大東亜戦争の呼称について
「大東亜戦争」の呼称について所見を述べたい。この呼称は、大東亜戦争開戦直後の、
昭和十六年十二月十二日の閣議により決定され、次のように発表された。
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間ニ付テ
閣議決定(昭和十六年十二月十二日)
一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事変
ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前一時
三十分トス [以下省略]
関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、
「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ
改ム」と定められて、一般にもこの呼称が定着した。
大東亜戦争従軍記章。
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昭和二十年九月二十日、「ポッダム宣言」受諾により連合国軍の管理下に置かれた日本
政府は、 占領下の特別処置として、 次の勅令を公布した。
ポッダム宣言の受諾に伴い発する命令の件 (昭和二十年勅令第五四二号)
「ポッダム宣言」の受諾に伴い、連合国最高司令官の為す要求に係わる事項を実施するた
め、特に必要ある場合は、命令をもって所要の定めを為し、必要な罰則を設けることを得。
この勅令を基に、同年十二月十五日、連合国軍総司令部参謀副官発第三号。終戦連絡中
央事務局経由日本政府に対する覚書の中で、
「公文書ニ於テ『大東亜戦争』『八紘一宇』ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ、日本語ト
シテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ之
ヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ即刻停止ヲ命令スル」。
との命令が出された。そのため「大東亜戦争」の呼称は公文書では使用できなくなった。
しかし、公文書以外では制限されていないのに拘わらず、なぜか使われなくなった。
*
昭和二十七年四月十一日、講和条約の成立に伴って、政府は法律第八一号を公布して、
前記の勅令第五四二号を廃止した。この法律によって、占領軍の命令や指示はその効力を
失い、占領時代の各種の制限は消滅したのである。
国内法としては、昭和十六年十二月十二日に閣議決定された「大東亜戦争」の呼称は、
それ以降、法的な改廃は行われていない。したがって、法律上は正式名称として存続して
いたと解釈できる。ただし、ポッダム宣言の受諾によって、公文書での使用が一時期禁止
されていたと考えるのが妥当であろう。
かりに、名称の改廃があったとしても、わが国があの当時「大東亜戦争」と呼称して、
戦争を遂行してきたことは、歴史的事実である。事の善悪は別として、この事実まで抹殺
することは不可能である。ところが、この歴史的事実を隠蔽するかのように、「太平洋戦
争」などと根拠のない名称を使用するのが、今や報道機関などでは主流となっている。
今次の世界大戦は、アメリカ合衆国の「太平洋戦争」やソ連の「大祖国戦争」のように、
それぞれの国や地域で呼称が異なっている。世界的に共通した呼び名としては、 第二次世
界大戦(The World War Two)が一般的であろう。現在わが国の報道機関などで使われて
いる「太平洋戦争」も国際的な呼び名ではない。
アメリカ合衆国の公刊戦史などに「The War in the Pacific」と使われているが、これ
は、第二世界大戦においてアメリカ合衆国が、ヨーロッパ戦域に対して、 太平洋戦域とい
う意味で使用したもので、戦争全体を指すものではない。
「大東亜戦争」の戦域は中国大陸をはじめ遠くビルマ及びインド洋にまで達した。だが、
当時の説明によれば、「『大東亜戦争』トハ大東亜新秩序建設ノ為ノ軍事行動ノ総称ナリ」
と解説し、これを「目的」としてとらえている。だから、地域を示す用語ではなかった。
そもそも「大東亜戦争」は、植民地化されたアジア地域からアメリカや西欧諸国の勢力
を排除して、日本を盟主として共存共栄を図る「大東亜共栄圏」の建設がその目的である。
そしてその目的が崇高なるが故に、「聖戦」と呼ばれたのである。
結末は敗戦に終わり、 その理想は達成できなかった。しかし、日本国政府が閣議で決定
した「大東亜戦争」を使用せず、法的にも根拠のない「太平洋戦争」と呼称することで、
太平洋戦域におけるアメリカ合衆国との戦争のみを強調し、中国大陸や東南アジア方面で
の軍事行動を隠蔽するような態度をとるのは、改めるべきではなかろうか。
「太平洋戦争」とはアメリカ合衆国が対日戦争に使った呼称である。これを借用するこ
とで「大東亜戦争」をあたかも他国の戦争のように見せかけている。これが、近隣諸国か
ら日本人は歴史認識が足りないと糾弾される一因になっているのではないだろうか。
大東亜結集国民大会。(昭和18年11月7日・日比谷公園)
前にも述べたとおり、テレビや新聞などの報道機関では「太平洋戦争」と呼ぶのが本流と
なっている。ところが、中には「大東亜戦争」と正しい名称を使用する記者もいる。下記は、
平成21年8月9日の西日本新聞である。
大東亜戦争
「太平洋戦争」とは
西洋史には「太平洋戦争」と呼ぶ戦争が存在する。これは、1879年から1883年
までの間、南米のチリとペルー及びボリビアの間に行われた戦争で、別名「硝石戦争」と
も呼ばれている。それは、火薬の原料である「硝石」の争奪が絡んだ戦争であった。
そもそも事の起こりは、この3ヶ国が国境を接するアタカマ砂漠には無尽蔵の鉱物資源
が埋蔵されていた。66年にチリとボリビアの間に結ばれた国境協定でこの地域の資源を
折半することが決められていた。ところが67年に新たな「硝石」の鉱脈が発見された。
すると、チリの企業が大挙ボリビアやペルー領に進出した。そこで、ボリビアとペルーは
チリに対する「秘密同盟条約」を結んだ。
ペルーはその当時最大の輸出品目だった、グアノ(鳥糞石)が枯渇してきた上に不況に
苦しんでいた。また、ボリビアも財源を欲しがっていた。75年に至り、ペルーは国内の
チリ系の企業を有償で接収した。78年、ボリビアも自国領内のチリ系企業に対して課税
額を引き上げた。チリがこれら処置に抗議するとボリビアはさらに「硝石」の輸出禁止、
経営者の逮捕という実力行使を行って抗議に対抗した。
79年、硝石業者の訴えを受けたチリ政府は、5千の兵力を動員して「アントファガス
タ」を占領した。その上、チリ軍はボリビア領の太平洋沿岸地域(現在のボリビアは内陸
国だが、当時は海に面していた)を制圧した。狙いは火薬の原料である「硝石」の確保で
ある。
3月1日、ボリビアはチリに対して宣戦を布告した。ペルーは政治及び経済ともに不安
定なことから最初は中立の立場に立ち、両国を仲裁しようとした。しかし、交渉の過程で
ボリビアとチリが妥協してペルー領を分割するのではないかとの疑惑を感じ、チリと戦う
方向に傾いた。4月3日、チリの方から先にペルーへの宣戦布告がなされた。3ヶ国の国
境地帯は交通不便な砂漠地帯であった。だから、戦争は主として海軍力の争いとなった。
「太平洋戦争」と名付けられたのもその為である。
イキケの海戦
チリ艦隊は先ず「イキケ港」を封鎖し、次に「カヤオ港」を攻撃しようとした。ペルー
海軍はその「カヤオ」から出撃したが、両国の艦隊は途中ですれ違ってしまった。まず、
「イキケ港」の沖にて港湾封鎖中のチリの艦隊と「カヤオ」から南下してきたペルー艦隊
との戦闘が始まった。5月21日の「イキケの海戦」である。
アンガモス岬の海戦
7月9日夜、ペルー艦隊が再び「イキケ港」のチリ艦隊を攻撃した。ペルー艦隊は「イ
キケの海戦」の後は正面からの戦闘を極力避けてゲリラ的戦術わ採用した。7月23日に
はチリの輸送船を拿捕するなどの戦果をあげた。チリでは艦隊司令官が辞任した。そして、
ペルー艦隊撃滅のために厳重な警戒網を布いた。
8月18日、ペルー艦隊は次に「アントファガスタ港」を襲撃した。このように、開戦
以来半年間に亘って港湾への砲撃や商船の拿捕を続けた。
10月8日未明、ペルー艦隊2隻とチリ艦隊3隻が「アンガモス岬沖」にて遭遇した。
ペルー艦は2隻とも小型艦で、チリは大型の戦艦であった。この戦闘で、ペルー海軍は実
質的に壊滅した。
タラパカの戦い
11月1日、制海権を掌握したチリ艦隊の援護射撃のもと、エスカラ将軍率いる1万の
陸兵が「ビサグワ」に上陸してこれを占領した。16日には、ボリビアからの援軍を得た
ペルー軍が反撃に出たが撃退された。27日には追撃に移ったチリ軍が「タラパカ村」の
ペルー軍を攻撃した。ところが、この「タラパカの戦い」に勝ったのは意外にもペルーと
ボリビア連合軍の方であった。ペルー軍のインディオ部隊が、チリ軍の大砲を奪い、その
砲門をチリ軍にむけて撃ち込んだのであった。しかし、味方の損害も大きく砂漠の中では
食糧も無く後方に下がる以外に方法は無かった。
タクナ・アリカの戦い
翌年(1880年)3月17日、チリ艦隊の封鎖する「アリカ港」に、ペルー艦隊の生
き残り艦隊が突入した。チリ軍の包囲を受けるアリカ守備隊への補給物資を満載した船は、
封鎖艦隊の監視をかいくぐって救援物資を陸揚げし、そのまま無傷で外海へと離脱した。
5月、チリ軍1万4千がイロ港に上陸してこれを占領した。チリ軍はそのまま砂漠を進
んで要衝「タクナ」へと攻め入った。タクナ市外の砂丘に陣取る、ペルー・ボリビア連合
軍は9千の兵をもってこれを迎え撃つたが、チリ軍の優勢な砲兵と反復突撃の前に、まず
ボリビア軍が崩れ、ペルー軍も東方の山岳地へと退却した。勢いに乗ったチリ軍は今度は
「アリカ港」への総攻撃を準備した。
6月6日、チリ軍が海陸から「アリカ港」への総攻撃を開始した。翌7日早朝には陸軍
が市街地に突入してこれを占領した。
リマ陥落
「カヤオ港」はペルーの首都リマの外港にあたる要地で、守備隊は約2千人であった。
11月19日に、2万6千のチリ陸軍が上陸してくるともはや防ぎようがない。硝石地帯
は完全にチリ軍に占領された。ペルー北岸に上陸したチリ軍3千は農園地帯を確保した。
翌81年、チリ軍2万5千がペルーの首都リマ市に接近した。1月13〜15日に行わ
れた決戦に敗れたペルー軍は遂に首都を放棄した。82年末、北部ペルーの有力者イグレ
シアス将軍が事態の収拾に成功し、翌年10月23日に至ってようやくチリとの講和条約
が成立した。
チリはタラパカ県の割譲を受け、タクナ・アリカ両県を10年間占領する権利を獲得し
た。タクナ・アリカは10年後に住民投票を行った上でその後の帰属を決定するとの取り
決めがなされたが、しかしこの約束は守られず、1929年にペルーがタクナを、チリが
アリカをそれぞれ領有し、チリがペルーに600万ドルを払うということで決着がついた。
ボリビアは84年のバルパライーソ条約によってアントファガスタ県を失った。それま
で太平洋に面していたボリビアが現在のような海なし国になったのはこの時からで、チリ
に対し35パーセントの輸出税を支払ってアリカ港の使用を認めてもらうという、極めて
屈辱的な立場に追い込まれてしまったのであった。
参考文献
『世界戦争史9・10』 陸軍少将伊東政之助著 1940年
『アメリカ大陸の明暗』 今津晃著 河出書房新社世界の歴史17 1990年
『ラテン・アメリカと海一近世対日関係外史』 前田正裕著 近代文藝社 1995年
『ペルー 太平洋とアンデスの国』増田義郎・柳田利夫著 中央公論新社 1999年
『ラテン・アメリカ史?』 増田義雄編 山川出版社 2000年
陣中談義へ
真実を語り継ぐために
[AOZORANOHATENI]