幻 の 甑 犬
甑島には山犬が生息しているとの話を聞いても、最初は誰も興味を示さなかった。ところが、
本土に渡っていろいろな人の話を聞くと「甑犬」と云って相当な高価で引き取るという。真偽
の程は知らないが、串木野市あたりで飼っている人がいて、それが愛犬家の間で評判になって
いるらしい。
体形は狼のようで、それほど大きくはないが、喧嘩には強くそのうえ山犬独特の風格があり、
シェパードも道を譲るとの噂である。大金を出す代わりに、生後一ヵ月以内の仔犬に限るとい
う条件が付いていた。それ以後は決して人になつかないので、飼い馴らすことができないとの
ことである。そして、今が出産の時期だから是非捕獲してほしいとのことであった。
自衛隊員が、下甑島の山の中で生活を始めたことを知って、話を持ちかけてきたのである。
そう言えば、夜中に野犬の遠吠えを聞くことはあったが、姿を見かけた者は誰もいなかった。
考えてみると、興味のある話ではあるが、険しい山中のどこに生息しているのか見当も付かな
い。そのうえ、どうして捕獲するのかその方法も知らないではどうすることもできないでいた。
*
ある朝、裏山の方で人が騒いでいる。何事が起こったのかと見に行った。すると、アメリカ
兵が残飯を捨てるために掘った深くて大きな穴に、野犬が迷い込んでいる。残飯を漁りに来て
上がれなくなったのであろう。ナーンダつまらないと帰りかけると、アメリカの兵隊がピスト
ルを持ち出して撃ち始めた。
「ウゥー」と、うなって身構える姿を見て、これが噂の「甑犬」だと直感した。確かに犬と
いうよりも狼といった感じである。しかし、成犬では金にならない。ピストルの弾が2〜3発
当たったらしく、 低く身構えながら凄い目で射手を睨らみ付けている。今にも飛びかからんば
かりの気迫である。
ピストルでは効果なしと思ったのか、今度はショットガンを持ち出して撃ち始めた。だが、
さすが「甑犬」である、最後まで悲鳴一つ上げずにこときれた。
翌朝のことである。また銃声が聞こえ始めた。昨日の残虐な情景を思いだしたので見に行く
気にもなれなかった。ところが、昼近くになって別の用件で近くを通りかかったので、ついで
に穴の中を覗いて見て驚いた。仔犬が2匹いたのである。昨日の連れの雌犬であろうか、牡犬
の後を慕って穴に入り、穴の中で出産したものと思われる。なぜなら、生まれたばかりの仔犬
が飛び込める程浅い穴ではなかったからである。
仔犬はすでに死んでいたが、外傷はない模様である。しまった! 今朝来ていればまだ生き
ていたのかも知れない。千載一遇のチャンスを逃してしまったのだ。それにしても、仔連れの
犬を撃ち殺すなんて、アメリカ兵は野蛮だ!
やはり金儲けなどには縁がなかったのだと、諦めるより仕方がなかった。
その頃、炊事係の隊員が2匹の仔犬を拾って帰り、残飯を餌に育て始めた。当人は「甑犬」
だと言い張っていたが、これは純血ではない。雑貨店で飼っている雌犬が、裏のお堂の床下に
産んだもので、
「山犬の種だから飼いませんか……」
と、 私も勧められていたのである。
その後は「甑犬」を見かけることもなく、また再び話題になることもなかった。「甑犬」は
本土では「島犬」とも呼んでいた。そして島の人は「山犬」と呼んでいた。
明治維新の英雄、西郷隆盛の愛犬も「甑犬」であったとの説がある。