蒼空の果てに

      「宇垣特攻」 八月十六日説

 航空自衛隊第十二飛行教育団(防府北基地)に在勤中の話である。通信隊長木船三佐は 甲飛十期の先輩である。海軍時代は七〇一航空隊に所属し、艦上爆撃機の偵察員として、 フィリピン方面で活躍された。終戦の時期には大分基地に派遣されていた。七〇一航空隊 大分派遣隊は終戦に際して、宇垣長官にしたがい最後の特攻を実施した部隊である。 ☆七〇一空艦爆隊比島奮戦記 木船真治上飛曹 (別冊"丸"一一号「大いなる戦場」潮書房)   また、通信班長の鶴谷一尉は一般志願兵出身の二等兵曹で、終戦当時やはり大分基地の 通信室に勤務していたそうである。  ある日、防府基地本部庁舎北側の出入口で、二人が何やら話しながら靴を磨いていた。 通りかかった私が、 「通信隊は士官が二人揃って靴磨きをしてるのに、兵隊さんは手伝いもしないの? 昔な ら、ただではすまされんのに……」 と、冗談を言った。  すると、鶴谷一尉が笑いながら、 「隊長、そんなこと言っても、今の兵隊さんは昔の海軍のように『靴は踵を磨け!』なん て教育されてないから、自分の靴も満足に磨けないのよ……。ところで、暇ならお茶でも 飲んでいきませんか……」 誘われるままに、通信隊の事務室に立ち寄ってコーヒーをご馳走になった。  話題は海軍時代に移り、たまたま、「宇垣特攻」の賛否が問題になった。「宇垣特攻」 とは、昭和二十年八月十五日、第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将が、天皇陛下の「終戦の 詔書」を拝聴した後、隷下の七○一航空隊大分派遣隊に特攻出撃を命じ、自らも指揮官機 に搭乗して沖縄のアメリカ艦船群に対して最後の「特別攻撃」を実施した事例である。  「武人の最期を飾るに相応しい」と、いう肯定派と、「大西中将のように個人で責任を 取ればよい、部下を道連れにするのは行き過ぎだ」と、いう批判派に評価は別れていた。  宇垣長官は突入に先立ち、次の「決別の辞」を送信している。     過去半歳ニ亘リ麾下各隊将士ノ奮戦ニ拘ワラズ、驕敵ヲ撃砕、       皇國護持ノ大任ヲ果タスコト能ハザリシハ、本職不敏ノ致ス所ナリ。     本職ハ皇國ノ無窮ト天航空部隊特攻精神ノ昂揚ヲ確信シ、     部下隊員ノ櫻花ト散リシ沖縄ニ進攻、     皇國武人ノ本領ヲ発揮シ、驕敵米艦ニ突入轟沈ス。     指揮下各部隊ハ本職ノ意ヲ体シ、凡ユル困難ヲ克服シ、     精強ナル皇軍ノ再建ニ死力ヲ竭シ、皇國ヲ萬世無窮タラシメヨ。     大元帥陛下萬歳。         彗星機上にて   一九二四  また、第一航空艦隊司令長官として、レイテ島方面の作戦で初めて「体当たり攻撃」の 実施を命じ、その後、 軍令部次長の職にあって終戦を迎えた大西中将は、八月十六日未明、 日本刀で腹一文字に掻き切って自決を遂げられた。そして、次の遺書がのこされていた。      遺 書      特攻隊の英霊に曰す、善く戦ひたり、深謝す。     最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。     然れども其の信念は遂に達成し得ざるに到れり。     吾れ死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。     次に一般青壮年に告ぐ。     吾が死にして、輕挙は利敵行為なるを思ひ、     聖旨に添ひ奉り、自重忍苦する誡めとならば幸いなり。     隠忍するとも、日本人たるの矜持を失う勿れ。     諸子は國の寳なり。平時に處し猶克く特攻精神を堅持し、     日本民族の福祉と世界人類の平和の為、最善を盡せよ。              海軍中将   大 西 瀧 次 郎  私は以前から、宇垣長官の「決別の辞」のような長くて堅苦しい文章が、航空通信の暗 号に組めるものかと疑問に思っていた。操縦員だった私でも航空通信用の「タ」の暗号書 や「リサ乙」と呼ばれた緊急通信略語について、一応の知識を持っていた。だが、偵察員 ほど詳しいことは知らない。  そこで、鶴谷一尉が終戦当時大分基地の通信室に勤務していたと言うので、 「鶴さん、宇垣長官の最後の電報だけど、あんな堅苦しい文章が暗号に組めるの? それ とも、平文で打ってきたの?」 と、尋ねた。   「隊長、あんた何んにも分かってないねー、あの訓示は出発する前、封筒に入れて通信士 に預けて行ったのよ……、飛行機から打ってきたのは、開封の指示と時間だけなのよ……」 「それに、皆はあれを八月十五日だと思っているけど、本当は十六日なのよ……」  出撃の日付が違うことは初めて聞く話である。自分は参加しなくても、中津留隊長以下 多数の戦友が出撃するのを、断腸の思いで見送ったであろう木船三佐が、この発言を否定 しないところをみると、これは本当のことらしい。  彼らの三十年前の記憶が正しいとすれば、誰が何のために八月十五日として発表したの であろうか。興味ある問題である。私はこれ以降「宇垣特攻」に関する文献には特に関心 を持つようになった。              予科練同期の出直敏君は大分県中津市の出身である。彼の父親出直馬氏は「臼杵中学」 の校長をされ、昭和十六年三月「中津高等女学校」校長に就任、終戦当時は「杵築中学」 校長の職にあった。  「宇垣特攻」の指揮官中津留達雄大尉は、大分県津久見市の出身で臼杵中学時代の教え 子であり、次男敬氏とは同級生であった。その中津留大尉が、出撃の前日に別れの挨拶に 来たそうである。そして、それは八月十五日だったと言う。だからあの出撃は十六日のは ずだと言うのである。  中津留大尉は昭和二十年三月、七○一空に転属するまでは宇佐空で、分隊長兼艦上爆撃 機教官の配置にあった。だから、距離的に近い中津市在住の恩師の宅を、再三訪問したで あろうと推察する。そんな間柄であれば、出撃に際して、最後のお別れを告げたとしても 不自然ではない。 だが、自宅か杵築中学に直接お伺いしたのか、それとも電話によるものか定かでない。 いずれにしても、彼の父親はすでに亡くなり、確認の方法はない。 出 直馬校長と中津留大尉。    出 直馬校長と中津留海兵生徒(右)。            同じ中津市出身の作家松下竜一氏が、「私兵特攻」という本を出版されている。これは 「宇垣特攻」について、現地で聞き取り調査などを行い、いろいろな角度から事実を掘り 起こして記述された立派な本である。  松下氏は何の先入感も持たずに、「宇垣特攻」を八月十五日実施として記述している。 ところが、十六日ではないかと疑問を持っている者がこの本を読むと、十六日の出来事と した方が説明しやすい事例が何ヵ所かある。  例えば、明日は特攻に飛び立つからといって別れの挨拶に来た隊員を、下宿の主人は酒 を振る舞って酔いつぶしてしまい、もう戦争は終ったのだから征っては駄目だと、ひき止 めたことが記述されている。これは、民間の人達が終戦を知った八月十五日夜の出来事で あれば、納得できる話である。ところが、十四日夜の出来事とすればなぜ一般の人が終戦 を知っていたのか疑問である。                 (第一章三)  さらに二番機として出撃し、途中エンジン故障で不時着して生還した、 二村氏(甲飛十 二期)の証言が記載されている。それによると出撃の前夜に、中津留大尉が一升瓶を下げ て来て、「今夜はひとつ、皆であるだけの酒を飲んでしまおうや。おまえたちも、とって おきを出さないか」と、意味深長なことを言っている。いくら搭乗員でも、隊長が下士官 兵の居住区に来て一緒に酒を飲むということは異例のことである。   (第三章二)  われわれも敗戦を知らされた十五日の夜、バラック兵舎で皆と酒盛りをした記憶がある。 終戦を知らされた十五日の出来事なら理解できるが、十四日の夜ならば何が目的での酒宴 であったのか疑問が残る。だからこの時、中津留大尉が長官からの出撃命令を受け、部下 隊員との別離と、連れて行く列機の選考を兼ねての酒宴であれば納得がゆく。  宇垣長官の決心を十五日早朝と推定し、宮崎先任参謀が、中津留大尉を司令部に招いて 沖縄突入命令を伝えたのが、十五日の午後四時ごろとの記述からみても、十五日夜の出来 事とした方が時間的にも辻褄があう。 (第一章一)  また出撃隊員の翌日の行動も、長官の決心の時期などから考え併せれば、八月十六日と した方が説明しやすい。またこれ以外に、今までに出版された戦記その他の文献を詳細に 読んでみると、八月十六日説を裏付けるような記述が随所に見受けられる。十五日という 先入感を捨てて、これらの記述を読み直してみる必要がある。  「特攻宇垣長官機最後の真相」歴史研究家大沢博「丸」エキストラ版  (昭和六十一年八月号・潮書房)では、 次のように記されている。  “ポツダム宣言”受諾の日本政府の公電が、スイス駐在の加瀬公使を通じて発せられた のは、 十四日の深夜である。これを受けたアメリカ政府が、やはりスイス経由で日本軍の 戦闘行動を中止せよと指示した通告文を発し、これが届いたのが十六日午前である。 (日本側日時) ★ アメリカ側証言の要約はつぎのとおりである。 ◎クライド・タルボット氏(リバティ船チャールス・E・スミス号船員)当時沖縄本島の 本部半島の先端近く(対岸に伊江島がある)に停泊していた。       日本がポツダム宣言を受諾したことは、八月十四日の朝、スピーカーで流したので知り ました。そのときはみな何かのまちがいで、本当ではないと思っていました。……カミカ ゼからの防御方法として……煙幕をはっていました。……ところが、十四日の朝からそれ がまったく行われなくなった。船団についていた対空護衛艦も近くから姿を消し、小型護 衛空母も私たちの船とならんで錨をおろしてしまった。  十五日になっても同じ状況が続き、多くの人たちは上陸してしまい、……この日の夕方 からは灯火管制もとかれ……七時半ちかかったと思います。……甲板にいた私は突如とし て数機の爆音を……だれかが「カミカゼだっ!」とどなりました。……私はその間、七機 のカミカゼを数えました。    ◎ウェーシー・ハーガソン氏(対空護衛艦デストロイヤー乗組員)当時本部半島と伊江島 の中間点に停泊していた。  その日(八月十五日)は乗組員のほとんどが上陸していた。日本が負けたことは十四日 の朝、“ポツダムの条件”を受け入れたと聞いていたが、その日(十四日)の午後になっ てはっきりと、日本が降伏したことを伝えられた。  そこで十五日は朝から、いままで行われていたカミカゼに対する総ての防衛行動が停止 となり、私には上陸がゆるされた。……午後七時三十分ごろだったと思う。……七〜八機 はいたと思う。……「カミカゼだ!」と私たちはおどろいて、……やがてカミカゼは、は げしく火をふき出し……    ◎ダニイ・ローズウェル氏(当時LST296号の甲板長)伊平屋島のキヤンプへ食糧輸 送中。「その日のことはよくおぼえています」……八月十五日の午後四時二十分ごろ、私 のLSTは、キャンプに近い砂浜に食糧をおろしていました。……七時四十分ごろ、…… にわかに、エンジンの音がして……だれかが「ジャップだ!」「カミカゼだっ!」とどな りました。 ★以上の証言で疑問に思うのは、日本の“ポツダム宣言”受諾の決定は八月十四日の御前 会議である。それを、スイス駐在の加瀬公使を通じて通告したのは八月十四日の深夜であ る。ところが、これをアメリカ軍最前戦の兵士が知ったのが同じ八月十四日の朝である。  お分かりのとおり、これはアメリカの日付と日本の日付では、一日の差があるからであ る。彼らの記憶が正しいとすれば、八月十五日の「カミカゼ」は、宇垣長官の特攻と推定 される。即ち、彼らの言う八月十五日とは、日本の日付では八月十六日となる。鶴谷一尉 の記憶は正しかったことになる。 ★日本のハワイ真珠湾攻撃は十二月八日である。ところが、アメリカでは十二月七日であ る。これは日付変更線にかかわらず、お互いに自国の歴日を使用するからである。特に公 式記録では、時刻を現地時刻で併記して採用する場合があっても日付はすべて自国の暦日 を使用している。 ★自衛隊に在職当時アメリカ軍が管理するレーダーサイトに勤務した。オペレーションの 正面ボードの上にZタイム(グリニッチ標準時)の時計がある。Iタイム(日本標準時) はこれより九時間先行している。作戦運用はすべてZタイムで統一実施されていた。ただ し、通常の勤務や生活面ではIタイムが使用されていた。  「最後の特攻隊長中津留大尉」豊田穣  「歴史と人物」中央公論社(昭和五十三年五月号) 先任参謀宮崎大佐からの手紙によると十一機が出撃して三機が不時着、八機が突入未帰 還となった。このときはまだ、停戦命令が発せられていなかったので、突入した搭乗員は 戦死と認められ、進級したが、宇垣中将は進級していない、となっている。(194頁上段) ★中島正氏著「神風特別攻撃隊」(日本出版共同)附記の末尾に次の記述がある。 「尚蛇足ながら、宇垣長官が沖縄に向け進発した時には、聯合艦隊から作戦中止の命令は 到達していなかった。」 ★裏を返すと、八月十五日の海軍総隊(聯合艦隊)司令長官の命令「何分ノ令アル迄対米英 蘇支積極進攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ」は無視できるとしても、翌八月十六日発令された、 「即時戦闘行動ヲ停止セシムベシ」との軍令部総長からの奉勅命令を受信した以降に出撃 したのでは、戦死認定や進級に問題ありと判断し、十五日と発表したのではないだろうか。 問題の核心はここにあるような気がする。 ★しかし、軍令部総長の停戦命令もさることながら、天皇陛下が自ら放送された、「終戦 の詔書」は聞いたはずである。天皇の軍隊が天皇のご意志に反し、戦争終結を百も承知で 部下を引き連れて出撃した事実は、松下竜一氏に「私兵」と指摘されても反論できないで あろう。 @七月中旬九州へ進出して来た。中津留大尉はここの分隊長であった。 (197頁上段) A中津留大尉は二十機を率いて大分で特攻のため待機していた。   (197頁上段) B八月十一日、中央でポツダム宣言受諾に決したことが、大分の五航艦司令部にもわかっ た。 宇垣司令長官は胸中ひそかに期するところがあった。       (197頁上段) C八月十四日の五航艦の様子を聞くと、この日に宇垣中将が、明十五日正午の玉音放送後、 数機をもつて沖縄に突入すると指令を発した形跡はない。ただ、この頃の大分基地の七〇 一空は毎日が特攻のようなもので、……               (197頁下段) D……艦爆隊下士官室では、明日はまた何機かが特攻に行くというので、三十人ほどが集 まり、別れの宴を開いていた。                   (197頁下段) E七月以降次々に戦友が出撃して亡き数に入ってゆくので、……    (197頁下段) F八月十五日朝、いつものように特攻の出撃命令が下され、中津留大尉は予定された数機 の特攻隊の搭乗割を飛行指揮所の黒板に書いた。二村兵曹は中津留隊長の二番機に書き出 されていたので感激した。宇佐空で中津留大尉が教官を勤めたとき、二村兵曹は教え子で あったので、それで最後の突撃に自分を二番機に組んでくれたと考えたのである。                                  (198頁上段) G宇垣中将はかねての覚悟にもとづき、午後五時、彗星艦爆五機をもって沖縄に突入する 決意を発令した。                         (198頁中段) ★中島正氏著「神風特別攻撃隊」では、「七〇一空大分派遣隊は艦爆三機を以て沖縄付近 敵艦を攻撃すべし、本職これを直率す」。という文書命令を発令した。と記述している。 H午後一時、中津留大尉は自分を隊長とする五機の特攻隊の搭乗割を黒板に書き、全艦爆 隊員の集合を命じた。                       (198頁中段) Iしかし、午後三時、司令部で宇垣長官を囲んで別杯が交わされる頃には、六機が強引に 自ら参加して、突入機は十一機にふくれ上がってしまい、……     (198頁下段) J午後四時、別盃を終わった宇垣長官が飛行場に姿を現し、出発は五時と決まった。暑い 日であった。                           (198頁下段)  解 説 @A当時沖縄に対する「菊水作戦」はすでに終結していた。だから来襲する「敵機動部隊」 の攻撃が目的での待機であり、「特攻」のための待機とは断定しかねる。 BC“ポツダム宣言”受諾の最終決定は八月十四日の御前会議である。だから、八月十四 日までに特別な動きがなかったのは当然と思われる。 CDE当時彗星艦爆は、関東東方海上の敵機動部隊攻撃に、百里原基地その他から出撃し ているが、四月二十二日(第一国分基地・第三御楯隊)以降は九州の基地からは、一機の 彗星艦爆も特攻機としては出撃していない。台湾からは数機出撃している。                                 (防衛研究所資料) CDE七月中旬に九州進出以降、大分基地の七〇一空大分派遣隊からは、一機の特攻出撃 も記録されていない。だから、二十機分の搭乗員約四十名(士官十名、下士官兵三十名) が進出当時のまま残っていたのである。 F大分基地からの特攻隊出撃は、三月二十日の菊水銀河隊のみで、それ以降は一機の特攻 出撃も記録されていない。だから、いつものように……は不自然である。                                (防衛研究所資料) H出撃編成で、保有機二十数機の中から三〜五機を出す場合の指揮官は、通常の出撃なら 先任か次席の分隊士を充てるのが普通である。だから、隊長が真っ先に出るのは不自然で ある。そして、二村一飛曹が「最後の突撃」と認識していた事とを考え併せれば、これは 「特別」な命令によるもので、宮崎先任参謀からの出撃指示を受けた後と考えるのが妥当 であろう。   GHIJそれぞれが十五日の時刻であれば辻褄が合わない。Gは十五日、HIJが十六日 なら矛盾はない。 ★以上、最新の資料(197頁上段)に基づくと断ったうえで、海軍兵学校出身で、しかも、 艦上爆撃機の搭乗員であり、これらの部隊事情に最も詳しいはずの、豊田穣氏が書かれた この短い文章の中に、これだけの矛盾や疑問点が見受けられる。時刻をそのままにして、 一部の日付を八月十六日に置き換えれば、これらの矛盾はすべて解決する。   ★前記の各種資料を総合して推理すると、宮崎先任参謀が司令部に中津留大尉を招いて、 長官の決心と出撃命令を伝えたのが、八月十五日の午後四時。その夜、中津留大尉が下士 官の宿舎に一升瓶を下げて赴き、誰れを連れて行くかを考えながら、部下隊員と別離の酒 を酌み交わしたのであろう。そして、翌八月十六日、二村兵曹を二番機とした三機又は五 機分の搭乗割を発表したと考えるのが妥当であろう。 ★その後、中津留隊長を慕っていた隊員の自発的参加が相次ぎ、最終的に十一機の編成に なったと考えられる。また、各文献とも出撃隊員に関してのみ記述しているが、約半数の 隊員がこの攻撃に参加しなかったのも事実である。 ★中津留大尉は海軍兵学校七十期の出身である。在学中に「海軍刑法」や「軍法会議」の 講義は受けていたはずである。「海軍刑法」の「指揮官、休戦又は媾和の告知を受けたる 後、故なく戦闘を為したるときは、死刑に処す」の条文は当然承知していたと思う。 ★中津留大尉が行った出撃前夜の酒宴は、終戦直後の基地内の徹底抗戦を叫ぶ興奮と混乱 の最中、命令ではなくて「自発的参加」を促すための、苦肉の策ではなかったかと思われ てならない。       「死を急ぐ者たちの大義」「丸」エキストラ版108号         (昭和六十一年八月)で歴史家秦郁彦氏は次のように記述している。   八月十五日の夜、宇垣五航艦長官が部下十一機をひきいて沖縄へ突入した事件は、今も なお議論の的となっている。多くの特攻隊員を送り出した宇垣が、死に場所を求めてみず からもその後を追って責任を果たした、として賞揚する声もある。一方、未来のある青年 パイロットたちを道づれにした行為に、批判の声を向ける者も少なくない。彼らが出撃す ると言い張っても、それを押しとどめるのが長官の役割りではないか、……             ★宇垣中將は戦争中、日誌「戦藻録」を書き続けていた。最後となった八月十五日の頁に 次の記述がが残されている。  「正午、君が代に續いて天皇陛下御自ら放送遊ばさる。ラジオの状態悪く、畏れ多くも 其の内容を明にすることを得ざりしも、大体は拝察して誠に恐懼之以上の事なし。親任を 受けたる股肱の軍人とし本日此の悲運に會す。慚愧之に如くものなし。嗚呼! ……未だ停戦命令にも接せず、多數殉忠の将士の跡を追ひ特攻の精神に生きんとするに於 て、考慮の餘地なし。顧みれば大命を拝してより茲に六ヶ月、直接の麾下及指揮下各部隊 の血戦努力に就いては今更呶々を要せず、指揮官として誠に感謝の外無し。亦陸軍航空部 隊及在台灣海軍航空隊との間も全きを得たるを懌ぶ。 事茲に至る原因に就ては種々あり、自らの責亦軽しとせざるも、大観すれば是國力の相異 なり。獨り軍人たるのみならず帝國臣民たるもの今後に起るべき萬難に抗し、益々大和魂 を振起し、皇國の再建に最善を盡し、將来必ずや此の報復を完うせんことを望む。余亦楠 公精神を以て永久に盡す處あるを期す。……」 ★この日誌は八月十五日の夜に書かれたものと推察する。そうであれば八月十五日の特攻 出撃は疑問である。百歩譲って日ごろの習慣に反し、天皇陛下の詔書を拝聴した後すぐに 書き始めたと仮定する。敗戦直後の司令部内では、総隊司令長官からの命令を、隷下部隊 に伝達したり、終戦処理に対する参謀間の意見調整などで混乱の極にあったと推察される。 そんな錯乱した状態の中で、参謀を通じて自らの特攻出撃を指示し、最後の「戦藻録」を 書き残す。        さらに機上から発信する「決別の辞」を纏めあげて通信士に渡す。その間、副官や参謀 からは特攻出撃を思い止まってほしいと要請され、こに対する説得を行う。そして、最期 の別杯の席に着く。個々の時刻はそれぞれの文献に記述されたとおりであろう。一つ一つ の行動については、一応の腹案は持っていたにしても時間的に果たして可能な事だろうか。 ★以上の事例を念頭に置いて各種の文献などを読み直すと、やはり「宇垣特攻」は八月十 六日のような気がする。終戦後すでに五十年以上が経過して、「宇垣特攻」も風化した。 今更日時にこだわる必要はないのかも知れない。しかし、史実は正しく後世に伝えるべき ではないだろうか。
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