陣中有閑
朝雲照代
下士官は「半舷上陸」といって、人員の半数ずつが、夕食後から翌日の朝食までの間、
外出を許可されていました。但し、当時は夜間飛行などで中止になることもありました。
私は大井空に転属してから、同期の外村君と二人で、金谷の町に下宿を持っていました。
下宿を持たない者は、海仁会の集会所か旅館に宿泊することになります。
搭乗員は、天候による飛行作業の関係などで、朝食後から翌日の朝食までの間外出を
許可される場合がありました。このような場合、金谷は田舎町で遊ぶところが無いので、
浜松市や静岡市まで遠征して遊んでいました。
ある時、先任下士官を先頭に五六名の者が静岡市まで足を延ばしました。お目当ては
「朝雲照代」の舞台見物でした。舞台が跳ねてから、事前に予約していた旅館に、彼女
を招待しました。そのため、予め酒や缶詰それに「航空増加食」などを手分けして持出
していたのです。
朝雲照代の舞台
当時は外出しても飲食店などは休業状態で、旅館も素泊りしかできない時代でした。
外出時の食事は、予科練時代の弁当に代えて乾パンなどが支給されていました。また、
われわれ搭乗員には「航空増加食」の他に「戦給品」と云って葡萄酒や缶詰などが特別
に支給されていました。
問題はこれをいかにして持ち出すかでした。下士官兵は「外出員整列」で副直将校の
「容儀点検」や「所持品点検」を受けなければなりません。これらをうまく誤魔化すの
に知恵を絞っていたのです。
宴たけなは、確か同期生の藤原君だったと思います。
「朝雲さんは、舞台で拝見するよりも、こうしてお近くで拝見するほうが綺麗ですね」
と、お世辞を言いました。ところが朝雲照代嬢曰く、
「私は、今の姿を褒めて頂くよりも、舞台姿を褒めて貰った方が嬉しいですよ」
「貴方がたが、お国の為に命を懸けていますように、私は舞台に命を懸けています!」
航空増加食と戦給品
予科練から飛練に進んで先ず変わったのが食事です。一般の兵員食以外に「航空増加
食」と呼ぶ特別な食べ物が毎食支給されました。定番は鶏卵や牛乳です。時には季節の
果物なども配食されました。
飛練を卒業して一人前の搭乗員として実施部隊に出ると、更にいろいろな物が支給さ
れます。「熱糧食」と呼ぶ菓子や「居眠り防止食」と云って、抹茶を錠剤にしたものな
ども支給されていました。これ以外に「戦給品」と称して、葡萄酒や果物の缶詰などが
支給されるようになります。
ところが資材不足のためか、みかんの缶詰の中身だけを氷詰めにしたものが支給され
たことがあります。これをかち割りにして、ポリポリ齧るのです。また、ラベルの貼ら
れていない缶詰にもしばしば出会いました。(当時、缶切りは必需品でした)
当時は物資不足のため、「酒保」で自由に買える品物が少なく大半の「酒保物品」は
分隊毎に配給されていました。それでも海仁会の集会所では、ウイスキーや缶詰などが
販売されることもありました。また、配給とは云っても搭乗員は他の兵科に比較すれば
優先的に配分されていたように思います。
私は百里原空当時「酒保係」を担当していました。主計科倉庫で「酒保品物」を受け
取り、隊員に配分し、俸給日に代金を徴収して主計科に納めるのが仕事です。袋菓子な
ど全員に渡る場合はよいのですが、中途半端な数量の品物を公平に配分するのに苦労し
ました。しかし、主計科倉庫に出入りする関係で、いろいろな役得にも与かりました。
当時の値段は、専売局が扱う「たばこ」など全国一律の物と、部隊毎に違った品物や
価格もありました。一例を記してみます。(記憶違いはご容赦)
たばこ
ほまれ(20本)7銭。 鵬翼(20本・価格失念) 金鳶(10本)20銭。光(10本)30銭。
酒類 清酒4円。 ウイスキー小瓶2円。 ビール1円(殆ど呑みませんでした)。
赤玉ポートワイン(戦給品で価格の記憶なし)。
飲料 サイダー(主に空弁に添えられ価格の記憶なし)。
缶詰 パイ缶50銭。
酒にまつわる話
百里原空の空中衝突事故で、遺族係を命じられました。酒保係として主計科と交渉し
て接待用の茶菓子を受領した記憶があります。ところが、祭壇に供えた清酒には記憶が
ありません。恐らく部隊としての配慮だったと思います。
九〇三空で未帰還機があり、遺体のない通夜が行われました。デッキに毛布を敷き、
車座になっての酒盛りが始まりました。この時の酒も特別に支給されたものと思います。
若年搭乗員のわれわれは、肴の「銀蝿」や燗付けなどで大変な経験をさせられました。
大井空での酒の思い出と云えば、ペアの杉本少尉が、私の酒好きを知ってよく届けて
くれました。士官には特別な配分があったようです。当時は「海軍御用達」灘の「黒松
白鹿」が主流でした。
当時は酒に限らず「海軍省御用達」として軍に製品を納めることで、原材料の調達で
優遇され、企業が成り立っていたようです。いわゆる「御用商人」です。思い出すまま
に当時の製品名を披露します。
「ボンタン飴」「三矢サイダー」「赤玉ポートワイン」「エビオス」「わかもと」など
です。
私はよく飲み友達に聞かれます。
「お酒はどの程度飲まれるのですか?」
「時間ですか、それとも量ですか? 時間なら一昼夜、量なら二升です」
と答えます。これは過去の経験からです。
大井空でのことです。当時私の所属する分隊で、一番の呑み助は石井か永末だと云わ
れていました。ある日、飛行作業が中止となりデッキで酒盛りが始まりました。宴酣、
先任下士官が口を開きました。
先任「うちの分隊で、誰が一番酒が強いんだ?」
隊員「それは石井兵曹か永末でしょう」
先任「お前ら呑み比べをやらないか? 勝った方にパイ缶を賭ける」
永末「石井兵曹やりますか」
石井「よし! やろう」
まず私が大食器(5合程度)を一息に呑み干し、石井兵曹に渡しました。勿論冷酒です。
彼もこれを呑んで私に返してきました。これを再度繰り返してから、
永末「石井兵曹まだ呑みますか?」
石井「お前が呑むなら呑むぞ」
永末「では今度は、小さいのでいきましょうや」
湯呑(1合程度)に注いで3杯ずつ呑みました。そこで、
永末「石井兵曹まだ続けますか?」
石井「お前が呑むんなら俺も呑むぞ!」
永末「どうです、引き分けにしませんか?」
結局引き分けということになりました。(石井兵曹は長崎県壱岐郡勝本町で健在)
余 談。
私は復員後、長崎県北松浦郡のある炭鉱に経理係として勤務しました。海岸に面した
田舎町です。それは「山神祭」の行われる前日の夕方、職員宿舎でのことでした。
独身社員が数名集まって、新鮮な魚を刺身にしてのささやかな宴会が始まりました。
各地から集まっていた若者達が、それぞれお国自慢の歌や踊りで座は盛り上がりました。
当時は物資不足に拘わらず、炭鉱にはお酒の「特配」があったので意気軒昂でした。
時間が経つにつれ、一人去り二人去り気がついてみると、残ったのは山本君と二人だ
けでした。山本君は私と同じ海軍の復員兵です。彼は航空母艦「雲龍」の乗組員でした。
海軍時代の話に興じながら尚も呑み続けました。
しかし、酒には強い二人も睡魔には勝てず、遂に眠ってしまいました。翌朝目が醒め
た私は、今日はお祭りだからゆっくり休めると思っていました。ところが何と、祭りは
昨日で終わっていたのでした。聞けばまる一昼夜呑んでいたそうです。
搭乗員の仲間と
あの当時、夜間飛行のない夜は、戦給品の酒を飲みながら各地の民謡や当時の
流行歌を歌っていました。搭乗員は鎮守府の区別無く全国から集まっていたの
で各地の民謡を聞くことができました。以下当時の流行歌など思い出すままに。
ダンチョネ節
富貴名門の乙女を恋することを純情なる恋と云い
蒼白き巣窟に蠢く乙女を恋することを 不純なそしてみだらな恋と 誰が云えよう
雨降らば雨降る心 風吹かば風吹く心 泣いて笑って夜の酒場で媚を売る女にさえ
あの水蓮の如き 清い純情があるものを
酒は飲むべし百薬の長 酔うては窈窕美人の膝枕 醒めては握る天下の剣
快楽の一夜明ければ 愛も無ければ恋もなし 握る操縦桿にも撃ちだす機銃にも
はたまた叩く電鍵にも 昨夜の未練は更に更になし
嗚呼! おいら空行く旅烏 明日の命を誰が知る
♪
沖のかもめと飛行機乗りはよ
何処のみそらでね 果てるやら ダンチョネ・・・
十三夜
花咲けば咲いたで 思い出す 散れば散ったで思い出す
忘れた人でもないものを たまたま逢えばものの一言も言えない もの侘しさ
橋の袂で見ているものは 十三夜お月様 ただひとり
♪
河岸の柳の ゆきずりに ふと見合わせる 顔と顔
立ち止まり 懐かしいやら 嬉しやら 青い月夜の 十三夜
緑の地平線
泣かせないでください 涙の瞳に笑みを浮かべて 私はじっと堪えているのです
そう言って別れ去った女の面影が 今宵もまた この杯の底に映る
ああ 忘れよう 忘れよう 所詮忘ねばならぬ人
♪
何故か忘れぬ人故に 涙かくして踊る夜は
濡れし瞳に すすり泣く リラの花さえ 懐かしや
潮来出島
潮来出島の眞弧のなかに あやめ咲くとは珍しや 水の面にチラチラ映した姿
♪
雨が止だに 晴れたのに 娘船頭さん何故泣くの
一人暮らしが寂しいか 旅のお方が恋しいか
支那の夜
赤いランタン波間に揺れて 港上海白い霧
出船入り舟夕空の 星の数ほどあればとて 愛しあの人乗せた船
何時の日港へ着くのやら クーニヤン悲しや支那の夜
♪
支那の夜 支那の夜よ 港の灯り 紫の夜に
上るジャンクの 夢の船 ああ忘られぬ 胡弓の音
支那の夜 夢の夜