蒼空の果てに

      「宇垣特攻」関連文献の要約

 「宇垣特攻」を主題にした文献は十指に余ります。ところが、時間や行動内容など事実 は一つしかないのに、一流作家諸氏の記述に、なぜあれだけの相違があるのでしょうか。 そのうえ、なるほどそうだったのかと納得できるような文献は未だ見当たりません。真相 は謎に包まれたままです。私は知人の証言や私なりの資料にもとずいて、終始十六日説を 唱えてまいりました。そしてこの度、その真実性を裏付けるため、各種文献の記述内容を 整理して、比較対照してみることに致しました。  以下は調査した関係文献(著者)とその抜粋であります。★印は筆者注釈。      戦藻録(宇垣 纏) 原書房(昭和43年1月)   ★宇垣中將は戦争中、日誌「戦藻録」を書き続けていました。最後となった八月十五日の 頁に次の記述がが残されています。この日誌は果たして何時書かれたと思いますか。八月 十五日の夜に書かれたと思うのが自然ではないでしょうか。   八月十五日 水曜日 作夜半GBは決一、二、十一、十二、十三号警戒を下令す。之にて本土四周全部警戒とな る。又GB参謀長は特に当隊に対し敵本土上陸近しと警報する処あり。機動部隊の執拗な る行動及之に続く東西の攻略部隊らしきものの策動を認むるも、本土上陸決戦に非ず。 寧ろ我降伏提案の時機に投じ四周より虚勢を以て我屈服を促進せんとするに帰するものと 認めあり。 間もなく呉鎮を通じGBは当司令部に対し対ソ及対沖縄積極攻撃を中止すべく命ず。愈々 降伏を裏書するに似たり。最後迄戦ふべきに本指令は我意を得ざるなり。 外国放送は帝國の無条件降伏と正午陛下の直接放送あるを報じたり、茲に於て当基地所在 の彗星特攻五機に至急準備を命じ、本職直率の下沖縄艦船に特攻突入を決す。 正午、君が代に續いて天皇陛下御自ら放送被遊。 ラジオの状態悪く、畏れ多くも其の御内容を明にすることを得ざりしも大体は拝察して誠 に恐懼之以上の事なし。親任を受けたる股肱の軍人とし本日此の悲運に會す。慚愧之に如 くものなし。嗚呼! 参謀長に続いて城島十二航戦司令官余に再考を求めたるも後任者は本夕刻到着する事明に して爾後の収拾に何等支障無し。未だ停戦命令にも接せず。多数殉忠の将士の跡を追ひ特 攻の精神に生きんとするに於て考慮の余地なし。 顧みれば大命を拝してより茲に六ヶ月、直接の麾下及指揮下各部隊の血戦努力に就ては今 更呶々を要せず、指揮官として誠に感謝の外無し。又陸軍航空部隊及在台灣海軍航空隊と の協同も全きを得たるを懌ぶ。 事茲に至る原因に就ては種々あり、自らの責亦軽しとせざるも、大観すれば是國力の相異 なり。獨り軍人たるのみならず帝國臣民たるもの今後に起るべき萬難に抗し、益々大和魂 を振起し、皇國の再建に最善を盡し、將来必ずや此の報復を完うせんことを望む。 余又楠公精神を以て永久に盡す處あるを期す。 一六○○幕僚集合、別杯を待ちあり。之にて本戦藻録を閉づ。 付記 一、戦藻録は開戦時より今日に至り全部にて十五冊なり。   其の一より其の十一までは郷里、岡山県赤磐郡潟瀬村大内 宇垣弘一(実兄)方に保管   しあり。 二、記事は私事を交へたる秘録にして軍機事項も含みある事あるべし。従って之が今後の   取扱を四十期幹事に委す。絶対に敵手に委する事あるべからず。      (終) ★原書房の〔編者後記〕では、 参謀長は列の先頭に立っている七○一空大分派遣隊長伊藤大尉に、 「指揮官、命令は五機筈だったが……」と記されています。 他の文献は全て、七○一空大分派遣隊長は中津留大尉となっています。    九州8月15日(上野文雄) 白川書院(昭和50年6月) 〔上野1〕 宇垣長官の引留工作は、さらに、宇垣と級友である城島高次少将や、山本親雄少将らによ って行われたたが無駄だった。 十五日の朝も、もうすでにだいぶ時間を経過して、ラジオはしきりに、正午に重大放送の あることを予告していた。長官の決意が動かぬとなれば、戦機を逸してはならぬ。直ちに、 大分基地七○一航空隊の艦爆隊長中津留大尉が司令部に招致され、横井参謀長から直接に 「長官直率をもつて、艦爆六機により沖縄周辺の敵艦に突入する、直ちに準備するように」 との口頭命令が発せられた。 〔上野2〕 かくするうちに、すでに正午となった。とりあえず、宇垣長官以下幕僚は、司令部幕僚室 に集まって詔勅の放送を謹聴した。ここでも、放送は雑音が多く、よくはききとれなかっ たが、終戦の大意は汲みとれた。 〔上野3〕 「天皇陛下万歳」を三唱すると。いよいよ飛行場に向かう。自動車に納まった宇垣長官の 姿は三種軍装で、中将の階級章はつけず、(以下省略) 〔上野4〕 「敬礼」と中津留隊長の号令で、全員一糸乱れぬ挙手注目の礼。一段高い折イスの上でこ の敬礼を受けた宇垣中将は、つづいて、凛とした声で 「わが第五航空艦隊は、本年初頭以来、全員特攻で作戦を展開して来たが本日終戦を迎え て、長官みずから先登に立ってただいまより沖縄に突入する。われに続く者は手を挙げ」 (以下省略)     八月十五日の空(秦 郁彦) 文芸春秋社(昭和53年4月) 〔秦1〕 昭和二十年十月一日付で連合艦隊(GF)副官の起案した「GF終第四二号」という文書が 残っている。「特攻隊員として詮議せられざりし者の件」と題して粗末なザラ紙にタイプ で打たれたものだが、 「昭和二十年八月十五日夜沖縄方面に出撃せる左記の者は特攻隊員として布告せられざる に付、一般戦死者として可然御処理相成度。 海軍大尉中津留達雄(以下省略) 」と計十六名の搭乗員の氏名が並んでいる。 〔秦2〕 終戦の日の年八月十五日には、他にも特攻戦死者があった。(一部省略)房総半島沖の米機 動部隊に突入した第三航空艦隊所属の第四御楯隊八機と、第四流星隊一機の搭乗員十八名 である。(一部省略)米側の記録によると正午から午御一時二十分にかけて突入し、 (一部省略)そしてこの場合は従来の特攻戦死者と同じように全軍布告、二階級特進の適用 を受けている。 〔秦3〕 宇垣隊戦死者との処遇の差はなぜ生じたのか。両者の突入時刻の差は精々七〜八時間に過 ぎない。二つの出撃時刻を挟んで正午に天皇の玉音放送があったためか。しかし法的に言 えば軍の行動を律するのは大本営の命令であって、停戦を命じる大海令第四八が示達され たのは翌十六日の午後四時だった。 〔秦4〕 もっとも前日の夕方大本営海軍部は小沢海軍総隊司令長官に「何分の令あるまで対米英蘇 支積極進攻作戦は之を見合わすべし」(大海令四七号)という命令を発していた。総隊はそ れを受けて、夜半に宇垣第五航空艦隊長官へ「対ソ、対沖縄積極攻撃を中止せよ」と命じ ているから、沖縄突入は宇垣長官の抗命的行動と解釈もできる。 〔秦5〕 それにしても、五航艦の正式命令で出撃した十六名の隊員に抗命の責任はないはずである。 こう考えてくると、「GF終第四二号」の結論が出た裏には、かなり複雑な事情と配慮が あったのではないかと想像される。 〔秦6〕 もし宇垣隊が体当たりに成功して米艦船に相当の被害を与えたとすれば、対日感情の悪化 ひいては占領政策の硬化もありうる。真相はこうだ式の戦争記事が氾濫していた当時 の新聞も、こうした事情を知ってか知らずか、宇垣特攻の記事は一行も出なかった。 〔秦7〕 八月十五日、東の空は白みはじめていた。(一部省略) 先任参謀の宮崎隆大佐が幕僚室にはいって行くと、当直の田中武克参謀が当惑しきった表 情で立ちあがった。さきほど、宇垣長官に呼ばれ、艦爆隊を直率して沖縄へ出撃するから 彗星五機を用意するように、と言われたというのである。(一部省略) 〔秦8〕 幕僚たちが、やっと長官の説得をあきらめたときは、もう正午をすぎていた。もはやこれ までと思った宮崎参謀は、七○一空大分派遣隊長中津留大尉を呼んで、口頭で命令を伝え、 ついで長官のサインをとって正式の文書命令を出した。 『七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを直率す。 第五航空艦隊司令長官 海軍中将宇垣纏』 〔秦9〕 十三期予備学生出身の茂木仙太郎中尉は、午後一時に非常呼集を受けて、愛機の側から息 せききって指揮所へかけつけると、搭乗員はほとんど全員が整列していた。(一部省略) 「本日正午、玉音放送があり、わが日本帝國は降伏したのだ」(一部省略) 肩を抱きあって泣く隊員の姿を見守っていた若い中津留大尉は、やがて意を決したように、 「命令を伝える。一六○○、わが七○一空は沖縄へ突っこむ。点検を終わって集結せよ。 宇垣長官も参加される」と述べた。 〔秦10〕 搭乗割は、三時に発表され、指揮所前に出された黒板に書き出された。全部で十一機、 二十二名だった。甲飛十二期の二村治和一飛曹は二番機に名前を発見したが、元教官の 中津留大尉が選んでくれたのは当然と思って満足した。(一部省略) 〔秦11〕 司令部での壮行の宴を終わり、宇垣中将が三台の車をつらねて飛行場に向かったのは、 四時半をまわっていた。長官は双眼鏡を首にかけ、薄緑色の第三種軍装と戦闘帽を着用し、 右手に、山本元帥から贈られた短剣を握っていた。すでに海軍中将の階級章は、副官役だ った川原利寿参謀の手で切り取られていた。 〔秦12〕 筆者が水上機母艦説に疑問を持ったのは、『米海軍作戦日誌』、S・Eモリソンの『第二 次大戦米海軍作戦史』のいずれにも宇垣隊の戦果が記されていなかったからである。 とくに前者は戦争中に沈没したり損傷した米軍艦は細大洩らさず収録した米海軍の公式文 献である。 そこで念のため米海軍戦史部に問い合わせてみたが、やはり八月十五日沖縄周辺で攻撃ま たは被害を受けた米艦はいないという返事だつた。    最後の特攻隊長中津留大尉(豊田 穣)「歴史と人物」中央公論社(昭和53年5月) 〔豊田1〕 八月十四日の五航艦の様子を聞くと、この日に宇垣中将が、明十五日正午の玉音放送後、 数機をもつて沖縄に突入すると指令を発した形跡はない。ただ、この頃の大分基地の七〇 一空は毎日が特攻のようなもので、(一部省略)              〔豊田2〕 (一部省略)艦爆隊下士官室では、明日はまた何機かが特攻に行くというので、三十人ほど が集まり、別れの宴を開いていた。                   〔豊田3〕 八月十五日朝、いつものように特攻の出撃命令が下され、中津留大尉は予定された数機の 特攻隊の搭乗割を飛行指揮所の黒板に書いた。二村兵曹は中津留隊長の二番機に書き出さ れていたので感激した。宇佐空で中津留大尉が教官を勤めたとき、二村兵曹は教え子であ ったので、それで最後の突撃に自分を二番機に組んでくれたと考えたのである。   〔豊田4〕 宇垣中将はかねての覚悟にもとづき、午後五時、彗星艦爆五機をもって沖縄に突入する決 意を発令した。              ☆中島正氏著「神風特別攻撃隊」では、「七〇一空大分派遣隊は艦爆三機を以て沖縄付近 敵艦を攻撃すべし、本職これを直率す」という文書命令を発令した。と記述している。 〔豊田5〕 午後一時、中津留大尉は自分を隊長とする五機の特攻隊の搭乗割を黒板に書き、全艦爆隊 員の集合を命じた。                        〔豊田6〕 しかし、午後三時、司令部で宇垣長官を囲んで別杯が交わされる頃には、六機が強引に 自ら参加して、突入機は十一機にふくれ上がってしまい(一部省略)      〔豊田7〕 午後四時、別盃を終わった宇垣長官が飛行場に姿を現し、出発は五時と決まった。 暑い日であった。 〔豊田8〕                             先任参謀宮崎大佐からの手紙によると十一機が出撃して三機が不時着、八機が突入未帰還 となった。このときはまだ、停戦命令が発せられていなかったので、突入した搭乗員は戦 死と認められ、進級したが、宇垣中将は進級していない、となっている。   ★中島正氏著「神風特別攻撃隊」(日本出版共同)附記の末尾に次の記述があります。  「尚蛇足ながら、宇垣長官が沖縄に向け進発した時には、聯合艦隊から作戦中止の命令   は到達していなかった。」       空白の戦記(吉村 昭) 新潮文庫(昭和56年4月) ★第五航空艦隊の先任参謀を勤められ、艦隊の終戦処理に携わった、宮崎隆大佐との対談 が主な内容。 〔吉村1〕 八月十四日、呉鎮守府を通じて大本営から「ソ連及び沖縄方面に対する積極攻撃を中止せ よ」という命令を受けた。宇垣は、はっきり日本が全面降伏することを知った。 〔吉村2〕 その日の夕方、宮崎先任参謀は、長官室に呼ばれた。椅子に座っていた宇垣は、「明日、 沖縄のアメリカ艦船に五機の特攻機を出撃させる。指揮官は、私である」と、言った。 〔吉村3〕 翌十五日、再び説得がつづけられたが宇垣の決意は変らず、宮崎先任参謀は、やむなく午 前十時半に熱いものがこみ上げるのを堪えながら作戦命令を起案し、宇垣に提出した。 そして、隊長中津留達雄大尉を呼んで、司令長官が特別攻撃に参加することを告げた。 〔吉村4〕 防空壕の中ではラジオもよくきこえぬので、通信参謀が車で大分放送局に向かった。間も なく通信参謀が帰ってきて、詔書を書き取った紙片を宇垣に渡した。 宇垣が、 「終戦の詔書でなく激励の言葉があるのではないかとひそかに期待していたのに……」 と、低い声で言った。 〔吉村5〕 戦争は、終わった。が、特別攻撃機の出撃は予定通りすすめられた。 午後四時、司令部壕の外に立つバラック建ての食堂に参謀たちが集合した。 中央に宇垣司令長官が立った。コップに日本酒がそそがれ、一同別れの乾杯をした。 〔吉村6〕 宇垣が、口を開いた。 「神州の不滅を信じ、気の毒なれど、私とともに来てくれ」と訓示すると、台を下りた。 宇垣は指揮所に入って出発時刻を待った。参謀の川原利寿少佐が、宇垣に近づくと襟の 階級章をきりとった。      私兵特攻(松下竜一) 新潮社(昭和60年7月)。 〔松下1〕 運命の十五日を迎えて、宇垣が当直参謀を呼んだのは午前四時近くであったろう。長官か ら彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備をととのえよと命じられた当直の田中正臣作戦参謀は はっとした。長官自らが出撃するつもりではないかと直感した彼は、直ちに宮崎先任参謀 に報告する。既に海軍総隊からは呉鎮守府を通じて五航艦に対し、対ソ及び対沖縄積極攻 撃を中止せよという命令が届いていたからである。 〔松下2〕 もはやこれ以上説得し切れぬと諦めた宮崎先任参謀が、第七○一航空隊艦爆隊長中津留大 尉を司令部に招いて沖縄突入命令を伝えたのは、その払暁長官が当直参謀に準備を命じた 時からかぞえて十二時間余を経てのことであったというから、午後四時近くであったこと になる。 〔松下3〕 中でも驚かされれたのは、下宿の主人が一人の特攻隊員を縛り上げて出発させなかったと いう挿話を耳にしたときである。明日は特攻に飛び立つからといって別れの挨拶に来た隊 員を、下宿の主人は酒をふるまって酔いつぶしてしまい、荒縄で縛って押入れに封じこめ たという。それが最後の特攻隊に加わるはずの隊員で、朝になって醒めた彼が叫んだり泣 いて懇願したりするのにも耳を貸さず、遂に縄を解こうとはしなかった。そのため最後の 特攻隊から脱落して生き残った搭乗員は、そのことを深く羞じて戦後出家し、いまも四国 のさる僧坊で最後の特攻隊の菩提をとむらっているのだという。 〔松下4〕 八月十四日夜、珍しく中津留大尉が二村達の居る宿舎に一升瓶を下げて現れた。 「今夜はひとつ、皆であるだけの酒を飲んでしまおうや。おまえたちも、とっておきを出 さないか」 中津留大尉からそんなことをいわれるのは初めてで、一斉に喚声が挙がりそれぞれに秘蔵 の酒を持ち出して来た。尤も、二村が持っていたのは戦給品の赤玉ポートワインくらいな ものであった。中津留がこんなことをいってきたところをみると、明日はいよいよ出撃な のかも知れぬという思いを、誰もひそかに抱いたはずであるがそれを口に出していう者は いなかった。 〔松下5〕 「出撃命令だぞ」と呼ばれて揺り起こされたときには、既に十五日の午前九時を過ぎてい た。二日酔いで頭が痛かったが、慌てて宿舎に帰り出撃準備を整えた。(一部省略) 飛行場に着いたのは午前十時であった。搭乗割が黒板に書き出されていたが、十一機二十 二名の編成の中に二村治和の名もあった。 〔松下6〕 二村が印象的に記憶している八月十四日夜の、中津留大尉を囲んでの最後の酒盛りを川野 はなぜか記憶していない。何かの事情でその場にいなかったのだろうか。 八月十五日、川野一飛曹は午前十時に飛行場の指揮所前に整列した。 〔松下7〕 ではなぜ、出発直前になって敢えて八○番に積み替えさせられたのだろうか。その理由と して考えられることは唯一つしかないように、寺司には思える。ガソリンを半分抜き取る ための口実だったのではないか。 (一部省略) 彼等は還って来れぬように片道燃料にされたのだと考えるしかない。事実は 八○番の爆弾に替えたからガソリンを抜かれたのではなく、ガソリンを抜くための口実と して八○番の爆弾に替えさせられたのであろう。 〔松下8〕 八月十五日正午の放送のあと、戦争は終わったと教師に告げられて、彼等は気抜けしたよ うにごろんと寝転んでいた。そのとき大声で、「司令長官殿が沖縄に特攻で突っ込まれる ので、大至急爆装を作れ」という指示を受けた。 「それが何時頃であったか、覚えていませんか」 「一時は過ぎていたでしょうね。放送のあと昼飯を食べて、皆ごろ寝していましたから。 (一部省略) 二時にはなっていなかったと思いますよ」 ★「爆装」とは爆弾を固定するための補助具。 〔松下9〕 本来なら宇垣隊はその最後の頁に布告さるべき特攻隊であったが、しかし、彼らはそこに 公式に名を連ねることを許されなかった。昭和二十年十月一日付で連合艦隊副官の起案し た「GF(連合艦隊)終第四二号」という公文書には、<昭和二十年八月十五日夜間沖縄方 面に出撃せる左記の者は特攻隊員として布告せられざるに付、一般戦死者として可然御処 理相成度>とあって、海軍大尉中津留大尉以下十六名の名が列記されているという。 〔松下10〕 後年、久留米市在住の宮崎を訪ねて直接取材した作家吉村昭は『実録・最後の特攻機』の 中で、それを八月十四日夕刻であったとしている。(一部省略) ただ、殆どの記録は八月十五日未明説をとっている。これは『戦藻録』が根拠となってい るのであろう。     宇垣特攻軍団の最期(野原一夫) 講談社(昭和62年8月)                 予備14期海軍少尉(大分で終戦) 〔野原1〕 八月十五日の払暁、幕僚室に入った宮崎先任参謀は当直の田中航空参謀の報告に顔色を変 えた。先刻、宇垣長官に呼ばれ、彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備を整えるよう命令され たという。 〔野原2〕 横井参謀長は、宇垣と海兵同期の第十二航空戦隊司令官城島高次少将と戦闘機部隊の第七 十二航空戦隊の司令官山本親雄少将に連絡をとった。駆けつけてきた城島と山本も言葉を 尽くして翻意を迫ったが、宇垣は決意を変えなかった。 〔野原3〕 すでに七時を過ぎる頃からラジオは、正午に天皇御自身のお言葉があるから国民はすべて ラジオの前に座るようにと流しつづけていた。その一方でサンフランシスコ放送は日本政 府のポツダム宣言受諾と無条件降伏を流していた。V班が傍受したその放送は宇垣長官に 伝えられた。 〔野原4〕 長い時間をかけた説得もついに無駄におわったことを覚った宮崎先任参謀は、やむなく 作戦命令をヲ起案し、宇垣に提出した。 「七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし、本職これを直率す」 第五航空艦隊司令長官 中将 宇垣 纏」 ただちに直ちに七○一空大分派遣隊長中津留達雄大尉が司令部に呼ばれ、口頭で攻撃命令 が伝えられた。 中津留大尉に攻撃命令が伝えられた時刻が正午の玉音放送の前であったかあとであったか ははっきりしない。 〔野原5〕 八月十五日の午前九時を過ぎた頃、蒸し暑い横穴壕の二段ベッドで寝苦しい夜を過ごした 七○一空艦爆隊に出撃命令が下った。迎えにきたトラックに乗り込み飛行場に着いたのは 十時で、一一機二十二名の搭乗割が黒板に書き出されてあった。 〔野原6〕 戦争が終わったらしいとはなんとなく知っていたという。 そうらしいと知っても、終戦の実感が彼らには全くなかつた。当時満十九歳だった二村一 飛曹はこう述べている。 「戦争は終ったらしいな…… といった程度じゃなかったかな。だからどうだとは考えな かったと思うんだ。終戦とかいわれても、身も心もまだ戦争の続きの中にいたんだからな。 だから、終戦を知っていたかどうかというのは、余り重要な問題じゃないんじゃないかな。 終戦を確認したからといって、じゃぁわたしは行きませんという者は誰もあの中にはいな かったはずだからね」 〔野原7〕 待機していた搭乗員たちに沖縄への特攻攻撃が命じられたのは、川野一飛曹の記憶による と午後三時を過ぎる頃だったという。 中津留大尉が司令部から受けた命令は「艦爆五機をもって」であったが、午前の出撃命令 の際に決められた一一機二十二名の搭乗割は変更されなかった。 〔野原8〕 「私兵特攻」によると、中津留大尉をのぞくおそらく全員が、どのような配慮からか、 宇垣長官が直率しての出撃であるとはこの時まで知らされていなかったという。 二村一飛曹は、三台の黒塗りの乗用車が飛行場に入ってくるのを見たとき、高官達が揃っ ての見送りと思い、これはえらいことだと驚いたとうう。 〔野原9〕 終戦の詔勅は下ったが、大本営はまだ正式の停戦命令を出していなかった。(一部省略) もし近接する敵を発見すれば、これを攻撃しても命令違反にはならなかった。 ポツダム宣言受諾の政府公電が発せられたのは十四日の深夜であり、それを受けたアメリ カ政府からの、日本軍の戦闘行動を中止せよとの指示が日本政府に届いたのは十六日の午 後になってからである。午後四時、大本営は正式の停戦命令を出し、「即時戦闘行動を停 止すべし」と示達した。 〔野原10〕 しかし、私たち以上に戦犯の噂に動揺していたのは、航空機搭乗員たちであっただろう。 ある航空基地では、士官は銃殺され、下士官兵は睾丸を抜かれて南方に送られ奴隷にされ るとう奇妙な噂が立ったそうだが、特攻隊員は軍国主義の権化と見なされ処刑されるとい う噂は、どの航空基地をも騒がしていたと思われる。 航空隊の解散に当たっては、搭乗員であったことを隠すよう厳しく注意された。近辺に山 のある者はしばらく山中に潜むよう指示した隊もある。 〔野原11〕 降伏を容易に肯んじようとしなかった航空機搭乗員の中には、戦犯として処刑されること への屈辱感と恐怖が、処刑されるくらいならば戦って死にたいと願う心情が、人それぞれ に差異はあったろうが、なにほどかは秘められていたのではあるまいか。    第五航空艦と宇垣長官(川原利寿) 潮書房 丸別冊(平成元年11月) 〔川原1〕 出撃する中津留大尉以下二十二名(十一機)の前に立った長官は、五機の命令に十一機分の 準備をしたことに、一瞬いぶかしそうにされた。しかし、隊員一同、声をそろえ、高く手 を上げて最後の特攻に従うことを誓った。つづく長官の訓示は短かった。 「神州不滅を信じ、気の毒なれど余の供を命ず、参れ」(以下省略) 〔川原2〕 搭乗前、長官は襟章をはずされたが、それをしたのは他ならぬ私である。      最後の特攻出撃(二村治和) 光人社「白菊特攻隊」より(平成9年8月) ★二村君と私は飛行予科練習生の同期生です。鹿児島空の22分隊、谷田部空の4分隊で 共に訓練を受けた仲です。同期生の慰霊祭の席などで、旧交を温めていました。私の発表 した「宇垣特攻八月十六説」に対して、彼が当事者としての意見を述べたいと言うので、 たまたま発刊を予定していた「白菊特攻隊」の頁を割くことにしました。編集に際して、 彼の原稿に手を加えてはいません。彼が校正した資料も残しています。 〔二村1〕 八月十四日の夜、珍しく中津留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきた。 「今夜はひとつ、みんなであるだけの酒を飲んでしまおうや……。貴様たちも取っておき を出さないか」 〔二村2〕 私は酔い潰れて、いつ寝たのか全く覚えていない。 「出撃命令だぞー」と、揺り起こされた時は既に午前九時を過ぎていた。素早く飛行服を 着込んで、宿舎まで迎えに来たトラックに乗り込んだ。 「これは特攻だ! ついに来るべきものが来た」と、私は感じた。 〔二村3〕 飛行場には十時ごろ着いた。「搭乗割」の黒板を見ると、二番機に私の名前があった。 中津留隊長機につづく二番機の指定である。私は少なからぬ感激と優越感をおぼえた。 十二時出撃とのことで待機していたが、そのうち出撃命令は何故か解除され、「そのまま 待機せよ」と、指示された。 〔二村4〕 午後何時ごろだったか覚えていないが、「沖縄に特攻をかける」との命令がきた。「搭乗 割」から洩れていた連中が、同行させてくれと騒ぎだした。黒板を蹴倒したり、男泣きし ながら隊長に詰め寄るさまを、私は選ばれた者の一種の優越感をもって眺めていた。 〔二村5〕 「爆弾を八十番に変更せよ」との指示で、積み替えを実施したが、弾倉に入りきらず半ば はみ出したまま装着した。「ガソリンも半分抜き取れ」との指示もでた。 〔二村6〕 午後四時、われわれ二十二名は二列横隊で指揮所前整列した。私は右から三番目に並んだ。 日の丸の鉢巻の裾を長く背中に垂らして、つぎの命令を待っていた。 やがて黒塗りの乗用車が三台近づいてきた。私は内心驚いた。高官たちがそろって見送り にくるなんて、はじめてのことである。さらに、第五航空艦隊司令長官の訓示があると告 げられたときは耳を疑った。 〔二村7〕 「本職先頭にたって、今から沖縄の米艦艇に最後の殴り込みをかける。一億総決起の模範 として死のう!」と言われ、山本五十六元帥からいただいた短剣をぐっと前に突き出され た。われわれもいっせいに、「ワーッ」と歓声をあげ、右の拳を突き上げた。つづいて、 中津留大尉が、「降爆してからいったん機を引き起こし、そのあと空身で突っ込め」と、 指示された。 〔二村8〕 一番機の操縦は中津留大尉、その後席に宇垣中将と遠藤飛曹長が乗り込んだ。一番機に続 いて二番機の私も離陸、初めて積んだ八〇〇キロの重さで、一、〇〇〇メートルの滑走路 を一杯に使ってようやく海面スレスレに浮上した。      最後の特攻機(蝦名賢造) 中央公論新社(平成12年7月)                   第1期海軍兵科予備学生(海軍大尉)。 〔蝦名1〕 八月十五日、まだ夜も明けやらぬ払暁に、当直の田中航空参謀は突然宇垣長官から呼び出 しを受けた。田中参謀が長官室に入ると、宇垣はこわばった表情で、大分航空基地所在の 彗星艦爆五機に至急沖縄攻撃準備を整えるように命令した。(一部省略) 宇垣と同期で親密な間柄にあった城島高次一二航戦司令官も知らせを受けて駆けつけてき た。皆、泣いて、宇垣長官の翻意をうながした。しかし宇垣長官の決意を翻すことはとう ていできなかった。 〔蝦名2〕 八月十五日、日本の運命の朝が訪れた。外国放送は日本帝國の無条件降伏と正午陛下の直 接放送があることを報じた。これを裏づけるように、海軍総隊は呉鎮守府を通じ、宇垣に 対ソおよび対沖縄積極攻撃を中止せよという命令を発した。(一部省略) 〔蝦名3〕 この日の正午、大分基地では横穴防空壕のある丘陵を背に、全将兵が粛然として天皇陛下 の重大放送をきくため整列していた。その部隊の中央に、宇垣長官は第三種軍装に威儀を 正し、長身の軍刀を左手にわしづかみにし、黙然と立っていた。 〔蝦名4〕 宮崎先任参謀はやむなく第七○一航空隊艦爆隊長中津留達雄大尉を司令部に招いた。そし て口頭で宇垣長官の沖縄突入命令を伝えた。つづいて、文書命令を起案し、宇垣長官の決 裁を経て発令した。その内容は次のようであった。 「七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを直率す。 第五航空艦隊司令長官 中将 宇垣 纏」 宇垣長官が田中当直参謀に艦爆の出撃準備を命じ、いまこの長官命令の発令を見るに至る まで、実に十二時間余を経過していた。 〔蝦名5〕 宇垣長官の出撃の時が迫ってきた。午後四時、特攻隊員宇垣長官一行との最後の、ささや かな決別の宴が、横穴防空壕内の、せま苦しい司令部食堂で、息詰まるような思いのうち に開れた。 〔蝦名6〕 宇垣特攻出撃はもとより連合艦隊の命令によったものではない。その反対に、終戦の命令 に背いた叛逆罪にも問われるものだった。当然連合艦隊告示にもしるされていない。 〔蝦名7〕 著者は「終戦の命令に背いた叛逆罪にも問われるものだった」とあるが、宇垣中将の行為 は叛逆行為ではない。それは、海軍刑法第二編第二章擅権の罪三一条に該当する。  第三一条 指揮官、休戦又は媾和の告知を受けたる後、故なく戦闘を為したるときは、       死刑に処す。 〔蝦名8〕 宇垣中将に死出のお伴をした搭乗員については、涙なくしては語れない思いであるが、罪 に該当しない。出撃の命令を受けた者は従わなければ、逆に抗命の罪に当たるであろう。 〔蝦名9〕 当時の日本国民にして、もしその場に居合わせたならば、同行を希望した二十二名の搭乗 員と同じような意思決定をしたであろう。戦争の狂気はそこにある。本人の意思決定であ りながら、実は本人の冷静な意思ではない。    指揮官たちの特攻(城山三郎) 新潮社(平成13年8月)。 〔城山1〕 八月十四日の夜、大分の中津留隊では、ささやかな異変が起きた。横穴壕二段ベッドに居 た下士官たちのところへ、突然酒を持って中津留大尉が現れたのである。 〔城山2〕 そして、八月十五日。 正午には天皇のお言葉の放送がある旨、ラジオは朝から予告をくり返していた。また、 サンフランシスコ放送は、日本がポツダム宣言を正式に受諾し、戦争が終わった旨報じて おり、それらは刻々宇垣に伝えられていた。 それでいて、宇垣は中津留大尉を呼びつけた。 「七○一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。本職これを直率す。 第五航空艦隊司令長官 中将 宇垣 纏」 というのが、参謀に書かせた命令書だが、命令書は渡さず、口頭で伝えた。 (一部省略) そこで中津留は五機の搭乗員の編成割りを書いて貼り出すと、大騒ぎになった。 〔城山3〕 こうして、午後四時近く、沖縄水域への出撃と決まり、隊員たちは指揮所前に整列したが、 そこえ黒塗りの三台の車が着き、先頭の車から、宇垣長官が降り立ち、迎える幕僚たちは、 それまで見たこともない表情に。 司令長官も一緒になって出撃とわかり、隊員たちは驚きの声を上げ、顔を見合わせた。    最後の特攻 宇垣纏(小山美千代) 光人社(平成14年7月)。 〔小山1〕 こうして八月十五日の朝が訪れた。 八時過ぎ、日吉の海軍総隊から呉の鎮守府を経由し、沖縄方面とソ連軍への攻撃中止命令 が入ったが、もう驚く者もなかった、 〔小山2〕 横井はうなだれつつ、起案用紙に出撃命令を記し、宇垣にサインを求めた。 「七○一空大分派遣隊は、彗星艦爆五機を以って沖縄に於ける米艦隊を攻撃すべし、本職 これを直率す」 ★15日午後、時間は記していない。    八月十五日の生きざま(酒井文彦) 健友館(平成14年7月)。 〔酒井1〕 午前十時、飛行場から一キロメートルほど離れた搭乗員宿舎に伝令が走った。 「敵艦船は本土に上陸するため東支那海を済州島に向け北上中、搭乗員は全員飛行場に集 合せよ」 〔酒井2〕 午後一時、大分基地では、非常呼集を受けた搭乗員三十数名が飛行場の指揮所へかけつけ ていた。 〔酒井3〕 「本日正午、陛下御自からによる玉音放送があり、大日本帝国は降伏した」 〔酒井4〕 「命令を伝える。一六〇〇、我が七〇一空は沖縄へ突っ込む。各自点検を終わって集合せ よ。宇垣長官も参加される」 〔酒井5〕 午後三時、大分飛行場指揮所前の黒板に二十二名の搭乗員割が記入された。 〔酒井7〕 爆音轟く中、別杯の儀式が行われた。指揮所前のテーブルには杯とするめが一枚ずつおか れている。 〔酒井8〕 遠藤飛曹長は頑として聞き入れなかった。 「突入時刻は夜になりますので、私のようなベテラン下士官偵察員がいなければ、迷子に なってしまいます」 ★搭乗員割は搭乗割の間違い。 ★遠藤飛曹長は下士官ではなく、準士官です。  また、会話の中で数箇所「殿」を付けていますが、海軍では「殿」は付けません。    不時着(日高恒太郎) 新人物往来社(平成16年8月)                    〔日高1〕 「直接玉音放送を聞いたわけではないが、戦争が終わったらしいということは搭乗員全員 が知っていましたよ」(生還した川野和一氏との会話) 〔日高2〕 事実ののとらえ方にいくつもの食い違いが見られるのもこの「最後の特攻」の特徴だ。 二村治和元一飛曹は、十五日前夜の出来事を次のように書いている。 《八月十四日の夜、珍しく中都留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきた。「今夜 はひとつ、以下略》 士官と下士官が一緒に酒を酌み交わすことなどめったにない基地生活のなかの、いわば異 常な出来事を川野はまるで記憶していないという。 〔日高3〕 私は、川野和一元上飛曹の語る「事実」だけを頼りに、八月十五日に起きた「下士官たち の特攻」を記していくことにする。 八月十五日午前十時、搭乗員宿舎に伝令が来た。 「敵艦隊(略)搭乗員は全員飛行場に集合せよ」 〔日高4〕 午後三時ころになっていたと思う。 「敵艦隊は沖縄に集結中、これに特攻をかけ撃滅する」 〔日高5〕 午後四時半過ぎ――。 飛行場に黒塗りの車三台が到着した。 「中都留大尉、三機だけでよいと命じていたのに、これはどうしたことか」 「長官が特攻をかけるというのに、三機だけとはもっての外、私の部下一一機、全員が お供します」 〔日高6〕 訓示が終わると、指揮所前に準備されたテーブルの上にスルメ一匹ずつが置かれ、幕僚の 参謀たちが隊員一人一人にコップを握らせた。酒は白鹿の一級酒。(以下略) ★酒は白鹿の一級酒。――この表現は疑問。時代考証無視。  当時われわれも「白鹿」は飲んでいました。但し、一級酒・二級酒の区分はありません  でした。戦後の昭和28年に「酒税法」が制定され、アルコール度数により課税される  ようになりました。その際、アルコール度数により、一級酒・二級酒に区分されるよう  になったと記憶しています。 〔日高7〕 攻撃目標と飛行コースは以下の通りであった。(中略) 午後五時。出発の時が来た。 ★午後四時半過ぎ―。長官が到着。中都留大尉との編成のやり取り。長官訓示。 攻撃目標と飛行コースの指示。別杯。 これだけの行事が、僅か三十分間に実行可能でしょうか?
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