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予科練倶楽部(保存)

[17] ある予科練出身搭乗員の生涯 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/03/05(Tue) 23:03
我が伯父、植田米太郎海軍飛行特務少尉の奉職履歴が判明しました。蒼空様はじめ、 予科練習生出身の皆様方に、この伯父についての情報があれば、教えていただきたく、 お願い申し上げます。 植 田 米太郎 徳島県那賀郡坂野町出身         大正8年5月7日生        佐志飛296号 昭和10年 6月 1日 横須賀海軍航空隊入隊 第六期予科練習生ヲ命ス 同日          海軍四等航空兵ヲ命ス      11月 1日 海軍三等航空兵ヲ命ス 昭和12年 5月 1日 海軍二等航空兵ヲ命ス       5月18日 第六期乙種予科練習生トナル(海軍省令第9号) 昭和13年 1月10日 卒業 同日          海軍一等航空兵ヲ命ス 同日          第六期飛行練習生(偵察)ヲ命ス       9月20日 卒業 同日          館山海軍航空隊附ヲ命ス      12月19日 佐世保海軍航空隊附ヲ命ス  6月 6日 横須賀海軍航空隊附ヲ命ス       7月25日 第一四海軍航空隊附ヲ命ス     11月15日 第一五海軍航空隊附ヲ命ス      12月14日 朝日丸病院ニ入院      12月28日 佐世保海軍病院に転院 昭和15年 1月20日 佐世保海兵団に転籍(入院中ノ儘)       3月 9日 退院帰団      5月 1日 任海軍二等航空兵曹      5月10日 佐世保海軍航空隊附ヲ命ス 昭和16年 4月18日 加賀乗組ヲ命ス      5月 1日 任海軍一等航空兵曹      6月 1日 海軍一等飛行兵曹トナル(勅令大624号      12月 8日 任海軍飛行特務少尉 戦没状況 航空母艦加賀乗組中、昭和16年12月8日、ハワイ空襲の際、敵弾を受け 敵地に突入、戦死。 戦死により、二階級特進、勲六等単行旭日章、功五級金鵄勲章を叙勲され、正八位に叙される。 最後は97艦攻の機長兼偵察員でしたが、支那事変の折は陸偵の偵察員であったときいています。 館山空での延長教育以降、内地の航空隊ではどのような勤務をしていたが不明です。


[18] Re:[17] ある予科練出身搭乗員の生涯 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/03/06(Wed) 08:50
>我が伯父、植田米太郎海軍飛行特務少尉の奉職履歴が判明しました。蒼空様はじめ、 予科練習生出身の皆様方に、この伯父についての情報があれば、教えていただきたく、 お願い申し上げます。 植 田 米太郎 徳島県那賀郡坂野町出身    大正8年5月7日生   佐志飛296号 この記事を同期の方が読まれることをお祈り致します。私もできるだけの資料を調べて みます。ちなみに、私の兵籍番号は佐志飛9272です。


[19] 続軍歴調査 三座機の偵察員について 投稿者:分隊長 投稿日:2002/04/01(Mon) 08:58
我が伯父、植田米太郎の軍歴調査のため、先週末上京し、防衛庁防衛研究所戦史部、厚生労働省 社会援護局業務課に行って参りました。以下調査の経緯です。 防衛研究所、ほぼ空振り。14空、15空とも戦闘詳報存在せず。伯父の在籍期間中の記録のみ すっぽり抜けている。ただし、特殊行動調書の一カ所「特殊行動(乙)」に陸偵単機出撃の記録 あり。伯父の機か? 調査員K氏に「佐空で何をしていたかわからないのです」と問うと、「三座機の偵察員は、三座 機なら何でも乗れたんです。陸上機、艦上機、水上機は関係ありません」との答えを賜う。 佐空では「九四式水上偵察機」に搭乗していた可能性あり。また、中攻隊では、まず陸偵が先発 し、偵察を敢行、中攻を誘導していたとのこと。伯父は危険な任務に就いていたことが判明。 厚生労働省、履歴の原本閲覧による細部確認。「旭7」の鉛筆による走り書き発見。同期生の方 の経歴を参考にすると、支那事変従軍記章と同時に「勲七等青色桐葉章」を受勲したのでしょう か? また、支那事変で「左腹部貫通銃創」を受けた日付がほぼ判明。十四年十一月二日の様子 (「公務重傷」の記述あり)。伯父は案外支那事変では在籍期間は長いものの戦闘に従事してい たことは少ない可能性が濃厚。15空には名前のみの在籍の可能性が高くなる。 受賞履歴について、賞勲局に問い合わせを再度敢行。「春の叙勲」の時期のため、賞勲局はてん てこ舞い。文書回答は一ヶ月先とのこと。懇談会の間に合うか微妙なところ。 以上のような状況のところ、隔靴掻痒の体をなす。煮詰まったため、加賀で同じ雷撃隊であった、 吉野氏(甲2期)の紹介があった「財団法人海原会」に電話連絡。「すぐこられたし」とのこと で、地下鉄に迷いながら、新橋から大森へ。海原会にて、未見の資料のコピーをいただく。 事務局長氏(甲13期前期、神ノ池・百里原の神雷部隊桜花隊の生き残り。野中少佐の話をうか がう)から「もっと早く来てくれれば」との言葉。「今度は早い時間にいらっしゃい」とのこと。 再度の帝都襲撃を誓う。海原会の賛助会員になることを即時決定、年会費を支払う。 翌日、靖国神社参拝。桜吹雪の中、本殿参拝敢行。「軍人遺族記章」を着用なれど、職員気づか ず。代替わりの激しさを感ず。未だハワイ真珠湾内で眠ったままの我が伯父の御霊はここにはあ らねども、多くに御霊に本殿にて玉串を捧げ、黙祷。 八重洲ブックセンターにて「神龍特別攻撃隊」を購入。著者高橋一雄氏は伯父と同期生。真珠湾 に参加(利根乗り組み。水偵操縦員)。真珠湾に参加した同期生の中に伯父の氏名発見。 同作戦のおける乙6期生で唯一の「戦死」の文字に涙。 再度の上京、同期生あるいは戦友の方々との連絡を密にし、伯父の戦歴の詳細調査を新たに誓う。 ところで、蒼空様、三座機の偵察員についてですが、やはり艦上機、陸上機、水上機の区別なく 搭乗できたのでしょうか? 佐世保航空隊には、伯父は二回勤務していますが、昭和14年ある いは16年の頃の佐空に配備されていた航空機はわかりますでしょうか? あるいは前期高橋氏は二座水偵の搭乗員として、伯父と同じ頃に館山空で延長教育を受けている ようなのですが、その当時は館山空は水上機が主流だったのでしょうか? お教えください。 調査を進めていくうちに気づいたのですが、伯父は当初は偵察機の偵察員として教育を受けてい たのかもしれません。あるいは横空で攻撃機、館山空や佐世保空で水偵の訓練を受けたのでしょ うか? 戦傷後の佐世保空では、教員配置にあったかのしれませんが、なにぶん携帯履歴をもっ たまま真珠湾の水面下に眠ったしまったようで、詳細は履歴は不明のままです。厚生省の履歴の あまりの記述の少なさに愕然としました。


[20] 三座機の偵察員について 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/04/02(Tue) 17:22
分隊長へ 私の資料から回答致します。6期生の偵察員は横須賀空での飛練を終わり、館山空で水偵の延長 教育を受けています。13-9-30 鈴鹿空開隊により、7期生からの飛練は鈴鹿空。 佐世保空では水偵に搭乗していたと思われます。当時の佐世保空は水偵と飛行艇を装備していま した。第3艦隊所属の14空は当時陸攻部隊ですが、陸偵を装備していた可能性はあります。 15空は、昭和14-11-15鹿屋基地で陸攻部隊として開隊しています。陸偵を装備していたかどう か不明です。操縦員は水上機と陸上機は別々に訓練を受けますが、偵察員はすべて同じ訓練を受 けます。 偵察員の任務は航法と電信それに機銃です。2座の場合は一人ですべてをやります。3座の場合 は中間席の偵察員が航法を担当し、後席の電信員が通信と機銃を受け持ちます。 先任者が偵察席で後任者が後席(電信席)です。また、操縦員を含めての先任者が機長です。 偵察員と呼ぶ場合、資格としの意味と配置として意味がありますのでご注意ください。 戦傷後の佐世保空は教員ではないと思います。佐世保空は教育部隊ではありませんから。


[21] ありがとうございます 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/04/03(Wed) 10:05
蒼空様、ありがとうございます。 佐世保空航空隊は実施部隊だったのですね。佐空は、そうすると、水偵・飛艇部隊ですから、 主任務は索敵・哨戒だったのでしょうか? 戦傷後、かなり長い入院生活、そして海兵団(おそらく補充兵分隊だったのでしょうね)と半年 あまり戦列から離れていた割には、実施部隊に復帰できたことになりますね。もっとも、本人は 佐空での勤務を「長く」感じていた様子で、昭和16年の春にはしきりに「転勤したい」と書き 残しています。同期生が支那事変で戦っている中、内地にいるのは、いやだったのでしょうか。 これからもご指導ください。空白を埋めていきたいと痛感しています。


[22] Re:[21] ありがとうございます 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/04/03(Wed) 16:30
>佐世保空航空隊は実施部隊だったのですね。佐空は、そうすると、水偵・飛艇部隊ですから、 主任務は索敵・哨戒だったのでしょうか? 私は2次試験で佐世保空に1週間いました。佐鎮直轄で艦載機搭乗要員の練成訓練や入港艦の 搭乗員の休養など受け持っていたと思います。伯父さんの場合は、退院後の配置復帰のための 訓練を行っていたのではないでしょうか。


[23] 分隊長へ。 投稿者: 蒼空投稿日:2002/04/12(Fri) 09:28
第15航空隊の編成が分かりました。 昭和14年11月15日。鹿屋基地で開隊当時の装備定数。   陸攻隊  96陸攻27機   偵察隊  98陸偵 6機 佐世保航空隊の装備定数。   開戦時〜水偵6機。飛行艇21機。   19年〜水偵40機。飛行艇12機。


[24] 佐空について 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/04/13(Sat) 23:36
蒼空様、ありがとうございます。 佐空は、主として飛行艇部隊のようですね。中心は「97飛行艇」でしょうか。小職は、あの 飛行艇がなぜか好きです。水上機が少ないとなるとこれは毎日の搭乗割が大変だったでしょう。 ところで、同期の方がまとめられた記録によると(現在準備中のものらしいです)伯父は延長 教育後「神川丸」乗り組みとなっています。当時神川丸は16空。作戦行動は同じ地域ですが、 履歴書によると14空、15空です。 なお、南支への移動は台湾経由だった様子。14空の下に鉛筆書きで「7月31日高空入隊」 とありましたから、おそらく横須賀から高雄航空隊経由で大陸へ向かったのでしょう。 これからは、ペアの長井さんと武田さんのことも調べなければと考えています。


[25] 分隊長へ 投稿者:蒼空 投稿日:2002/04/14(Sun) 08:35
第3聯合航空隊(南支方面担当)編成表。        司令官 山縣正郷少将 第14航空隊 司令  阿部弘毅大佐   96陸攻18機  96艦戦18機 (昭14−1) 第15航空隊 司令  蒲瀬和定大佐   96陸攻27機  98陸偵 6機 (昭14−11) 第16航空隊 司令  横川市平大佐 (神奈川丸艦長兼務)   94水偵 4機  95水偵 4機


[26] 甲飛14期の集い。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/04/15(Mon) 10:19
博多駅から徒歩5分の所に、活魚料理店「ひかり」があります。毎月第2日曜日5時から、 甲飛14期出身の方々が集まり懇親を深めております。 オーナーが14期出身者なので、福岡県甲飛会の会合でもよくここを利用します。他県の 方も博多を訪れる機会がありましたら、お気軽にご利用ください。


[27] 「支那事変航空機搭乗員特別詮議要領」のこと 投稿者:分隊長 投稿日:2002/04/15(Mon) 17:54
蒼空様いつもありがとうございます。 ところで、標記のような綴りがあり、そのコピーを防衛研究所に出向いた際に頼んだのですが、 まだ届きません。あそこはさぼっているんでしょうか。 今日の本題です。 標記の「特殊行動(乙)」の第14航空隊の部に、 14−11−2 柳州偵察 陸偵1 (桂林)とありました。伯父の履歴書には、 14−11−2 公務重傷とあります。特設病院船朝日丸にて本国送還となるのですが、この 理由に、「左腹部貫通機銃創」とあります。別の資料(出典不明の新聞記事。おそらく真珠湾 攻撃の戦死者に叙勲と二階級特進の措置が行われた昭和17年7月頃の記事)によると、 「昭和14年秋支那事変に出動、適地視察の際空中戦を演じ左後腹部に貫通銃創を受け奇跡的 の生還をとげたものである」と記されてます。これがやっと繋がってきました。 14空には陸偵があり、伯父はその日出撃し、四川空軍機に迎撃されて受傷したのですね。 そうすると、15空には籍だけが移ったことになります。15空は鹿屋で編成となっています が、15空の機材人員すべてが内地で準備されたのではなく、おそらく、前線の部隊から抽出 されたのではないでしょうか。もっとも、このとき伯父は、前線の病院にいたでしょうから、 戦力にはなっていないでしょうが。 また、11月15日付で、支那方面艦隊の編成替えが行われ、第一、第二、第三遣支艦隊が編 成されています。15空の編成もこれに関連するのでしょう。 最近、伯父の同期生の方と連絡がつきました。乙6期で元気でご存命の方は5名ほどだそうで す。それでも、光が見えた気がします。


[28] Re:[27] 「支那事変航空機搭乗員特別詮議要領」のこと 投稿者:蒼空 投稿日:2002/04/16(Tue) 08:47
同期の方と連絡ができてよろしかったですね。 防衛研究所に、原剛さんが居られたころは、私もお世話になりました。 さぼっている訳ではないと思いますが・・・ 個人的知り合いが居れば良いのですが・・・


[29] やっと来ました 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/04/27(Sat) 11:35
/・ζ・
昨日、マイクロコピーがやっと来ました。いやあ、一月かかるんですね。 ところで、伯父の戦歴ですが、やはり14−11−1の柳州偵察において、負傷しているのなら、 南寧攻略作戦の事前偵察で出撃しているようですね。 12月以降は、14空・15空ともに南寧攻略作戦に従事した模様で、桂林、柳州などの空襲に 行っているようです。特殊行動に色々掲載されています。おそらくこの作戦の前の写真かと思わ れますが「貴渓」というところでドラム缶を満載した車両を空襲した際の写真や、16空のもの と思われる95水偵(尾翼にVの識別記号がありました)の編隊飛行を写した写真がありました。 今から考えると「なんでそんな田舎で…‥」なのですが、いわゆる「援蒋ルート」の破壊は当時 の課題だったのでしょう。それについて、今だから思うこともなきにしもあらずですが…‥。 ところで、先週徳島に帰省した折、伯父の私物のアルバムを見せていただきました。誇らしげに 特技章を見せている写真がいくつかありました。「錨に翼」のウィングマークはやはり誇らしい ものだったのでしょうね。


[30] 分隊長へ。 投稿者:蒼空 投稿日:2002/04/27(Sat) 18:22
よかったですね。分隊長がいたから伯父さんの戦歴が公になったのです。それでなければ永遠の 闇に葬られるところでした。伯父さんもさぞ喜んでおられることでしょう。 私たちの時代は、特技章は普通科一重桜、高等科八重桜に統一され、特技章を見ただけでは特技 内容の識別はできませんでした。それでも17歳で八重桜を着けることは誇りでした。 当時、特技章を左マークと呼んでいました。


[31] 左マーク 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/04/27(Sat) 19:39
そうですね、左マーク! 下の伯父も言ってました(小松島空の近くなので)、「下士官、兵の集団が来るだろ。誰がえらいか というと、左マークを持ってるかどうか、それや。水兵なら兵長がおっても、一水で左マーク持って る方がえらい。善行章がいくらあっても、左マーク持ちでないとえらくない」そして、中学で、 「中学を途中でやめて予科練にいった先輩が学校に来た。向こうはもう下士官。先輩連中はみんな 敬礼している。そうか、予科練にいったら、同期や先輩が徴兵で軍隊に来ても、こっちは下士官。 うまくすれば准士官になっているかもしれん(当時14歳)。これやあ思った」そして予科練習生と なった。ところが、同日入隊の同期生が阿那賀で遭難(甲16期、宝塚空入隊)。 79名が戦死。三日前に帽振れで見送った仲間がお骨になって宝塚に帰ってきた。そして終戦。 「あのまま戦争が続いていれば別だっただろうけど、すぐに終わった。死ななくていい連中がたくさ ん死んだ。ぼくは軍隊に行ったといっても少しの間だから何も言えないし、何も知らない。忘れたい とばかり思ってきた。忘れたいけど、忘れられない。これは辛いものだよ」こうもいいます。 「阿那賀の慰霊碑には行ったことがない。行けない。下までは何度も行っているけれど、慰霊碑のあ る丘(鎧崎)には行ったことがない。傷が深すぎる。慰霊祭に行けば遺族は喜んでくれるだろうけど、 やっぱり行けない」ここにも深い戦争の傷跡があります。 ところで、14空と15空の関係ですが、コピーが来て確認が出来ました。14年11月15日付で、 14空はそれまでの「艦戦・陸攻」部隊から、「艦戦・艦爆」部隊に変更となり、陸攻隊(陸偵を含 んで)はそっくり新編された15空に移っているようです。 伯父の転勤も、この部隊の編成替えに伴う措置だということがわかりました。


[32] 長兄の戦死状況。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/04/28(Sun) 09:09
私の長兄は、昭和19年10月26日比島方面で戦死との通知だけで、細部は不明でした。よく夢に 現れたので、まだどこかで生きているのではないかと思ったこともありました。精力的に調査した結 果、船団名や輸送船の船名それに沈没場所、攻撃したアメリカ潜水艦の艦名も特定することができま した。名もない下級兵士のことゆえ、調査を思い立ってから20年もかかりました。


[33] 土浦空秋田基地の会。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/05/13(Mon) 09:24
「土浦空秋田基地の会」の第3回総会を開催致します。関係者のご参加をお願い致します。 日 時 平成14年6月6日(木)午後3時30分受付     午後4時開催 場 所 秋田県北秋田郡合川町会議室     懇親会 合川町農村環境改善センター午後5時30分     宿 泊 大野台ハイランドハウス・平川旅館・山喜旅館 細部はsenri@dn.nyanchu.netまで。 秋田基地は「グライダー特攻隊」の訓練基地として開隊された部隊です。 甲飛14期生800名が集められ、猛訓練が実施された場所です。 奇しくも「丸」6月号で、空中機動軍としての「グライダー特攻隊」が紹介されております。 ご一読ください。


[35] 亡き友をしのぶ。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/05/15(Wed) 22:07
昭和19年12月21日、雷撃訓練中に空中衝突事故で殉職された長崎市出身の友の仏前に、 同期生3名で香を上げて参りました。


[36] はじめまして 投稿者: 五十嵐卓司 投稿日:2002/05/25(Sat) 12:13
永末さんの著書は、2.3冊拝読しております。 小生甲飛14期第二岡空の1期で昭和19年11月15日大井空へ派遣されました。たしか二階に一時 みなさん先輩がおられた覚えがあります。先日同じ大井におられて現在も金谷町役場に勤めていられる 役所さんと知り合うことが出来永末さんのことやいろいろご便宜をはかって戴いています。 2年前岡空1期で同期会(一飛会)を組織していますが、大井空跡を訪れましたが、全くその面影なく、 昔日の感がありました。充実したホ−ムペ−ジで敬服しています。私も現在手がけていますが、70も 半ば過ぎるとなかなかはかどりません。1年後位を目途にやわやわいきます。 最初ですので今日はこのくらいで。  失礼しました。


[38] Re:[37] [36] はじめまして 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/05/26(Sun) 09:53
五十嵐様。 ご来訪ありがとうございます。福岡地区の14期生は、毎月第2日曜日の6時から 「ひかり」という割烹に集まっています。私も特別参加しています。 星野君と田中君がたしか岡空と言っていました。今度確かめてみます。 福岡へ来られたら是非一度お立ちよりください。オーナーも14期生です。


[39] 海軍記念日 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/05/27(Mon) 16:06
気がつけば海軍記念日です。 昭和10年の今頃、米太郎伯父は横須賀海軍航空隊で厳しい第二次試験を受験しておりました ことでしょう。その十年後にも、稔伯父が甲飛の二次試験を受けていたことだと思います。 (入隊は6月15日付)皆様の青春を捧げた海軍に思いをはせ、予科練であった皆様の健康と 長命をお祈り申し上げます。


[40] ご存知ないですか。 投稿者: ニライ 投稿日:2002/05/28(Tue) 00:02
今、他のリンクにも同様文を書き込みさせて頂きました。私のまだ見ぬ叔父(父の兄)に関する事 を探しています。名は我喜屋政一という沖縄出身、予科練生となっており、フィリピンで戦病死 (昭和10年8月)と戸籍上なっています。ただ、戦死時、15歳で若いのですが。 叔父は、当時祖父母が、移民していたテニアン島から、一人、勉学のため、パラオ中学に在学して いた様で、そこから、志願兵となった様です。 年老いた祖母が生きている間に叔父に関する事を伝えられたらと思っています。叔父の同期生の方 がおられたら本当に嬉しいです。どうぞ、宜しくお願い致します。


[42] Re:[40] ご存知ないですか。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/05/28(Tue) 08:51
ニライ様。
掲示板の方にコメントしております。


[44] 二度目の上京 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/05/30(Thu) 22:34
人生の大先輩に会いに海原会の懇親会に行って来ます。 伯父と同じ加賀雷撃隊にいたYさん(甲2期)に初めて会えます。 14空や佐空にいらした方に会えればもっとうれしいのですが。 ともあれ、土曜日は海原会懇親会、日曜日は土浦・筑波へ、月曜日は資料調査をして参ります。


[45] Re:[44] 二度目の上京 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/05/31(Fri) 13:08
甲2期の方は、吉野治男さんですね。同じ加賀の前田武さん(甲3期)も生存されています。 長井さんの同期(甲4期)では、平田義幸・熊本研一・大西俊夫・梅津宣夫・武田英美の 諸氏が加賀の雷撃隊に所属していましたが、どなたが生存されているかわかりません。 いい話が聞けるとよろしいですね。


[46] 腰が抜けそうになりました 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/06/03(Mon) 23:05
海原会懇親会では隣に海原会松田会長、雄飛会伊藤会長とどえらい先輩に囲まれました。伊藤会長 には「遺族という割には若いねえ」というお話から、色々とお話しさせてもらいました。で、です。 海原会前田前会長、です。甲3期の前田さんです。おそるおそる声をおかけしましたら、 「おう、植田米太郎、しっとるよ。よーく知ってる。何せ加賀じゃベッドが隣だったんだから」と の答えが。本当に腰が抜けそうになりました。 加賀では全機着艦した後、夜になって皆が戦勝気分で騒いでる時、搭乗員がお通夜をしたそうです。 あまり長くお話しすることはできませんでしたが、収穫は大きかったと思います。ただ、吉野さん は当日ちょっとした差し支えがあり、お見えになりませんでした。 伯父のことについて、今後色々と証言が集まるかも知れません。一日一日、努力していこうと思い ました。


[47] Re:[46] 腰が抜けそうになりました 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/06/04(Tue) 08:44
> 海原会前田前会長、です。甲3期の前田さんです。 > おそるおそる声をおかけしましたら、「おう、植田米太郎、しっとるよ。よーく知ってる。 何せ加賀じゃベッドが隣だったんだから」との答えが。 吉野さんと会えなかったのは残念でした。でも前田さんのお話が聞けて宜しかったですね。 上京した甲斐がありましたね。


[49] はたと立ち止まってしまいました 投稿者: 分隊長 投稿日:2002/07/05(Fri) 22:03
蒼空様。 その後調査は少しずつ進んでおります。が、すこし困っています。武田友治一飛は偵察練習生出身で あったのですが、53期の歩みがわかりません。 偵察練習生はその頃乙飛と同じように「海軍志願兵」として募集され、海兵団、通信学校、艦務実習、 飛行練習生(偵察専修)と進んで搭乗員になったということはわかりました。しかし、53期がどの ような課程でいつ頃どこに進んだかがわかりません。調べていく上で、何か参考になることはないで しょうか?


[50] Re:[49] はたと立ち止まってしまいました 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/07/06(Sat) 07:32
分隊長へ。 海軍の下士官搭乗員の教育制度として、「操縦練習生」と「偵察練習生」がありました。何れも部内 からの採用です。部外採用の「飛行予科練習生」と「飛行術練習生」制度の発足により、部内採用者 は「丙種飛行予科練習生」と呼ばれるようになりました。これらの資料はありますが、昔の「偵察練 習生」時代の資料は私も持ち合わせていません。気をつけておきます。


[51] 偵察練習生について> 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/07/08(Mon) 16:44
「偵察練習生」について、断片的資料ですが・・・。 昭和3年3月 霞ヶ浦航空隊入隊。第14期。掌電信兵から採用。 昭和5年5月 横須賀航空隊入隊。第17期。 昭和7年5月 同上       第20期。各兵科から採用。 昭和16年4月 丙飛制度に移行。偵察練習生廃止。 年に2期、途中から3期採用したと仮定し、恐らく第53期は 昭和15年だろうと推測します。同期生でいれば宜しいですね。  


[52] 53期の氏名の一部が分かりました。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/07/10(Wed) 16:17
「偵察練習生」53期の氏名の一部が分かりました。終戦まで生存されていたかは不明です。 階級は開戦当時1等飛行兵。 実田 陸夫・岡田 幸夫・吉永 四郎・松田 昇・熊倉 哲三郎・泉 清・弘兼 吾一・谷 千尋 大泉 金吾郎・瀬崎 三千歳・白井 賢次郎・長谷川 清松・中納 義光・菊地 四郎・小林 和夫 江藤 金也・坂下 一男・森下 昇・児玉 照視・野村 治・三宅 保・中田 勝蔵・川口 敏光 村尾 一          (お知り合いの方がおられましたらご連絡ください)  


[53] 検索という手が・・・ 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/07/11(Thu) 13:59
53期の方の氏名を「yahoo」で検索していましたら、いろいろなことが分かりました。 分隊長は当然ご承知のこと思いますが、念のためお知らせ致します。


[61] 無題 投稿者:蒼空 投稿日:2002/09/02(Mon) 10:49
昨日同期生、岸田善藤君の仏前に香を供えてまいりました。これもNHK放送の賜物です。 ご遺族のお話お伺いしました。お互いに単なる偶然でないものを感じました。 岸田君のご冥福をお祈り致します。


[62] 貴重な記事を拝読させて戴きました。 投稿者: 西野 信夫 投稿日:2002/09/22(Sun) 16:49
小生事、美保空第14期操縦23分隊の甲板練習生を拝命し連日連夜しごかれました。 昭和20年5月、柳井潜水学校「蛟龍」の機関班に配属となり、僅か4ヶ月程でしたが死を覚悟 しつつ猛教訓を受けました。 戦後より現在まで苦境を突破できたのは1年数ヶ月の予科練魂の賜と、余生を生き抜く覚悟です。 昭和56年、「美保空第二十三分隊会」を結成し、連絡係として、今尚毎年数十名の同志が集い 往時・現在・未来を語り合って居ります。先輩の貴重な資料を拝読させて戴き感無量の境地です。 誠に有難う御座居ました。


[63] Re:[62] 貴重な記事を拝読させて戴きました。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/09/23(Mon) 06:20
ご来訪ありがとうございます。 福岡地区の14期は毎月第2日曜日に懇親会を開いています(お知らせ欄で紹介)。 一度参加しませんか。貴殿のこと紹介しておきます。


[64] 初めまして 投稿者: mns 投稿日:2002/10/04(Fri) 20:53
初めて書き込みさせていただきます。 9月に私の叔父が亡くなりました。昭和20年8月15日、叔父は鈴鹿基地で、銚子沖のアメリカ 軍機動艦隊に艦上爆撃への離陸寸前であったそうです。晩年は病気がちでしたが、毎年の同期会に は必ず出席していた叔父でした。叔母が「私より、付き合い長いし、絆が強いのよ」と冗談交じり によく言ってました。昨年、蒼空様のHPを見つけ、叔父にも見てもらいました。叔母の話では、 その日は、ニコニコしながら昔の写真や資料を引っ張り出してきてはご機嫌だったそうです。少し でも元気がでればと、思っていた叔母から、「ありがとうね」と言われました。 これは、そのまま蒼空様へのお礼の言葉とさせていただきます。有り難うございました。 優しい穏やかな叔父でありましたが、戦時中の写真では別人でありました。悔やむべきは、叔父の 生き抜いた時間を詳細に聞くことができなくなりました。でも、戦時中の写真の中の叔父と、優し かった叔父の両方を知ることで、叔父の生きた時間がどのようなものか十分察することができます。 これからも、蒼空様の生き抜いた時間を発進し続けて下さい。気候が不純なおり、お体をご自愛下 さい。


[65] Re:[64] 初めまして 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/10/05(Sat) 13:43
mns様 書きこみありがとうございます。氏名を伏せてありますが、恐らく同期生と思います。 今日小学校の同窓会でした。旧制中学の同窓会も年に一度行っていますが、たった2年間で ありましたが、予科練の絆は切っても切れないものがあります。残された写真がありしたら、 私のHPに収録して残したいと思いますので、ご連絡ください。  叔父様のご冥福をお祈り致します。       


[66] 恐縮です! 投稿者: 残る桜 投稿日:2002/10/26(Sat) 14:15
四苦八苦して公開したHPでして「おめでとう」の言葉頂き恐縮です。 何回も何回も書き直して漸くアップロードしました。 私のはターゲットを極若い人にと思いまして綴ったものですから幼稚、よく言えばシンプル気恥ず かしいです。それにしても貴方のHPは素晴らしいですね。史料の収集には苦心したでしょうね。 脱帽しながら読ませて頂いてます。 トップページの白菊は懐かしいですね。あの機内でオタオタ、アタフタ作業をした事も今となって は懐かしいですね。それから北岡さんですが今はもうこちらにいないのであの時によく聞いておけ ばよかったのにと悔やんでいます。 11月2日土浦で第35回予科練戦没者慰霊祭がありますが行く予定です。 明日は甲飛13期会ですが空自救難隊長を来賓に呼んでいます。 詰らないこと書いてしまいましたがごめんなさい、また来ます。

http://sen0288.cside.to/omoideki.index.htm


[70] お知らせ。 投稿者: 蒼空 投稿日:2002/11/07(Thu) 06:14
近日中に、予科練倶楽部は掲示板に統合致します。今後の投稿は掲示板にお願い致します。
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