復員はしたけれど
昭和20年8月15日、天皇陛下のご聖断によって、大東亜戦争は終結した。大井海軍
航空隊で「神風特別攻撃隊・八洲隊」の一員として、特攻待機の状態に置かれていた私は、
任を解かれて懐かしの故郷へ復員した。
その頃《特攻くずれ》という言葉がささやかれ始めていた。定義のある言葉ではない。
敗戦により復員してきた特攻隊の生き残りで、社会的な規範を無視したり、平気で常識外
れの行動をとる連中をこう呼んでいた。
戦争の生き残りの証しとして持ち帰った、第3種軍装に飛行靴を履き、首には富士絹の
マフラーを巻いたのが彼らの代表的なスタイルであった。帽子は飛行帽ではなくて、黒線
が1本入った艦内帽が幅を利かせていた。
戦争中は、 国民から畏敬の念をもって迎えられていた特攻隊員も、敗戦によりその霊験
を失い、「特攻隊員は犬死であった」としか評価されない世の中へと急変したのである。
その鬱憤を晴らすかのように、非社会的な言動をしたり、進駐してきたアメリカ兵や警察
などに対し反抗的な態度をとることで、自らを誇示していた。そして、それがさらに世間
の同情を失うという悪循環を繰り返していた。
これは、一度死の瀬戸際を体験した者の開き直りである。
「俺たちは、死ぬことなんか怖くないんだ! 矢でも鉄砲でも持ってこい!」
そう言った強がりである。 当時の私は、 正真正銘の《特攻くずれ》であった。弱冠18歳
といえども、帝国海軍の航空機搭乗員の成れの果てである。だから、男一通りの遊びは経
験している。毎日のように隣の町まで出かけては、夜遅くまで遊び回っていた。
私の出身地である方城村は、福岡県田川郡の北西部に位置する山村である。だが、隣接
する金田町は田川郡内でも古くからの町として栄えていた。ここには、「大和舘」という
映画舘と「敷島座」と呼ぶ芝居小屋があり、娯楽の少ない近隣町村の中では、唯一の盛り
場として賑わっていた。
また、駅前には撞球場や飲食店などもあり、遊び場所にはこと欠かなかった。当時の飲
食店にはまともな食べ物や飲み物などはなく、どこで仕入れてくるのか、「マッコリ」や
「どぶろく」その他得体の知れないアルコール類が売られていた。
最も危険とされていた航空機搭乗員で「特攻隊」として戦死したものと諦めていたのに、
無事に帰還できたことを喜んで、初めは家業の手伝いもせずに遊び回るのを黙認していた
母親も、 私の行状を見兼ねたのか、
「上の学校へ行かんね……、お金の事なら何とか都合できるから……」
そう言って、事あるごとに進学を勧めた。
復員後しばらく経って、予科練(飛行予科練習生の略)入隊に際して退学したはずの学
校から卒業証書が送られてきた。この中に、文部省の指示により卒業を認定するとの経緯
説明書が同封されていた。
これは、予科練でも普通学科として国語、漢文、数学などの授業が行われていたので、
学校教育に通算して卒業させるという趣旨なのか、それとも、復員した大勢の若者が一度
に復学する混乱を避けるための特別な措置なのか、いずれかの理由と思われる。
5年生に在学中からの入隊者は卒業と認定され、4年生以下の者は卒業を認められずに
復学した。私の場合は、旧制中学校5年生の1学期を終了した時点で退学(当時は予科練
を始め軍の学校等に進学しても、休学の制度はなくすべて退学扱いであった)して予科練
に入隊したので、卒業を認定されたのである。そのまま学校に残っていた私の同級生は、
同年12月末に、2学期終了時点で繰り上げ卒業していた。
もしも、この特例による卒業認定の処置がなければ、小学校卒業の資格しか残らないの
で、私も復学や進学などを真剣に考えたと思う。あの時代、私の田舎では、2〜3割程度
の者しか中等学校へは進学しなかった。また、今日のような高学歴社会になるとは夢想も
しなかった。だから、中等学校卒業の資格があればその当時の田舎では大威張りであった。
私の生家は平均的な農家で必ずしも裕福ではなく、 そのうえ、兄ニ人姉三人の六人兄弟
であった。末っ子に生まれた私は母親からは特にかわいがられていた。
「親との関わり合いが一番短い子だから……」
と、いうのがその理由であった。また農家の三男坊には分けてやるだけの田畑などない。
だから、「借金してでも、上の学校に行かせる」
と、言っていた。兄や姉が高等小学校しか卒業していないのに異例のことである。
話によれば2番目の姉は特に勉強がよくできたそうである。担任の先生はその才能を惜
しんで、師範学校に行くことを勧めた。わざわざ家庭を訪問して学資は不要だから進学さ
せるようにと熱心に説得した。それでも親の許しは得られなかったのである。これが昭和
初期の不況時代における農村の実態である。
そんな時代に育った者として、《特攻くずれ》がいまさら大学に進むなんて、お門違い
も甚だしいと、母親の助言など無視して相変わらず遊び回っていた。しかし、復員の際に
戴いたお金もだんだん心細くなり、おまけに物価は日一日と上昇してきた。そこで、何と
か将来の事を考えなければとは思っていた。
ちょうどその頃、復員船の乗組員を募集していた。元海軍の軍人であれば終戦時と同じ
待遇で採用するという。それなら上等飛行兵曹と同じ俸給がもらえる。航空手当はなくな
るにしても、代わりに航海手当が支給されるはずである。こんな好条件の就職口は、当時
の田舎では決して見付からない。さっそく応募した。
採用通知が届いたので、佐世保市の援護事務所に出頭することにした。当時の佐世保の
町はアメリカの兵隊で満ち溢れていた。いまいましいけれど、戦争に負けたのだから仕方
がない。昔の記憶をたどりながら岸壁に出た。海上を見渡すと、ここもアメリカの艦船で
埋まっている。復員船はどれかと見回したが、それらしい船は見当たらない。
旧海軍の第3種軍装を着用した、乗組員らしい者が通りかかったので、事務所の所在を
確かめようと思って話しかけた。彼の話によれば、復員船は沈没を免れた軍艦から大砲な
どの武装を撤去して、船室を増設するなどの改装を行い、乗組員が確保でき次第に配船し
ていると言う。
「大きな船から手をつけたので、今残っているのはあれですよ」
そう言いながら指さした。見ると海防艦か駆潜艇か知らないが、ちっぽけな船が繋留され
ている。
「今日は遅いから、担当者は帰ったと思いますよ、明日出直した方がよいでしょう」
そう言って彼は立ち去った。
もう一度その船を見直した。いくら小さくても駆逐艦程度の船を想像していたのにどう
考えても小さ過ぎる。速力だって10ノットも出ないだろう。これでは機雷が1発当たれ
ば轟沈だ。その時期、関門海峡をはじめ至る所に、アメリカ軍のB29が投下した機雷が未
処理のままで放置されていた。そのうえ、掃海などはいつ終わるのか見当もつかない状態
であった。
海防艦
また、行き先がどこであるにしろ、海上を航行する以上は浮遊機雷の危険もある。昼夜
を問わず、いつ爆発するか分からないのだ。当時は安全な海など存在しなかったのである。
戦争中、死に直面していたので度胸はついていると自負していた私も、途端に命が惜しく
なった。
先ほどまでは、衣食住付きでいくらになるなど、いい条件ばかりを考えて悦に入ってい
たのに、今度は不安で胸が一杯になってきた。あんなに小さな船だと揺れも大きいだろう、
船酔いするかも知れない。また飛行機の経験はあっても船のことは皆目見当もつかないの
に、どんな仕事をするのだろうか……。
われわれは飛行機搭乗員といつても、もともとは海軍の軍人である。だから、予科練の
教育課程には「艦務実習」と呼ぶ訓練項目があり、一定の期間を軍艦に乗せて、艦内実務
の訓練を実施することになっていた。ところが、われわれ甲飛(海軍甲種飛行予科練習生
の略)12期生からはこの制度が取り止めになった。その代わり「軍港見学」という名目
で軍港や軍艦を見学する程度の内容になった。ところが、われわれのクラスはこの「軍港
見学」さえも中止になってしまった。
それは、1期先輩に当たる甲飛11期生が「艦務実習」で乗り組んだ戦艦「陸奥」が、
瀬戸内海で謎の爆沈事故を起こし、多数の死傷者を出したのが影響したのかも知れない。
それとも、当時われわれを乗せて訓練するだけの軍艦は、もう残っていなかったのが真相
ではなかろうか。そのような事情で、海軍の軍人でありながら軍艦には一度も乗ったこと
がなかったのである。
思案し始めると際限がない。考えてみれば、この程度のことは志願する前に当然考慮し
ておくべきことであった。いまさら引き返すわけにもいかない。だからといって、戦争中
死の直前から生還できた、せっかくの幸運を捨て去るのはもったいないような気もする。
しばし呆然と立ち尽くしていた。