市 比 野 温 泉
移駐当初の下甑島レーダーサイト(9043部隊)は、所属人員も少なく小隊編成(第1中
隊第3小隊)で、 春日原ベース内の中隊本部(9040部隊)が統括していた。そのため会計
職域には幹部は配置されず、空曹と空士各一名が定員で、私と木原士長の二人で会計業務全般
を処理していた。金銭の出納保管や物資の調達などを私が実施し、隊員の給与や旅費の計算な
どを木原士長が担当していた。
ここで毎日の主な仕事といえば糧食品の調達である。道路がないので、米・味噌・醤油など
重量のあるものを、船着場から部隊車両が運行できる専用道路の入り口まで持ってくるのが大
変な苦労であった。
ある時、船着場近くにある雑貨店の伝馬船を借りて、専用道路近くの砂浜まで漕いで運ぼう
としたことがある。ところが素人の悲しさ、潮の流れを読み切れなかったので船はだんだんと
沖の方に流され思うように前に進まず、大汗をかいて必死で漕いだことがある。それ以後は、
ニ度と伝馬船を使う気になれなかった。だから、文字どおり持ってくるしかなかったのである。
「櫂は三日で櫓は三年」の諺どおり、一朝一夕に櫓が押せるものではない。予科練時代に、
鹿児島の錦江湾でカッターの訓練は受けたが、通船(海軍ではこう呼んでいた)の訓練などは
なかった。復員後に就職した炭鉱は、長崎県の海岸にあり、伝馬船や団平船などを持っていた。
休日にはこれを使って海草取りや魚釣りなどに行くことがあり、見様見真似で漕ぎ方を覚えた
のであった。
これには後日談がある。2年後の夏、私は幹部候補生学校を卒業して輸送航空団に勤務して
いた。ある日曜日、同じ会計隊勤務の若松1曹と二人で、大家が所有している伝馬船を借りて
大篠津の浜辺からキス釣りに出かけた。キスは海岸からの投げ釣りもできるが、沖に行くほど
大物が釣れる。
しばらく釣っていると急に真っ暗になった。夕立である。急速に発達した積乱雲から稲妻が
走り雷鳴が響き渡った。大粒の雨が海面を叩きつけて水飛沫がたち、 さらに風まで吹きつけて
きた。海岸は遙か彼方である。若松1曹は必死になって櫓を押す。彼は宮崎県の田舎出身で船
とは無縁で育ったはずで、 櫓を押す腕前も私とあまり変わらない程度と見受けた。恐らく以前
勤務していた、福江島レーダーサイトあたりで漕ぎ方を覚えた程度であろう。だから、力んで
いる割りには船は思うようには進まない。
海上では隠れる場所はない。落雷すれば当然この船だと思うと、怖くて立ち上がることもで
きずに蹲っていた。ほどなく雷雲も通り過ぎ雨も弱まり海岸も近づいてきた。若松1曹は顔面
蒼白、雨と汗でびしょ濡れになりながらなおも漕いでいる。
「若松さん、替わろうか?」
そう言って立ち上がった。
「ナンナー! あんた、漕げるとやったんな!」
「ソータイ、これでも昔は海軍バイ……」
「漕げん振りして、俺ばっかりに漕がせて!」
これでは帝国海軍が泣く。
*
また、長浜では野菜や魚などの食料品も思うように手に入らない。長浜とは反対側に下った
瀬々野浦と呼ぶ集落に、定置網があると聞いて急な坂道を歩いて買い出しに行ったことがある。
大きな魚を振り分けにして急な獣道を登るのに一苦労である。二度と行く気になれなかった。
朝食の味噌汁に入れる豆腐や油揚げなどを、夕方の定期便で山上まで運ぶように計画してい
た。ところが、なぜか途中でなくなるのである。定期便を待つ間に誰かが焼酎の肴にするので
少々の量では足りなくなるのである。その当時、具のない味噌汁など珍しくはなかった。
次に、農家の庭先で放し飼いにしている鶏に目をつけて買い漁ったこともある。ここには、
魚屋も肉屋もなく野菜にしても商売として売ってはいなかった。豆腐屋にしても時々自家用に
作っていた人に特別に頼んで製造してもらっていたのである。
こんな状態だから二〜三ヵ月もすると集落では鶏をほとんど見かけなくなった。野菜なども
自家消費が精一杯で、自衛隊に売るほどの量は栽培していなかったのである。
当時の部隊給食に、献立表などない。その日確保できた材料を使って調理するだけである。
だから、材料がなければ魚の干物と味噌汁だけですませる。その代わり、鶏や魚などが調達で
きた日は大御馳走である。
私は職務により、毎月定期的に九州本土に出張していた。現金の受領と島では手に入らない
物資の調達である。川内市の日本銀行代理店(鹿児島銀行川内支店)で現金を受け取り、予め
計画していた必要物資を買い込めば任務は終了する。
翌日の正午に串木野から出港する連絡船に乗るまでは自由行動ができる。バスに乗り込んで
市比野温泉に向かった。事前に調べた最も近い温泉である。
その当時、下甑島サイトにはまだ風呂の設備がなかった。 夏の時期だから行水程度で我慢し
ていたのである。サイト内ではアメリカ軍のシャワーを利用し、外出した際には集落にあった
共同風呂にお世話になることも再々であった。
市比野温泉に着いてみると、「湯治場」といった感じの温泉街である。温泉宿が軒を連ねて
いるが、どれも自炊宿という感じが強くて泊まる気がしない。町の中心部を奇麗な小川が流れ
ている。そこの橋を渡った所に一軒だけ旅館らしい旅館があった。市比野荘である。まだ日は
高かったが、他に見物する所もなさそうなので早く温泉にでも浸かろうと宿をとることにした。
市比野温泉
2階の部屋に案内されて浴衣に着替えた。温泉は地下にあると教えられた。さーて困った、
大金の入った鞄をどう処置するかである。後で考えれば何でもないことだが、最初はキチンと
した部屋なら手元で保管する予定でいたのだ。所属隊員の一ヵ月分の給料と、糧食品その他の
購入資金だから、相当の金額である。
その上、給料を各自に配分する関係で小銭も必要なので重量もある。私も一人でこのような
大金を持っての行動は初めてのことなので、どう処置しようかと迷っていたのである。風呂に
行く途中帳場に寄って、
「すみません……、このお金、預かって下さい」
と、頼んだ。帳場では思わぬ大金にちょっと驚いた様子である。
風呂は地下に在った。地下といってもガラス戸の外側は先程渡った小川の川面が同じ高さに
見渡せる。向かいの川岸に並んでいる湯治場の風呂場も、目の前に見えて話し声まで聞こえる。
まるで野天風呂に浸かっているような雰囲気である。一人ではいるにはもったいないほど広く、
お湯は思ったより熱かった。久し振りにゆったりと命の洗濯ができた。
部屋に帰ってみると荷物や服がなくなっている。アレッ! と思っていると仲居さんが来て、
「別館の方に部屋を代えましたから……」
と言いながら、先に立って案内した。渡り廊下を渡った奥に、控えの間付きのきれいな部屋が
ある。壁には裸婦の絵が懸けられている。仲居さんの説明によれば、新婚さんなど特別のお客
に使う部屋だそうで、今は季節外れのため空いているとのことである。
「気に入った部屋を使って下さい」
そう言いながら、次々に部屋を案内した。間取りは似たようなものだが、飾られた絵にはそれ
ぞれ特徴があって興味を引いた。やはり、「見せ金」の威力は絶大である。
「夕食にはビールなど飲まれますか?」
そう聞くので、
「アーア、飲むよ……」
と、答えたら、何本ぐらい飲まれますかと聞く。おかしなことを聞くものだと思っていたら、
帳場を通すのは一本だけにして、あとは私が近くの酒屋から直接買って来て上げますと言う。
お金は全部帳場に預けて持っていないと言ったら、
「私が立て替えておきますから……」
そう言って出て行った。
他にお客がいなかったのか、上げ膳、据膳、付きっ切りのサービスであった。一泊の予定だ
からと、着替えの下着など持参していなかった。ところが、翌朝起きてみると、きれいに洗濯
して乾かしてあった。
いたれりつくせりのサービスに感激し、以後「本土」に渡るたびにお世話になった。その代
わり、 出張旅費は常に赤字を覚悟しなければならなかった。それでも、島に缶詰にされて寂し
く連絡船を見送る一般の隊員からすれば羨望の的であった。これも、会計空曹の特権である。