特攻の原点
大東亜戦争が終結してから、既に半世紀以上が経過した。この間、「特攻隊」に関して
は賛否両論に亘って数多くの図書が出版された。私自身も「特攻隊」の生き残りとして、
これらの図書に関心を持つとともに自分でも資料を収集してその解明に勉めた。そして、
「特攻の原点」について一応の目途を見出すことができた。
しかし、浅学非才の私には、これを立証するに足る論説を展開するのは至難の技である。
そこで、私なりに纏めた所見を公開して皆様方にその賛否を問い、今後「特攻隊」を研究
される方々の指針にして頂ければ幸いである。私説の概況は次のとおりである。
レイテ海戦と特攻隊の誕生
アメリカ軍の比島進攻に際して、海軍は「捷一号作戦」を開始した。作戦構想の概略は、
レイテ島方面に来襲した上陸軍を、水上部隊の主力である第二艦隊の主砲でこれを水際で
壊滅させることにあった。そのため、第三艦隊の空母部隊を比島北方で囮となって行動さ
せ、敵の機動部隊を牽制する。更に、第一航空艦隊の航空攻撃によって第二艦隊の作戦を
支援させる。
ところが、海軍首脳部はこれ以外に別の思惑を持っていた。圧倒的な生産力を背景とし
たアメリカ軍の戦力と、補給もままならずに撤退を続ける我が軍との戦力差を認識すれば、
既に勝利の見込みはない。それならば、如何なる時期に如何なる形で講和を結ぶべきかを
探り、その機会を作ることであった。
レイテの上陸軍を殲滅すれば、アメリカ軍の進攻も一時的に頓挫する。その時期が講和
を結ぶ絶好の機会である。その機会を作るためには、如何なる犠牲を払ってもこの作戦を
成功させなければならない。そこで、大西中将が急遽第一航空艦隊司令官として赴任した。
そして、第二艦隊のレイテ突入を成功させる手段として生まれたのが「神風特別攻撃隊」
である。戦果もさることながら「体当たり攻撃」という非常手段をとることで、海軍には
これ以外には、もう眞面に戦う力は残っていないということを、重臣たちを通じて天皇に
知らせようとしたのである。
「そのようにまでせねばならなかったか。まことに遺憾であるが、しかし、よくやった」
これは、十月三十日に戦況を奏上した米内海軍大臣に賜った、天皇のお言葉である。また、
及川軍令部総長には、「まことによくやった。攻撃隊員に関しては、まことに哀惜に堪え
ない」と仰せられたと承わっている。しかし、海軍首脳部が期待したお言葉は「それほど
までになっているのか、それなら早く和平を考慮するように」との一言であった。
しかし、陛下のこのご認識には止むを得ないものがある。空母部隊の囮となっての協力、
航空部隊の死を賭しての特攻攻撃、更に、相討ち覚悟でレイテに突入せよとの願いを込め
て発令した、「天佑ヲ確信シ、全軍突撃セヨ」との聯合艦隊司令部からの電報も無視して、
第二艦隊はレイテ突入を断念して反転した。大艦巨砲主義の古い思想の重臣たちが、戦艦
大和以下の艦隊主力が帰還したことで、飛行機が少々減っても海の守りには問題ないとの
判断をされたとしても致し方のないことである。
第三艦隊の戦闘
小澤中将率いる第三艦隊の空母部隊は、攻撃後は比島基地に着陸するよう命じた攻撃隊
を発進させた後も現地に留まり、敵機動部隊の攻撃を一手に引き受けて、勇戦敢闘し遂に
壊滅した。(細部は逐次追加)
大西長官特攻の真意
(参考図書:角田和男著「修羅の翼」今日の話題社。)
「修羅の翼」から、大西長官の特攻の真意について、参謀長小田原大佐の話を紹介する。
しばらく考えていた参謀長は、
「そうかそれではもう一度分かり易く私から話そう」と、言葉を選ぶように静かに話し
出した。
「皆も知っているかも知れないが、大西長官はここへ来る前は軍需省の要職におられ、
日本の戦力については誰よりも一番良く知っておられる。各部長よりの報告は全部聞かれ、
大臣へは必要なことだけを報告しているので、実情は大臣よりも各局長よりも一番詳しく
分かっている訳である。その長官が、『もう戦争は続けるべきではない』とおっしゃる。
『一日も早く講和を結ばなければならぬ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、
成都にいつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。残念ながら、現在の日本
の戦力ではこれを阻止することができない。それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分
しか残っていない。軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミ
ニウムもあと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなけれ
ばならぬ。
燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立て
ているが、とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、工場
も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。
そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、
ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このま
ま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、
それを機会に講和に入りたい。
敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分
味方に三分である。具体的には満州事変の昔に返ることである。勝ってこの条件なのだ。
残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。
万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国であ
る。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は
次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機
会は永久に失われてしまうだろう。このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の
戦場にしなければならない。
このことは、大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍
大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。
宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、
東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として
暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。
宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態
なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱
ともなりかねない。
極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。
宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』とおっしゃるのだ。
では、果たしてこの特攻によって、レイテより敵を追い落とすことができるであろうか。
これはまだ長官は誰にも言わない。同僚の福留長官にも、一航艦の幕僚にも話していない。
しかし、
『特攻を出すには、参謀長に反対されては、いかに私でもこれはできない。他の幕僚の
反対は押さえることができるが、私の参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいた
い。他言は絶対に無用である』
として、私にだけ話されたことであるが、私は長官ほど意志が強くない。自分の教え子
が(参謀長は少佐飛行隊長の頃、一時私たち飛行練習生の教官だったことがあり、私の筑
波空教員の頃は聯合練習航空隊先任参謀で、戦闘機操縦員に計器飛行の指導に当たられた。
当時、大西少将は司令官だった)妻子まで捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、
黙り続けることはできない。長官の真意を話そう。長官は特攻によるレイテ防衛について、
『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。
では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、
必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする
時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きに
なって、陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百
年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。
陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、
青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道が、ほかにあるであろうか。戦況は
明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵
に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては、飽くまで最後の
一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺
がある。
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、
陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。
天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、
陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員
たちの後を追うであろう。もし、参謀長にほかに国を救う道があるのならば、俺は参謀長
の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』と仰っしゃった。私に策はない
ので同意した。これが私の聞いた長官の真意である。
長官は、『私は生きて国の再建に勤める気はない。講和後、建て直しのできる人はたく
さんいるが、この難局を乗り切れる者は私だけである。』と、繰り返し、『大和、武蔵は
敵に渡しても決して恥ずかしい艦ではない。宮様は戦争を終結させるためには皇室のこと
は考えないで宜しいと仰せられた』とまで言われたのだ」
角田氏は小田原参謀長のこの話は、自分たちのみではなく一言も口を利かない上野少将
に対する長官の伝言ではないか、また、小田原参謀長も長官の後を追う気だと感じたとの
ことである。
戦艦大和の出撃
比島・硫黄島を席捲したアメリカ軍は、遂に沖縄に進攻してきた。次は本土への進攻も
時間の問題となった。一部では「本土決戦」が叫ばれていたが、B29の爆撃に対しても
有効な対策もなく、そのうえ地上戦闘ともなれば全国土は焦土と化し、国民の犠牲は更に
増加することは明白であった。
この事態を解決するには、速やかな講和以外に策はない。それには天皇に戦力の枯渇を
認識して頂く以外に道はない。そのためにも、レイテ海戦の二の舞を踏んではならない。
これが、高松宮及び米内海軍大臣を始めとする海軍首脳陣の認識であった。
その手段として、戦艦大和以下の水上部隊を温存せず、早々に出撃させる決断となった
のである。勿論、艦隊が無事沖縄に到着し、砲台となって敵の上陸軍を撃破できるなら、
講和の条件を少しでも有利にできるとの読みがあったことは否定できない。
しかし、天皇は頑迷なる重臣達の言葉に惑わされ、天佑による「神風」をご期待された。
そして、廣島・長崎の原子爆弾による、あの想像を絶する被害を受けて初めて和平の道を
選らばれたのである。
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宇垣特攻の謎
[AOZORANOHATENI]