蒼空の果てに

「宇垣特攻」の真実に迫る

 朝雲新聞社の月刊誌「MONTHLY ASAGUMO」1995年8月号に「宇垣特攻八月十六日説」 を発表しました。それ以降も、折りにふれて「宇垣特攻」に関する文献を検証した結果、 疑問は更に深くなりました。それは、八月十五日の出撃にしては説明困難な問題が、余り にも多いからです。  断っておきますが、私自身特攻隊の生き残りとして、特攻隊戦没者の慰霊顕彰に微力を 尽くしています。だから、戦没者の祖国に捧げた忠誠心に対して、賞賛こそすれ否定する 気持ちなど微塵もありません。ただ、どのような状況で「最後の特攻」が実施されたのか、 その経緯を後世に残したいとの願いで、真相の解明に取り組んでいるのです。  例えあの出撃が、十五日であろうと十六日であろうと、彼らの忠誠心には些かの翳りも ありません。あの当事は「全機特攻」の至上命令により、強制された特攻と言っても過言 ではない状況でした。われわれ下級の搭乗員には命令に抗する術はなく、死を覚悟しなけ ればならなかったのです。だが、彼らは違います。既に戦争は終わり、望めば生き残れる 可能性を持ちながら、敢えて出撃を選んだのです。だから、更なる決意が必要だっに違い ありません。それだけに、一段と畏敬の念を深めるものであります。  十六日説を解析する都合上、項目別に各種文献の要点のみを纏め、解説してみました。   ☆主要項目   ★筆者解説 第一、☆宇垣長官の出撃決心の時期。 〔豊田1〕 八月十四日の五航艦の様子を聞くと、この日に宇垣中将が、明十五日正午の玉音放送後、 数機をもつて沖縄に突入すると指令を発した形跡はない。ただ、この頃の大分基地の七〇 一空は毎日が特攻のようなもので、(一部省略)  〔吉村2〕 その日(14日)の夕方、宮崎先任参謀は、長官室に呼ばれた。椅子に座っていた宇垣は、 「明日、沖縄のアメリカ艦船に五機の特攻機を出撃させる。指揮官は、私である」と、 言った。  〔松下1〕 運命の十五日を迎えて、宇垣が当直参謀を呼んだのは午前四時近くであったろう。長官か ら彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備をととのえよと命じられた当直の田中正臣作戦参謀は はっとした。 〔野原1〕 八月十五日の払暁、幕僚室に入った宮崎先任参謀は当直の田中航空参謀の報告に顔色を変 えた。先刻、宇垣長官に呼ばれ、彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備を整えるよう命令され たという。 〔蝦名1〕 八月十五日、まだ夜も明けやらぬ払暁に、当直の田中航空参謀は突然宇垣長官から呼び出 しを受けた。田中参謀が長官室に入ると、宇垣はこわばった表情で、大分航空基地所在の 彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備を整えるように命令した。(一部省略) 宇垣と同期で親密な間柄にあった城島高次一二航戦司令官も知らせを受けて駆けつけてき た。皆、泣いて、宇垣長官の翻意をうながした。しかし宇垣長官の決意を翻すことはとう ていできなかった。 〔秦7〕 八月十五日、東の空は白みはじめていた。(一部省略) 先任参謀の宮崎隆大佐が幕僚室にはいって行くと、当直の田中武克参謀が当惑しきった表 情で立ちあがった。さきほど、宇垣長官に呼ばれ、艦爆隊を直率して沖縄へ出撃するから 彗星五機を用意するように、と言われたというのである。(一部省略) 〔吉村4〕 防空壕の中ではラジオもよくきこえぬので、通信参謀が車で大分放送局に向かった。間も なく通信参謀が帰ってきて、詔書を書き取った紙片を宇垣に渡した。 宇垣が、 「終戦の詔書でなく激励の言葉があるのではないかとひそかに期待していたのに……」 と、低い声で言った。 ★宇垣長官は八月十五日早朝に出撃の決意を幕僚に表明し、正午の天皇の放送を確認した 後、沖縄出撃を最終的に決心したことにほぼ間違いないと思います。 第二、☆幕僚やその他の高官からの翻意の経緯と命令書発令の時期。 〔吉村3〕 翌十五日、再び説得がつづけられたが宇垣の決意は変らず、宮崎先任参謀は、やむなく午 前十時半に熱いものがこみ上げるのを堪えながら作戦命令を起案し、宇垣に提出した。 そして、隊長中津留達雄大尉を呼んで、司令長官が特別攻撃に参加することを告げた。 〔野原2〕 横井参謀長は、宇垣と海兵同期の第十二航空戦隊司令官城島高次少将と戦闘機部隊の第七 十二航空戦隊の司令官山本親雄少将に連絡をとった。駆けつけてきた城島と山本も言葉を 尽くして翻意を迫ったが、宇垣は決意を変えなかった。 〔野原4〕 長い時間をかけた説得もついに無駄におわったことを覚った宮崎先任参謀は、やむなく 作戦命令を起案し、宇垣に提出した。 「七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし、本職これを直率す」 第五航空艦隊司令長官 中将 宇垣 纏」 ただちに七○一空大分派遣隊長中津留達雄大尉が司令部に呼ばれ、口頭で攻撃命令が伝え られた。 中津留大尉に攻撃命令が伝えられた時刻が正午の玉音放送の前であったかあとであったか ははっきりしない。 〔上野1〕 宇垣長官の引留工作は、さらに、宇垣と級友である城島高次少将や、山本親雄少将らによ って行われたたが無駄だった。 十五日の朝も、もうすでにだいぶ時間を経過して、ラジオはしきりに、正午に重大放送の あることを予告していた。長官の決意が動かぬとなれば、戦機を逸してはならぬ。直ちに、 大分基地七○一航空隊の艦爆隊長中津留大尉が司令部に招致され、横井参謀長から直接に 「長官直率をもつて、艦爆六機により沖縄周辺の敵艦に突入する、直ちに準備するように」 との口頭命令が発せられた。 〔秦8〕 幕僚たちが、やっと長官の説得をあきらめたときは、もう正午をすぎていた。もはやこれ までと思った宮崎参謀は、七○一空大分派遣隊長中津留大尉を呼んで、口頭で命令を伝え、 ついで長官のサインをとって正式の文書命令を出した。 『七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを直率す。 第五航空艦隊司令長官 海軍中将宇垣纏』 〔小山2〕 横井はうなだれつつ、起案用紙に出撃命令を記し、宇垣にサインを求めた。 「七○一空大分派遣隊は、彗星艦爆五機を以って沖縄に於ける米艦隊を攻撃すべし、本職 これを直率す」      ★十五日午後、時間は記していない。 〔蝦名4〕 宮崎先任参謀はやむなく第七○一航空隊艦爆隊長中津留達雄大尉を司令部に招いた。そし て口頭で宇垣長官の沖縄突入命令を伝えた。つづいて、文書命令を起案し、宇垣長官の決 裁を経て発令した。その内容は次のようであった。 「七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを直率す。 第五航空艦隊司令長官 中将 宇垣 纏」 宇垣長官が田中当直参謀に艦爆の出撃準備を命じ、いまこの長官命令の発令を見るに至る まで、実に十二時間余を経過していた。 〔松下2〕 もはやこれ以上説得し切れぬと諦めた宮崎先任参謀が、第七○一航空隊艦爆隊長中津留大 尉を司令部に招いて沖縄突入命令を伝えたのは、その払暁長官が当直参謀に準備を命じた 時からかぞえて十二時間余を経てのことであったというから、午後四時近くであったこと になる。 ★中津留大尉が「出撃命令」を受けたのは何時が正しいのか。吉村氏の十五日午前十時半 から、松下氏の午後四時近くと大幅な違いがあります。 先任参謀・幕僚長・城島少将・山本少将などから代るがわる翻意を迫られ、これらを説得 するのに相当の時間を必要とした。漸く命令文を起案させ、中津留大尉に「出撃命令」を 伝達したのは、十五日午後四時前後とみる松下氏や蝦名氏の記述が妥当のように思います。 第三、☆命令を受けた、中津留大尉の行動。 〔松下4〕 八月十四日夜、珍しく中津留大尉が二村達の居る宿舎に一升瓶を下げて現れた。 「今夜はひとつ、皆であるだけの酒を飲んでしまおうや。おまえたちも、とっておきを出 さないか」 中津留大尉からそんなことをいわれるのは初めてで、一斉に喚声が挙がりそれぞれに秘蔵 の酒を持ち出して来た。尤も、二村が持っていたのは戦給品の赤玉ポートワインくらいな ものであった。中津留がこんなことをいってきたところをみると、明日はいよいよ出撃な のかも知れぬという思いを、誰もひそかに抱いたはずであるがそれを口に出していう者は いなかった。 〔城山1〕 八月十四日の夜、大分の中津留隊では、ささやかな異変が起きた。横穴壕二段ベッドに居 た下士官たちのところへ、突然酒を持って中津留大尉が現れたのである。 〔二村1〕 八月十四日の夜、珍しく中津留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきた。 「今夜はひとつ、みんなであるだけの酒を飲んでしまおうや……。貴様たちも取っておき を出さないか」 〔松下6〕 二村が印象的に記憶している八月十四日夜の、中津留大尉を囲んでの最後の酒盛りを川野 はなぜか記憶していない。何かの事情でその場にいなかったのだろうか。 八月十五日、川野一飛曹は午前十時に飛行場の指揮所前に整列した。 〔日高2〕 事実ののとらえ方にいくつもの食い違いが見られるのもこの「最後の特攻」の特徴だ。 二村治和元一飛曹は、十五日前夜の出来事を次のように書いている。 《八月十四日の夜、珍しく中都留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきた。「今夜 はひとつ、以下略》 士官と下士官が一緒に酒を酌み交わすことなどめったにない基地生活のなかの、いわば異 常な出来事を川野はまるで記憶していないという。 ★海軍に在籍した者なら常識だが、士官と下士官兵の身分の差は歴然としていて、酒席を 共にすることは決してありません。士官が下士官の居住区で酒を飲むとは、異例中の異例 であります。「今夜はひとつ……」の前に「もう戦争は終わったんだから」の一言があれ ば、この言葉の意味も理解できます。 ★十四日夜の出来事なら、なんのために「みんなあるだけの酒を飲んでしまおうや……」 となるのか、その目的が理解できません。 ★十五日夜の中津留大尉は、「出撃命令」念頭において明日連れて行く者の人選と、残す 者たちへの決別の宴であったとすれば、その特異な行動も納得できます。 ★中津留大尉は海軍兵学校の出身者です。在学中に「海軍刑法」や「軍法会議」の講義は 受けていたはずです。だから出撃前夜の酒宴は、終戦直後の興奮と混乱の最中「出撃命令」 を胸に秘め、命令ではなく「自発的参加」を促すための、苦肉の策ではなかったかと思わ れてなりません。 ★また、十五日の夜に、恩師出直馬氏に「お別れの挨拶」を行ったのは、電話によるもの と推察します。しかし、川野氏の言われるように出撃前夜の酒宴がなかったのであれば、 恩師の宅に伺った可能性も残ります。 第四、☆「搭乗割」の謎。 〔二村2〕 「出撃命令だぞー」と、揺り起されたときは、すでに午前九時を過ぎていた。素早く飛行 服を着込んで、宿舎まで迎えに来たトラックに乗り込んだ。 「これは特攻だ! ついに来るべきものが来た」と、私は感じた。 〔二村3〕 飛行場には十時ごろ着いた。「搭乗割」の黒板を見ると、二番機に私の名前があった。 中津留隊長機につづく二番機の指定である。私は少なからぬ感激と優越感をおぼえた。 十二時出撃とのことで待機していたが、そのうち出撃命令は何故か解除され、「そのまま 待機せよ」と、指示された。 〔松下6〕 八月十五日、川野一飛曹は午前十時に飛行場の指揮所前に整列した。 〔日高3〕 私は、川野和一元上飛曹の語る「事実」だけを頼りに、八月十五日に起きた「下士官たち の特攻」を記していくことにする。 八月十五日午前十時、搭乗員宿舎に伝令が来た。 「敵艦隊―(略)―搭乗員は全員飛行場に集合せよ」 〔酒井1〕 午前十時、飛行場から一キロメートルほど離れた搭乗員宿舎に伝令が走った。 「敵艦船は本土に上陸するため東支那海を済州島に向け北上中、搭乗員は全員飛行場に 集合せよ」 〔豊田5〕 午後一時、中津留大尉は自分を隊長とする五機の特攻隊の搭乗割を黒板に書き、全艦爆隊 員の集合を命じた。 〔野原5〕 八月十五日の午前九時を過ぎた頃、蒸し暑い横穴壕の二段ベッドで寝苦しい夜を過ごした 七○一空艦爆隊に出撃命令が下った。迎えにきたトラックに乗り込み飛行場に着いたのは 十時で、十一機二十二名の搭乗割が黒板に書き出されてあった。 〔野原7〕 待機していた搭乗員たちに沖縄への特攻攻撃が命じられたのは、川野一飛曹の記憶による と午後三時を過ぎる頃だったという。 中津留大尉が司令部から受けた命令は「艦爆五機をもって」であったが、午前の出撃命令 の際に決められた十一機二十二名の搭乗割は変更されなかった。 〔酒井2〕 午後一時、大分基地では、非常呼集を受けた搭乗員三十数名が飛行場の指揮所へかけつけ ていた。 〔酒井5〕 午後三時、大分飛行場指揮所前の黒板に二十二名の搭乗員割が記入された。 〔日高4〕 午後三時ころになっていたと思う。 「敵艦隊は沖縄に集結中、これに特攻をかけ撃滅する」 〔二村4〕 午後何時ごろだったか覚えていないが、「沖縄に特攻をかける」との命令がきた。「搭乗 割」から洩れていた連中が、同行させてくれと騒ぎだした。黒板を蹴倒したり、男泣きし ながら隊長に詰め寄るさまを、私は選ばれた者の一種の優越感をもって眺めていた。  〔秦10〕 搭乗割は、三時に発表され、指揮所前に出された黒板に書き出された。全部で十一機、 二十二名だった。甲飛十二期の二村治和一飛曹は二番機に名前を発見したが、元教官の 中津留大尉が選んでくれたのは当然と思って満足した。(一部省略) 〔豊田6〕 しかし、午後三時、司令部で宇垣長官を囲んで別杯が交わされる頃には、六機が強引に 自ら参加して、突入機は十一機にふくれ上がってしまい、(一部省略)  ★〔松下6〕川野一飛曹は午前十時に飛行場の指揮所前に整列した。  〔日高2〕八月十五日午前十時、搭乗員宿舎に伝令が来た。  〔二村3〕飛行場には十時ごろ着いた。「搭乗割」の黒板を見ると、二番機に私の名前 があった。中津留隊長機につづく二番機の指定である。 ★「搭乗割」は普通は飛行隊士が作成し、隊長の決裁を受けて隊員に発令します。しかし、 この場合は恐らく中都留大尉が直接作成し、「搭乗割」の黒板に記入したものと思います。 また、「搭乗割」は十六日の午前十時に発表されたと考えるのが妥当です。十五日の午前 十時では「出撃命令」も受けずに、何を目的とした「搭乗割」なのか説明できません。 ★午後一時・午後三時の集合の記述は、十六日十時に「東支那海北上中の機動部隊攻撃」 を目的として集合を命じたが、これが誤報と分かったので「待機」を命じられ「沖縄出撃」 が確定した午後三時に、再び集合を命じられたものでしょう。この間に「搭乗割」の一部 が変更されたのか、それとも当初から十一機だったのかには諸説がありますが「搭乗割」 は当初から十一機二十二名だったと思われます。 ★「搭乗割」に書かれた下士官搭乗員の内訳を見ると、甲飛出身者四名、乙飛出身者五名、 丙飛出身者四名、特乙出身者一名の計十四名です。これは所属下士官搭乗員の半数です。 ここで奇異に感じることは、主に経験の浅い若年搭乗員で編成していることです。甲飛で は十期、乙飛では十六期以前の、いわゆる熟練搭乗員が一名も含まれていないことです。 これは何を意味するのでしょうか。中津留大尉の胸中を察する上での重要な手がかりだと 思います。 ★二村君の「特攻出撃」の朝の記述〔二村2〕を読んで、体験者なら疑問を持つはずです。 海軍では階級以外に入隊年次で差がつけられていました。昭和二十年になると、燃料不足 等で飛行訓練は中断されました。だから甲飛十二期(後期)と甲飛十三期(前期)の一部が、 実施部隊の所属搭乗員の中では「若(じゃく)」と呼ばれた最も末席の搭乗員です。だから 真っ先に起き出して、「甲板掃除」「食卓番」その他の雑用に走り回る立場にありました。 その彼が、九時過ぎまで寝ていたと云うのです。戦争継続中の十五日の朝の出来事にして は納得のいかない行為です。敗戦を知り、中都留大尉との酒宴で「特攻」の示唆をうけた、 十六日の朝ならあり得ることです。彼の記述は「二階級特進」を信じて出撃した、先輩や 同僚達が「特攻戦死」を承認されなかったことで、せめて「戦死」として認めてもらうた めの配慮として、八月十五日と云はざるを得なかったものと推測します。 第五、☆宇垣長官最後の夜。 〔戦藻録〕 正午、君が代に續いて天皇陛下御自ら放送被遊。 ラジオの状態悪く、畏れ多くも其の御内容を明にすることを得ざりしも大体は拝察して誠 に恐懼之以上の事なし。親任を受けたる股肱の軍人とし本日此の悲運に會す。慚愧之に如 くものなし。嗚呼! 参謀長に続いて城島十二航戦司令官余に再考を求めたるも後任者は本夕刻到着する事明に して爾後の収拾に何等支障無し。未だ停戦命令にも接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特 攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし。 ★宇垣長官は十五日早朝より、先任参謀・幕僚長・城島少将・山本少将などから代るがわ る説得を受けたが、それぞれに自分の決意を説明して納得させることができて、いよいよ 出撃が決定しました。「出撃命令」を決裁して後、ようやく自分の時間を持つことができ たのです。 ★早速「戦藻録」に遺書にも等しい文章を書き残し、次に、機上より発信する「決別の辞」 を浄書する。更に、後任長官への引継ぎ事項を整理しながら、最後の夜(十五日)を過ごし たのではないでしょうか。 ★そして、これら一連の身辺整理を終了して、「戦藻録」の一葉に最後の付記を書き添え たのは、十六日の午後であったと想像します。 第六、☆搭乗員整列と攻撃要領の指示。 〔吉村5〕 戦争は、終わった。が、特別攻撃機の出撃は予定通りすすめられた。 午後四時、司令部壕の外に立つバラック建ての食堂に参謀たちが集合した。 中央に宇垣司令長官が立った。コップに日本酒がそそがれ、一同別れの乾杯をした。 〔蝦名5〕 宇垣長官の出撃の時が迫ってきた。午後四時、特攻隊員宇垣長官一行との最後の、ささや かな決別の宴が、横穴防空壕内の、せま苦しい司令部食堂で、息詰まるような思いのうち に開れた。 〔酒井6〕 宇垣は時計に目をやった。針は四時半を回っていた。 滑走路では、七〇一航空隊大分派遣隊指揮官中都留大尉が出撃搭乗員に集合を命じていた。 〔日高5〕 午後四時半過ぎ――。 飛行場に黒塗りの車三台が到着した。 「中都留大尉、三機だけでよいと命じていたのに、これはどうしたことか」 「長官が特攻をかけるというのに、三機だけとはもっての外、私の部下一一機、全員が お供します」 〔酒井7〕 爆音轟く中、別杯の儀式が行われた。指揮所前のテーブルには杯とするめが一枚ずつおか れている。 〔日高6〕 訓示が終わると、指揮所前に準備されたテーブルの上にスルメ一匹ずつが置かれ、幕僚の 参謀たちが隊員一人一人にコップを握らせた。酒は白鹿の一級酒。―― 〔豊田6〕 しかし、午後三時、司令部で宇垣長官を囲んで別杯が交わされる頃には、六機が強引に 自ら参加して、突入機は十一機にふくれ上がってしまい、(一部省略)  〔二村4〕 午後何時ごろだったか覚えていないが、「沖縄に特攻をかける」との命令がきた。「搭乗 割」から洩れていた連中が、同行させてくれと騒ぎだした。黒板を蹴倒したり、男泣きし ながら隊長に詰め寄るさまを、私は選ばれた者の一種の優越感をもって眺めていた。  〔秦9〕 十三期予備学生出身の茂木仙太郎中尉は、午後一時に非常呼集を受けて、愛機の側から息 せききって指揮所へかけつけると、搭乗員はほとんど全員が整列していた。(一部省略) 「本日正午、玉音放送があり、わが日本帝國は降伏したのだ」(一部省略) 肩を抱きあって泣く隊員の姿を見守っていた若い中津留大尉は、やがて意を決したように、 「命令を伝える。一六○○、わが七○一空は沖縄へ突っこむ。点検を終わって集結せよ。 宇垣長官も参加される」と述べた。 〔二村5〕 「爆弾を八十番に変更せよ」との指示で、積み替えを実施したが、弾倉に入りきらず半ば はみ出したまま装着した。「ガソリンも半分抜き取れ」との指示もでた。 〔松下7〕 ではなぜ、出発直前になって敢えて八○番に積み替えさせられたのだろうか。その理由と して考えられることは唯一つしかないように、寺司には思える。ガソリンを半分抜き取る ための口実だったのではないか。 (一部省略) 彼等は還って来れぬように片道燃料にされたのだと考えるしかない。事実は 八○番の爆弾に替えたからガソリンを抜かれたのではなく、ガソリンを抜くための口実と して八○番の爆弾に替えさせられたのであろう。 〔二村7〕 「本職先頭にたって、今から沖縄の米艦艇に最後の殴り込みをかける。一億総決起の模範 として死のう!」と言われ、山本五十六元帥からいただいた短剣をぐっと前に突き出され た。われわれもいっせいに、「ワーッ」と歓声をあげ、右の拳を突き上げた。つづいて、 中津留大尉が、「降爆してからいったん機を引き起こし、そのあと空身で突っ込め」と、 指示された。 〔二村8〕 一番機の操縦は中津留大尉、その後席に宇垣中将と遠藤飛曹長が乗り込んだ。一番機に続 いて二番機の私も離陸、初めて積んだ八〇〇キロの重さで、一、〇〇〇メートルの滑走路 を一杯に使ってようやく海面スレスレに浮上した。 〔酒井8〕 遠藤飛曹長は頑として聞き入れなかった。 「突入時刻は夜になりますので、私のようなベテラン下士官偵察員がいなければ、迷子に なってしまいます」 ★別杯はバラック建ての食堂・横穴防空壕内の司令部食堂・指揮所前に準備されたテーブ ルの何れなのでしょう? また、参加者は参謀・出撃隊員・それぞれ別になのでしょう? ★彗星の標準装備は、五十番一発か二十五番二発です。なぜ直前になって標準装備でもな い八十番に積み替えさせたのでしょう。二村君も八十番での離陸は初めてだったと証言し ています。恐らく八十番での降爆訓練も実施していなかったと思われます。 ★また十一機の爆弾の積み替えや、ガソリンを抜き取る作業が、果たして短時間で可能な のでしょうか。各文献に共通する事は、幕僚や搭乗員の談話は収録していますが、出撃を 直接支援した整備員の証言が収録されていません。 ★私は艦上攻撃機の操縦員で整備員ではありません。また機種も違うので一概には言えま せんが、爆弾の積み替えは先ず、搭載している爆弾の信管を外して爆弾運搬車に降ろし、 弾薬庫に運んで、次ぎに搭載する爆弾を積んで運搬する。その間に他の者が、爆弾投下器 の付け替えを実施します。そして、爆弾の軸線を調整しながら装着し、投下試験を行い、 再び装着して固定し信管を挿入します。最後に風車押さえ(信管の安全装置)で風車を固定 してから安全ピンを抜きます。射爆特技を持った整備員や爆弾運搬車の数にもよりますが、 重量八百瓩の爆弾の積み替えは短時間にできる作業ではありません。 ★また、特攻本来の戦法「体当たり攻撃」ではなく「降爆」を指示したのは何を意味する のでしょうか。 ★更に、最精鋭の彗星艦爆が十一機も出撃しながら、戦果なしとはなぜでしょうか。 ★中津留大尉の胸中を察するに、必死必中の「体当たり攻撃」を敢行して敵に損害を与え ることが本意ではなく、長官に殉死することに意義を求めたのではないでしょうか。そう であれば、熟練搭乗員を外して、若年搭乗員を主体に編成した理由も理解できます。また、 出撃搭乗員に対して、攻撃要領について何らかの特別の指示がなされていたものと推察し ます。 第七、☆出撃隊員の処遇について。 〔野原6〕 ポツダム宣言受諾の政府公電が発せられたのは十四日の深夜であり、それを受けたアメリ カ政府からの、日本軍の戦闘行動を中止せよとの指示が日本政府に届いたのは十六日の午 後になってからである。午後四時、大本営は正式の停戦命令を出し、「即時戦闘行動を停 止すべし」と示達した。 〔松下9〕 本来なら宇垣隊はその最後の頁に布告さるべき特攻隊であったが、しかし彼らはそこに公 式に名を連ねることを許されなかった。昭和二十年十月一日付で連合艦隊副官の起案した 「GF(連合艦隊)終第四二号」という公文書には、<昭和二十年八月十五日夜間沖縄方面 に出撃せる左記の者は特攻隊員として布告せられざるに付、一般戦死者として可然御処理 相成度>とあって、海軍大尉中津留大尉以下十六名の名が列記されているという。 〔秦1〕 昭和二十年十月一日付で連合艦隊(GF)副官の起案した「GF終第四二号」という文書が 残っている。「特攻隊員として詮議せられざりし者の件」と題して粗末なザラ紙にタイプ で打たれたものだが、 「昭和二十年八月十五日夜沖縄方面に出撃せる左記の者は特攻隊員として布告せられざる に付、一般戦死者として可然御処理相成度。 海軍大尉中津留達雄(以下省略) 」と計十六名の搭乗員の氏名が並んでいる。 〔秦2〕 終戦の日の年八月十五日には、他にも特攻戦死者があった。(一部省略)房総半島沖の米機 動部隊に突入した第三航空艦隊所属の第四御楯隊八機と、第四流星隊一機の搭乗員十八名 である。(一部省略)米側の記録によると正午から午御一時二十分にかけて突入し、 (一部省略)そしてこの場合は従来の特攻戦死者と同じように全軍布告、二階級特進の適用 を受けている。 〔秦3〕 宇垣隊戦死者との処遇の差はなぜ生じたのか。両者の突入時刻の差は精々七〜八時間に過 ぎない。二つの出撃時刻を挟んで正午に天皇の玉音放送があったためか。しかし法的に言 えば軍の行動を律するのは大本営の命令であって、停戦を命じる大海令第四八が示達され たのは翌十六日の午後四時だった。 〔蝦名6〕 宇垣特攻出撃はもとより連合艦隊の命令によったものではない。その反対に、終戦の命令 に背いた叛逆罪にも問われるものだった。当然連合艦隊告示にもしるされていない。 〔蝦名7〕 著者は「終戦の命令に背いた叛逆罪にも問われるものだった」とあるが、宇垣中将の行為 は叛逆行為ではない。それは、海軍刑法第二編第二章擅権の罪三一条に該当する。  第三一条 指揮官、休戦又は媾和の告知を受けたる後、故なく戦闘を為したるときは、       死刑に処す。 〔蝦名8〕 宇垣中将に死出のお伴をした搭乗員については、涙なくしては語れない思いであるが、罪 に該当しない。出撃の命令を受けた者は従わなければ、逆に抗命の罪に当たるであろう。 〔蝦名9〕 当時の日本国民にして、もしその場に居合わせたならば、同行を希望した二十二名の搭乗 員と同じような意思決定をしたであろう。戦争の狂気はそこにある。本人の意思決定であ りながら、実は本人の冷静な意思ではない。 ★「宇垣隊」の出撃は、大海令四八号の「停戦命令」が発令された後の、十六日午後四時 以降であったと思われます。しかし、出撃隊員の心情に免じて「戦死」として扱うため、 十五日として発表したのが真相ではないでしょうか。 ★宇垣長官については、「停戦命令」違反の廉で「戦死」の栄誉を認められなかったのは 当然でありましょう。また、階級章を外して出撃したことで、一私人としての行為とみな され、公式記録から除外されたのかも知れません。  第八、☆五航艦の終戦処理担当者の証言。 ★吉村氏の「空白の戦記」は終戦処理に当たった、五航艦の先任参謀宮崎隆氏と対談し、 その証言を記述しています。 〔吉村1〕 八月十四日、呉鎮守府を通じて大本営から「ソ連及び沖縄方面に対する積極攻撃を中止せ よ」という命令を受けた。宇垣は、はっきり日本が全面降伏することを知った。 〔吉村2〕 その日の夕方、宮崎先任参謀は、長官室に呼ばれた。椅子に座っていた宇垣は、「明日、 沖縄のアメリカ艦船に五機の特攻機を出撃させる。指揮官は、私である」と、言った。 〔吉村3〕 翌十五日、再び説得がつづけられたが宇垣の決意は変らず、宮崎先任参謀は、やむなく午 前十時半に熱いものがこみ上げるのを堪えながら作戦命令を起案し、宇垣に提出した。 そして、隊長中津留達雄大尉を呼んで、司令長官が特別攻撃に参加することを告げた。 〔松下10〕 後年、久留米市在住の宮崎を訪ねて直接取材した作家吉村昭は『実録・最後の特攻機』の 中で、それを八月十四日夕刻であったとしている。(一部省略) ただ、殆どの記録は八月十五日未明説をとっている。これは『戦藻録』が根拠となってい るのであろう。 ★宮崎大佐は先任参謀として終始長官の身近に仕え、五航艦の終戦処理を担当された責任 者です。だから、一番正確な事実を知り得る立場にありました。殆どの文献が長官の決心 を十五日早朝とし、出撃命令を十五日午後としているのに対し、宮崎氏のみは長官の決心 を十四日夕刻、作戦命令を十五日午前十時半に、自ら起案したと証言しています。 ★これは、長官の決心から翻意の懇請や説得などの時間的経過、更に、爆弾積み替えなど 出撃準備に要した時間などを熟知していたからだと思います。即ち、出撃を八月十五日の 夕刻とするためには、遅くとも十五日の午前十時前後には「作戦命令」を出したことにす る必要があったのです。また、長官に対する翻意説得に要した時間を考慮すると、長官の 決心を十四日の夕方とせざるを得なかったのではないでしょうか。 ★先任参謀宮崎大佐は、終戦処理に際し、長官の出撃を八月十五日夕刻とし「特攻隊」と 認めるよう聯合艦隊司令部に上申したものと思われます。しかし、司令部では諸般の事情 を検討した結果、八月十六日午後四時に発令された「即時戦闘行動を停止せよ」との奉勅 命令を無視した出撃のため「特攻隊」として認めず、出撃隊員のみを一般戦死として取り 扱うことを認めたというのが真相ではないでしょうか。
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