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蒼空の果てに

         京都は戦災を免れたか?

 奈良市の航空自衛隊幹部候補生学校に在勤中、洛北の八瀬遊園地一帯で「防衛博覧会」 が実施された。これを支援するため、度々京都市を訪れる機会があった。ここは終戦直後、 大井航空隊での特攻待機から解放されて、戦友の石井兵曹と一緒に復員の途中、 彼の親戚 の家に一泊した思い出の地である。(当時の経緯は拙著『かえらざる翼』に記述)  昭和三十二年、候補生として幹部候補生学校に在学中も、暇をみては京都市内の神社仏 閣を見物して回った。終戦当時の古い町並に、次々と新しいビルが建ち近代的な都市に変 貌していった。そして「京都は戦災を免れた」という神話が何処からともなく生まれた。  一説では東洋美術学者ウォーナー氏がルーズベルト大統領に、古代美術品の宝庫である 京都に対する爆撃回避を進言したためと伝えられている。しかし、この説には疑問がある。 私は復員途中に京都の街を歩き、爆撃の跡をこの目で見ている。強制疎開のため壊された 家屋と、爆撃によって破壊されたものとは明らかに相違があった。 最近になってこの疑問は解明された。西日本新聞の「春秋」に京都爆撃の記録が掲載さ れたからである。 これは「昭和二十年六月九日、知事事務引き継ぎ書」という公文書から 抽出されたものである。  昭和二十年一月十六日二三・一〇 (東山区東大路通・常盤町・上馬町・下馬町。死者                   三十四人。負傷者五十六人。家屋損失四十四戸)  同    三月十九日〇七・三〇 (右京区春日通。負傷者一人。家屋損失一戸)  同    四月十六日一二・〇〇 (右京区太秦。死者二人負傷者四十八人)  同    四月二十二日〇九・五〇(右京区大宮町。負傷者四人)    同    五月十一日一〇・〇〇 (上京区河原町通・荒神口通。負傷者十一人)  以上のとおり京都は五回にわたり爆撃を受け、死者三十四名と多数の負傷者があったこ とが、公式文書に記載されていたのである。これは昭和二十年六月九日付けの文書である。 だから、これ以降にも爆撃を受けた可能性も否定できない。  やはり、私の記憶は正しかったのである。だが、なぜ「京都は戦災を免れた」との神話 が生まれたのだろうか。まず第一に、東京・名古屋・大阪などの他の大都市に比較して、 被害が極端に少なく目立たなかったことが理由であろう。  次に原爆投下との関連である。アメリカ軍は原爆投下の候補地として、新潟・京都・広 島・小倉・長崎の各都市を選定していた。最終的には広島と長崎(小倉)が目標となり、 結果的に京都は原爆投下を免れたのが、第二の理由である。 この二点が、「京都は戦災を免れた」との誤解を生んだ要因であろう。最近になってさ らに新しい資料が発表されている。アメリカ軍では原子爆弾を投下するため、特別な部隊 を編成した。そして、新兵器の効果を試すために色々な方策が検討された。              まず、原子爆弾での被害の評価が正確にできる。次に、原子爆弾が最も経済的、効果的 に使用できる。以上の二点から、新潟・京都・広島・小倉を候補地として選定した。そし て、この候補地に対しては爆撃や艦砲射撃などの通常攻撃を禁止した。 この決定は五月二十八日のことであった。さらに、七月二十五日に至って長崎が候補地 として追加された。理由はともかく、この時期京都や新潟が通常攻撃の禁止地区となって いたのも事実である。逆説ながら原爆投下の候補地となったお陰で通常攻撃を免れる結果 となったのである。  これらの事情が積み重なって、「京都は戦災を免れた」との神話が誕生したのであろう。
陣中談義へ 着陸(艦)指導灯
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