海栗島 レーダーサイト
そもそも、この世の中は自分の思い通りに運ばないのが常である。せっかく本部に帰ってき たと思ったのに明けて2月、今度は長崎県対馬に所在する第9056部隊に、業務援助のため 派遣勤務を命じられた。博多港までジープで送られ、対馬航路の「大衆丸」に乗り込んだ。 前日来の荒天で欠航したのと、旧正月の帰省客で船室は満員である。その上、船室特有の臭 いに、出港前から胸が悪くなる始末である。さらに、厳冬の玄界灘は想像以上に荒れていた。 つくづく船とは相性が悪いのだと観念した。 第9056部隊は対馬の南端、豆酸崎に所在している。着任してみると、寝室や事務室それ に食堂とすべて幕舎である。下甑サイトのバラック建の隊舎もひどいものであったが、ここは さらにに環境が悪い。これは大変な所に派遣されたものだ。航空自衛隊では、いずれアメリカ 軍が引き揚げるので、現在アメリカ軍が使用している施設を引き継ぐことにして、隊舎などを 新たに建設するのを控えていたのである。 同僚に誘われるままに外出して彼の下宿を訪れた。ここは漁師町で、昔からの旧正月を祝う 習慣が残っていた。家毎に土地で捕れた大きな「寒鰤」を軒先にぶら下げている。これを切り 取って刺身をつくり酒盛りが始まった。 ここ豆酸崎は他所者を非常に大切にする風習がある。しばらく飲んでいると、初対面の私に、 「今度はうちに来てください……」 そう言って連れ出すのである。 そのお宅で飲んでいると、また次の家に連れて行かれる。初めての土地で地理不案内である。 そのうえ顔ぶれが次々に変わるので、酒には少々自信のあった私も、同僚とどこで別れたのや ら、どこのお宅にお世話になったのやら、皆目見当もつかない有様であった。 対馬の北端に海栗島という小さな無人島がある。ここに、新しくレーダーサイトを建設して いた。これが完成して豆酸崎の第9056部隊が引越しすることになった。引越しといっても 簡単ではない。すべての資材を梱包してトラックに積み込み、浅藻湾に回航したアメリカ海軍 のAKL(小型輸送船)まで運ぶ。これを船に積み替えて海栗島に回航して陸揚げする。 そしてまた組み立てなければならない。膨大な作業量である。AKLはLSMと違い、荷物 を積んだトラックをそのまま乗り入れて運ぶことができない。海栗島には下甑島のように遠浅 の砂浜がないからである。寒風の中、明けても暮れても屋外での荷役作業は大変であった。 海栗島は国境の島である。すぐ北側に「李承晩ライン」が引かれていた。韓国側が一方的に 設定した軍事境界線である。その頃、韓国の警備艇に拿捕される日本漁船が後を絶たなかった。 (当時捕獲された漁船は326隻、抑留漁船員は3,904名にも及んだ) 昭和46年6月、日韓基本条約が締結されるよりも、10年近くも前の出来事である。地図 を見ても分かるように、九州よりも韓国の方が近い位置にある。天気の良い日には遥かに韓国 の山々が望まれ、夜は釜山の明かりが瞬くのを見てその距離を実感し、少なからず緊張した。 3月2日、レーダーサイトの移駐は無事終了した。アメリカ軍コマンダーから歓迎の挨拶を 受けた。黒人の中尉である。要旨は自衛隊員にもすべてアメリカ軍と同じ待遇を与えるから、 お互いに協力して任務を遂行して欲しい、ということである。 アメリカ煙草もBXで直接買えるし、映画も堂々と見ることができるようになった。下甑島 サイトのキャプテン・カレンスキーに比べて雲泥の待遇である。アメリカ軍士官にもいろいろ な人物がいるのだ。 ここ海栗島では真水が出ない。すべて本島から舟で運んでいる。飲料や炊飯以外には絶対使 用してはいけないとのお達しである。彼らは洗濯物を下着からすべて個人別の袋に入れ対岸の ランドリーに送っていた。下着だけは自分で洗濯する、日本人の習慣からはちょっと馴めない ものがあった。しかし、「郷に入つては郷に従え」でわれわれもこれに倣った。だが、 下着だ けは米軍のシャワーにかかる際に持ち込んで手際よく洗濯した。 その当時、自衛隊では「逆性石鹸」なるものを使用すれば海水でも洗濯できると考えていた。 ところが、実際には黄ばみが着いて却って汚くなり実用的ではなかった。 基地内を散策していると、アメリカ軍ハットメントの入口に水道の蛇口が設置されている。 念のため捻ってみると勢い良く水が出る。靴を洗う設備である。ナーンダ、俺達には節水を要 求しながら彼らは靴までも洗っているのだ。 すぐにバケツとヤカンを持ってきて一杯にし両手に下げて帰った。アメリカの兵隊が見てい たが別に咎めもしなかった。宿舎に帰り、 「水なんか、いくらでもあるぞ!」 そう言って胸を張った。ところが、これは大失敗であった。水は水でも海水なのだ。ここ海栗 島では、消火栓やトイレその他の水は、海水を汲み上げて使用していたのである。 海栗島全景。
* 第9056部隊の海栗島移駐も無事完了して、原隊復帰を命じられ、再び春日原ベースでの 生活が始まった。当時の通信科長は田中利夫1尉であった。彼は甲飛の3期生で、初陣は中国 奥地の重慶爆撃である。大東亜戦争緒戦のマレー沖海戦では、美幌航空隊中隊長機の電信員と して参加された。それ以後各地を転戦した歴戦の勇士であり甲飛の大先輩である。 その田中1尉が、後輩である私の将来を心配されて、身を固めることを熱心に勧められた。 幹部候補生の受験勉強をするにも、営内生活では遊びが優先して駄目だからと、親身になって 諭され《特攻くずれ》も遂に年貢の収め時を悟った。また見合いの相手も選考していただき、 わざわざ田舎の私の実家まで足を運んで、仲人の労をとっていただいた。お陰で家庭を持ち、 人生の転機を迎えることになった。 金婚式を迎えることができました。目次へ戻る [AOZORANOHATENI]