航空記録
飛行機搭乗員は各自にそれぞれ一冊ずつ「航空記録」を所持していた。内容は、航空経
歴(様式第一)機種別統計表(様式第二)作業別統計表(様式第三)実施事項摘要(様式
第四)参考事項摘録(様式第五)で構成され、すべての搭乗記録を個人別に収録した重要
書類である。
専攻機種をはじめ機種別の飛行時間や任務別の記録、それに飛行時間の累計が記入され
ていた。また実戦・戦技など重要な飛行は赤字で記載されていた。この一冊をみれば各自
の過去の搭乗経歴が一目瞭然である。参考事項摘録(様式第五)には、実戦に参加した場
合、行動概要と所見を参加者個人が記入することになっていた。また累計飛行時間の多少
によって、搭乗員の格が評価されていた。
ところが終戦の際に、アメリカ軍が日本の搭乗員の航空記録を調査して、実戦など敵対
行為で、アメリカ兵を殺傷したことが判明すれば処刑されるとの噂がながされた。 だから、
ほとんどの搭乗員は自分の航空記録を焼却した。そのため、現物はほとんど残っていない。
同期生横田啓二君(熊本県玉名郡出身)が持ち帰った航空記録が、私の手元にある。この
記録から当時の飛行訓練の一端が再現できる。
谷田部空での初飛行は、昭和十九年三月三十一日(金)である。谷田部空へ入隊したの
は二十七日(月)であった。だから、三日間地上教育を受けたことになる。「慣熟飛行」
は三月三十一日と四月一日の二回実施している。四月二日(日)から「離着陸同乗」の飛
行訓練が開始されている。そして、毎週日曜日に航空記録を締め切っている。
これを見ると、当時は日曜日でも飛行作業を実施していたのである。当時の飛練の日課
は予科練と違い必ずしも日曜日が休みではなかった。天候などが悪く飛行作業ができない
日を休日に振り替えていたのであろう。午前に飛行作業を実施すれば午後は座学といった
日課であった。また、飛行場は第一分隊と第四分隊で午前と午後を交互に使用していた。
横田君の単独飛行は、五月十六日である。同乗飛行二十九回、飛行時間十時間三十五分
と記録されている。単独飛行が許可されたのに極端なバラつきはなかったと記憶している。
だから、これが平均的な数値であろう。
五月二十九日から、編隊飛行が開始されている。次に、特殊飛行は六月一日からである。
六月は編隊飛行と特殊飛行それに離着陸の互乗(後席にバラスト代わりに練習生が乗る)
が並行して実施されている。これは、訓練空域の関係で全機が同時に同じ科目の訓練を実
施することができず、編隊飛行と特殊飛行を交互に行っていたのであろう。また、定所着
陸や初めての夜間飛行を体験したのも六月である。
七月になると、編隊飛行や特殊飛行に加えて計器飛行が実施されている。そして最後の
仕上げとして七月二十三日、霞ケ浦空へ移動訓練(生地着陸)を行った。この日は日曜日
である。恐らく相手航空隊との調整で日曜日が選ばれたのであろう。そして、中間練習機
教程を終了する際の飛行時間は、百十六回・四十四時間と記録されている。
百里原空では、九七式艦上攻撃機による飛行訓練が八月二日から開始されている。八月
二十二日には編隊飛行訓練が開始され、発射運動(雷撃訓練)を開始したのは九月十八日
である。続いて九月二十六日からは夜間飛行の準備として定着訓練が開始された。
またこの時期、十七試艦攻「天山」の同乗飛行が記録されている。しかし、これはわれ
われ練習生に対する操縦訓練ではない。教官や教員連中が「天山」で操縦訓練を実施する
場合、バラスト代わりに後席に乗せられ、慣熟飛行を兼ねていたのである。
横田君の航空記録には、十二月に百里原空での搭乗記録がない。これは彼が離陸失敗の
事故で負傷し、入院していたからである。この時期は、単機で行う「発射運動」を終わり、
最後の仕上げとして編隊で行う「襲撃運動」を行っていた。
横田君は卒業式直前に退院したが、「襲撃運動」の訓練が未習のため、実施部隊に配属
されず、練習航空隊である鈴鹿空に転属し、機上作業練習機の操縦教員として勤務するこ
とになった。
私は九〇三空で、記録係という配置を与えられていた。理由は、商業学校出身で算盤が
できるかららしい。九〇三空艦攻隊の「搭乗命令」は、飛行士(飛行隊付士官)が起案し
飛行隊長の決裁を受け、関係搭乗員に伝達していた。この場合「搭乗割」と呼ばれる黒板
が利用される。この黒板には機番号と、操縦員・偵察員・電信員の氏名と要務内容などが
記入される。各自はこの「搭乗割」を見て自分の任務を確認する。
この「搭乗命令」の原簿と、担当整備員がすべての飛行機について、機体番号ごとに飛
行状況を記録している「飛行野帳」を基にして、飛行機の種類・機体番号・発着時間・搭
乗命令に示された、要務内容などを照合整理して、それぞれの搭乗員が個人別に所有して
いる、 「航空記録」に記入するのが記録係の仕事である。
また毎月末にこれを締め切り、機種別の飛行回数や飛行時間などを集計し、月計と累計
など記入する。そして、飛行隊長や飛行長そして司令官の確認印をもらう。また、全員の
作業別飛行時間の集計表を作成して、主計科に提出していた。これを基に、航空加俸が支
給される仕組みである。
記録係としての余禄で、古参搭乗員の参考事項摘録に記載されている、実戦体験の記録
を読むことができた。ほとんどの者が初陣の所見欄に、「訓練と同じ要領で……」などと
書いているのをみて、感銘を受けたるとともに、訓練の重要性を認識したものである。
当時の記録係は二名で「銀ちゃん」こと、 藤原銀次飛行兵長が相棒であった。搭乗勤務
のない日は、飛行指揮所二階の記録係事務室で仕事をしていた。忙しいのは月末ぐらいで、
あとは遊び半分である。房総半島南端の館山でも真冬は寒い。他の者が野外で、兵器の手
入れや機体の清掃など寒そうに働いているのに、暖かい事務室での勤務は天国であった。