下甑島 レーダー サイト
航空自衛隊発足当時の目標は、アメリカ軍によって運用されていた、わが国の防空システム
を早急に引き継ぐことであった。そのため、パイロットの養成と戦闘航空団の編成、それに、
レーダーサイトの自主運営が急務となっていた。
私は第1航空教育隊で自衛官としての基礎教育が終わると、浜松の航空自衛隊整備学校に入
校し、そこで会計職種の教育を受けた。そして、アメリカ空軍春日原ベース内に所在する通称
9040部隊に赴任した。
会計科に赴任した同僚。 永末・糸山・難波・後呂・山川
その当時、福岡市郊外の板付飛行場はアメリカ軍の管理下にあった。その付属設備として、
福岡市南部の春日原(当時筑紫郡春日町)に、ベースアネックス(通称春日原ベース)と呼ば
れる、 アメリカ空軍の基地施設があった。
ここには、アメリカ空軍の第43航空師団司令部があり、事務室や兵舎などの他に、軍人や
軍属の家族用の住宅や、その関連施設などが広大な敷地内に散在していた。また、BXをはじ
め、劇場、野球場、プールその他の娯楽施設、それに各種の学校まで完備していて、さながら
一つの小都市を形成していた。
航空自衛隊は、この春日原ベース内でアメリカ軍と同居して、 そのシステム引き継ぎの準備
をしていた。第9004部隊(現・西部航空方面隊司令部)は、西鉄大牟田線の白木原駅近く
の、アメリカ空軍司令部の建物(T100)の中にあった。また、第9040部隊(現・西部
航空警戒管制団司令部)は、ベースの正門と北門の中間付近の建物(T51)の中で、やはり
アメリカ軍と同居していた。そして、その2階の一室が会計科の事務室に充てられていた。
営内者の居住する隊舎は航空自衛隊自前の施設ではなく、陸上自衛隊福岡駐屯地の8号隊舎
に居候していた。春日原ベース内の勤務場所へは、朝夕トラックで通勤していた。そのため、
昼飯は陸上自衛隊で調理したものを、運搬して配食していた。だから、内務生活は陸上自衛隊
のお世話になり、職場はアメリカ軍と同居という変則的な毎日を送っていたのである。
「コーヒーブレイク」には、アメリカ軍の薄くて不味いコーヒーに砂糖をガッポリ入れてす
すり、日本円でも買えたコーラを飲み、アメリカ兵に頼んで「キャメル」や「ラッキーストラ
イク」などの煙草を買ってもらい優雅な生活を送っていた。
当時のコーラは自動販売機ではなく、アイスボックスで冷やしていた。また、コーヒーは当
初アメリカ兵と同様にメスホールに行けば自由に飲むことができた。ところが、われわれの目
的がコーヒーではなく砂糖にあることがバレて、締め出されてしまった。
アメリカ軍との共同生活で一番困ったことはトイレである。十坪ぐらいの部屋に洋式の便器
が並んでいる。キチンとした仕切りや扉などないので、お互いにまる見えである。小の方はよ
いとして、大の方は日本人の感覚では無理である。生活環境の違いとはいえこれには閉口した。
彼らは別段違和感もないらしく、お互いにお喋りしながら用を足していた。
また昼間の生活に比べ、夜の生活は必ずしも快適ではなかった。当時営内居住の空曹は一日
おきにしか外出が許可されなかったからである。ところが、制限されると用事がなくても外出
したくなるのが人情である。さっそくない智恵を絞った。
そして、夜学に通えば毎日外出できる制度があることが分かった。夜学といっても、本来は
大学の夜間部などへの通学が対象である。ところが、われわれの目的は外出して遊ぶことで、
勉強ではない。
当時福岡市大名町に「水城学園」というのがあり、欧文タイプや英会話などを教えていた。
そこの「初級英会話コース」に入学の手続きをとった。電車の定期券や入学金その他で、大変
な物要りである。それでも、自由を金で買うのだから仕方がない。学生証と定期券を提示して
「通学許可証」なるものを手に入れた。これさえあれば毎日大威張りで外出できるのである。
そのころ社交ダンスが流行していた。だから、ダンスのレッスン場に通うか、スタンドバー
でウイスキーをなめるのが夜の時間を潰す方法であった。ところで、外出が多くなれば必然的
に資金は欠乏する。だから、復員の際に持ち帰ったロンジンの航空時計は、質屋の倉の中で時
を刻む期間が長くなった。
また時には遊び過ぎて、外出の門限を切ることがある。だが、この問題もすぐに解決した。
要するに駐屯地の隊門を通過しなければいよのである。帝国海軍の上陸制度では、自分の所属
階級氏名を記載した「上陸札」を衛兵詰所に提出して上陸する。だから、衛兵詰所に「上陸札」
が残っていれば帰隊していないことが分かる。ところが、自衛隊の外出制度では「外出証」は
「通門証」と同じ性格で、各自が携行してる。だから、駐屯地の隊門を通過して帰らなければ、
陸上自衛隊の警衛隊員に外出時間の遅延を咎められることはなく、発覚の恐れはない。
航空自衛隊の当直空曹に帰隊しない旨を電話で連絡し、適当に外泊する。翌朝はアメリカ軍
が板付飛行場と春日原ベースの間を運行しているバスに便乗して、直接春日原ベースの事務室
に出勤する。そして、「外出証」を当直空曹に返納すれば万事解決する。当直空曹は輪番制で
回ってくるので、お互い様である。本来外泊するには「特別外出証」なるものが必要である。
ところが、一定の条件を満たさないと許可されない。だから、われわれは最も簡便な方法で外
泊していたのである。
*
この快適な春日原ベースでの生活も、そう長くは続かなかった。第9043部隊(下甑島サ
イト)に転属が決まったからである。部隊は春日原ベース内で編成された。そして、携行する
資材などの準備ができ次第、下甑島へ移駐することになった。
昭和30年6月21日、先発隊の一員として、アメリカ海軍のLSM(中型上陸用舟艇)に
乗船して、夕暮れ迫る博多港を後にした。その日は低気圧の関係で、海上は大時化であった。
出港と同時に船酔いが酷くなり食事など全く受け付けない。そのうえ、横になれば胸が苦しく
なるのでベッドに寝ることもできなかった。仕方なく甲板に上がれば、頭から汐をかぶる始末
で、一晩中まんじりともできない大変な航海であった。やはり、復員船の乗員は無理であった
かと、今更ながら荒天時の航海の厳しさを身を持って体験した。
甑島は、北から上甑・中甑・下甑の三つの島があり、レーダーサイトは、下甑島の標高5百
メートル程度の山の稜線に沿って建設されていた。 そして、海岸から山上までの約6キロには
サイト専用の道路が敷設されていた。満潮を利用して専用道路に近い砂浜に乗り上げたLSM
は、潮が引くと同時に船首の扉を開いて搭載資材の陸揚げを開始した。船酔いはいつの間にか
嘘のように治っていた。
上陸用舟艇LSM
次は、陸揚げした物資を山上まで運んで、隊舎の設営をしなければならない。隊舎と言えば
聞こえはよいが、サイト建設に従事した建設会社が設備した、バラック建ての飯場跡である。
相当の期間放置されていたらしく、窓ガラスは割れ、ルーヒング張りの屋根は隙間だらけで、
青空が見えるほど荒れ果てていた。
しかし、早く何とかしなければ今夜のねぐらがない。まず部屋の掃除をして、ベッドの組み
立てから始めなければならない。次に炊事用の鍋釜も準備しなければ、今晩の食事にもありつ
けない。それなのに掃除用具などの梱包がどこかに紛れ込んで見当たらないのである。
隊舎のすぐ近くにアメリカ軍のモータープールがあった。見ると水道もあり、バケツも置い
ている。アメリカの兵隊がトラックを洗っていたので、
「プリーズ、レンドミー……」
と、声をかけたがバケツという単語が出てこない、バケツを指さして、
「ザッッ、ザッッ」
と、言った。すると、
「オーゥ! バケット? ドゥーゾー」
と、返事が返ってきた。なーんだ、バケツは英語だったんだ。こんな調子で、カタコトの英語
を使ってアメリカ兵との交流が始まったのである。
*
移駐して最初に困ったのが電話である。春日原ベースの中隊本部と連絡をとるのが一苦労で
あった。アメリカ軍の事務室に行き、
「テレフォン プリーズ」
と、単語を並べる。2〜3日すると自衛隊の事務室に、野戦用の携帯電話器が接続されたので
事務室から直接話せるようになった。
受話器を上げてガリガリとハンドルを手回しする。すると、
「スィッチボード……」
と、交換台勤務のアメリカ兵の応答がある。
「イタヅケ プリーズ……」
「スタンバーイ ワン……」
ザッザーと、雑音が流れる。
「イタヅケ……」
今度は日本人女性の明るい声に代わる、板付ベースの交換室が出たのである。ここで、中隊本
部会計科の内線番号を伝える。
「シックス セブン スリー トゥー ワン プリーズ」
「スタンバーイ……」
順調にいけば、これで本部会計科の事務室が出て日本語が話せるのである。
この内線番号は今でも記憶している。それほど苦労した番号であった。それはせっかく板付
ベースの交換室が出ても、
「スタンバーイ ワンミニッッ……」
「ラインズビィジィー」
そう言って切られる場合が多いからである。本来このネットワークは、アメリカ空軍の防空
組織運用に供するのが目的である。 だから常にアメリカ空軍が優先で、自衛隊が順調に使用で
きるとは限らないのである。
まず、サイトで電話交換台勤務のアメリカ兵に、
「ラインズビィジィー……」
と、言って繋いでもらえない場合が多い。
ところが日本人はセッカチである。5〜6分も待てばよいのに、またすぐにベルを鳴らす。
「ラインズビィジィー!」
アメリカ兵の声が、だんだんと荒くなる。
「ハーウスーン キャヌ アイ ゲッッ イタヅケ?」
こちらも負けてはいない。だが、こんな言葉が出るようになるには半年はかかる。いずれにし
ても、「離れ島」であることを実感として体験させられた電話騒動であった。