる。ところが、ナスなどは汐をかぶればすぐに変色して使い物にならない。    炊事の設備は、薪で炊く野戦用の鍋釜を持ち込んだ簡単なものである。だから、毎日の献立 は単純で、ご飯と味噌汁それに魚の干物程度であった。その味噌汁にも満足な具など入ってい ない。これが朝・昼・晩と続くのである。  たまには漁から帰ってきた漁船が、魚を選別している所のに行き会わせることがある。 「すみませーん、少し分けていただけませんか?」 と頼むと、豊漁の時は気前よく分けてくれる。おまけにただである。
 また農家の庭先で、放し飼にしている鶏を分けてもらうこともある。こちらは、 ただという わけにはいかない。ところが、日ごろ売り買いなどしないから、相場などないのと同じでその 時の気分次第である。自衛隊の学校で習ってきた糧食品の調達要領などは、ここでは全く通用  しない。  だが、会計検査院に提出する必要があるので、法令に決められた書類だけは作成しなければ ならない。とはいっても、見積書・契約書(請書)・請求書・領収書と「計算証明規則」に決めら れた書類など素人に作れるものではない。仕方がないのでこちらで全部作成して、印鑑だけを 押していただくことになる。  一羽いくらで買った鶏も、鶏肉何グラム・単価何円・金額何円と規則に準じた書類を作り上 げ、体裁だけは整えなければならないのである。魚だって同様でどんぶり勘定で支払った金額 から逆算して、数量・単価・金額を算出して書類を作るのである。  ここ長浜の集落はなにもないというのが実感である。まず道らしき道がない。サイトの専用 道路の端から集落までは、砂浜が続いているだけである。だから、自転車もなければリヤカー もない。本屋もなければ、もちろんパチンコ屋などあるはずがない。おまけにお年寄とは言葉 が通じない。  当時は3名の幹部をはじめ、空曹・空士の大部分は鹿児島県出身者で編成されていた。とこ ろが、その鹿児島県の出身者でさえも、 「ここの方言は分からん……」 そう言って、サジを投げる始末である。  またここで店といえば、小さな雑貨店が船着場に一軒と集落の中ほどに一軒あるだけだった。 だから、外出しても時間を持て余していた。つまるところ酒に浸るのが唯一の楽しみとなって いた。雑貨店では煙草は売っていたが、清酒は置いていなかった。聞くところによると、ここ では冠婚葬祭などすべて焼酎が主流で、お酒を飲む人はいないとのことである。 だが、アメリカ軍がいる関係か、ビールは売っていた。ところが、ここのビールは「本土」 よりも値段が高いのである。理由を聞くと運賃がかかっていると言う。酒類の運賃はプール制 のはずだがとさらに尋ねると、港から店まで人の肩で運ぶので、その人夫賃とのことである。 これでは納得するしかない。  また、普通「本土」では考えられないことが起こった。それは、時々煙草が売り切れること である。時化による連絡船の欠航が原因である。ちょうどこれから「本土」まで仕入れに行こ うという時期に欠航すると、途端に煙草は品切れになる。自衛隊には「非常用糧食」は備蓄し ていたが、「非常用煙草」などの準備はなかったのでその対策には苦労した。  その点アメリカ軍は食糧品や酒保物品をはじめ、自家発電用の燃料その他一切の物資を、例 のLSMを定期的に運航して補給していた。また、緊急の際は飛行艇を派遣して前面の海上に 着水させることもあった。それに比べ、自衛隊はすべてをこの小さな民営の連絡船に頼ってい たので、少し時化るともうお手上げであった。  PBY飛行艇。
 一度休暇をもらって帰省したことがある。早朝、阿久根駅に着き、駅前から乗合馬車に乗り 港へ向かった。当時この路線はバスでなく風流にも乗合馬車を運行していた。私の隣村上野村 でも、赤池駅から上野峡まで馬車が走っていたので特に珍しくはなかった。    ところが、阿久根港に着いてみると連絡船が見当たらない。しまった! 欠航だ! いつ出港できるかは天候次第である。今から串木野港に回っても状況は同じであろう。休暇で お金は使い果たし、船賃を残しているだけで旅館に泊まる金などない。進退極まって座り込ん でしまった。  ところが、「地獄に仏」とはこのことである、同僚の唐津2曹がひょっこり現れた。彼もこ の便に乗る予定をしていたのだ。これで何とか急場をしのぐことができた。それほど、離島生 活に連絡船は欠かせない存在であった。  数年後自衛隊では離島などの勤務者に対して、本給の一割を越える金額の「隔遠地手当」を 支給するようになった。しかし、当時はいくら不便な離島のサイトに勤務しても、何の恩典も なかった。それでも皆文句も言わずに勤務したものである。
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