本 土 転 勤
第9043部隊を含めて当時のレーダーサイトはまだ人数も少なく小隊編成であった。小隊 長の末吉三郎1尉は予科練甲飛の1期生、次席の亀田道男2尉は予科練乙飛7期生の出身で、 いずれも帝国海軍では歴戦の搭乗員であった。 だから《特攻くずれ》の私が、少々羽目を外した行動をしても、旧海軍搭乗員時代の仲間意 識に免じて、直接文句を言われることはなかった。それをよいことにして、私生活はますます 乱れていった。離島生活への不平不満を発散していたのである。 当時は、隊員の頭数が揃い次第に次々と新しいサイトへの移駐を実施していた。昭和29年 11月に高尾山と福江島に初めて移駐した。明けて30年は1月に西戸崎、2月に見島、4月 には対馬の豆酸崎そして6月の下甑島と移駐が続いた。また、高畑山も編成準備中であった。 そのため、春日原ベースの中隊本部にも余分な人員など残っていなかった。だから、特別な事 情でもない限り隊員の交替などできる状態ではなかったのである。 しかし、本土に帰りたい一心から、中隊長森永3佐が部隊の初度視察に来られたのを機会に 転属の希望を申し出た。私の田舎には、次のような格言がある。 「庄屋の娘も、口説いてみないと分からない」 初めから高嶺の花と諦めていたのでは、何事も成就しないという教えである。だから、積極的 に転属の希望を述べたのである。 そして10月末、遂に念願が叶って中隊本部に転属が発令された。小隊長末吉1尉が、甲飛 の後輩である私の将来を考慮しての処置であろう。それとも、いつ暴発するか分からない私の 行状に愛想をつかしてのことかも知れない。ともあれ、半年間にわたる離れ島の生活に別れを 告げて「本土行」の連絡船に乗り込んだ。この日ばかりは海上もベタ凪ぎであった。 * 久し振りに、春日原ベースに帰り中隊本部での勤務が始まった。今度は今までと逆の手順で 電話をかける。受話器をとって板付の交換台を呼ぶ。 「ハロー ギブミー デターチメント ナイン プリーズ」 「スタンバイ……」 下甑島サイトの交換が出ると、 「ジャパニーズ オゥダーリールーム プリーズ」 板付基地の交換台には日本人女性が勤務していた。だから最初から、 「スミマセーン……、下甑の自衛隊を呼んでください……」 すると、親切にも自衛隊の事務室を呼び出してから繋いでくれる。 ダイヤル一本で全国の基地と通話ができる現在の自衛隊のネットワークに比較すれば、当時は 涙ぐましい努力が必要であった。 ある日、所用で司令部の建物(T100)に行った。すると、見覚えのある顔に出会った。 「オーイ! 江藤じゃないか!」 「オオゥ! 永末か! 生きとったか!」 彼とは甲飛12期の同期生である。鹿児島航空隊に飛行予科練習生として入隊してから、谷田 部空(空は旧海軍航空隊の略)の中間練習機課程そして百里原空の実用機課程まで一緒に訓練 を受けた仲である。 昭和19年の暮、百里原空を卒業した際に別々の実施部隊に別れて転勤し、それ以来10年 ぶりの再会であった。彼は昭和25年、警察予備隊が創設されると同時に入隊していたのだ。 そして今度、陸上自衛隊から航空自衛隊に転換したのである。 Rコース(経験者操縦課程)の学生としてT6練習機で操縦訓練を受けていたが、事故を起 こしたためにエルミネートされたとのことである。そのため、西戸崎にある第9041部隊に 転属になり、司令部に挨拶に来ていたのだ。彼の衿には2等空尉の記章が輝いていた。私は、 去る9月に2等空曹に昇任してはいたが、それでも3階級の格差が付いてしまった。何として も早く幹部候補生の選抜試験に合格しなければと覚悟を新たにした。 その当時、脊振山サイトはまだ建設途上であった。だから、博多湾の入り口にある志賀島の 山頂にレーダーが設置されていた。この第9041部隊に勤務する隊員は、西戸崎に居住して トラックで通っていた。脊振山サイトが完成してこの部隊が現在の地に移駐したのは、翌年の ことである。目次へ戻る 海栗島へ [AOZORANOHATENI]