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[467] こんばんは
投稿者:みーちゃん
投稿日:2005/05/01(Sun) 23:46:32 素晴らしいホームぺージですね!!感動しました。
お体気をつけてこれからも頑張って下さい。本当に綺麗で手の込んだ気持ちのこもった
ホームページですね。私たち戦争を知らない若い世代にはとてもわかりやすい丁寧な
お話で一杯です。ありがとうございます。
蒼空 > ありがとうございます。 ゆっくりお読みください。
(2005/05/02(Mon) 06:46:54)
[468] ご存知ですか?
投稿者:かおる
投稿日:2005/05/02(Mon) 15:12:26 はじめまして。かおると申します。
「インドシナパクニ」という場所がどこか探しています。
インターネットで検索してみましたが見当たらず、いろいろあたってみるうちに、
こちらのホームページにたどり着きました。
たくさんの情報をお持ちのように受け取りましたので、お尋ねさせていただきました。
また、「インドシナパクニ」で戦った軍隊はどのようになったのか等、何でもよいので
「インドシナパクニ」で戦った隊の情報を教えていただければと
思います。
蒼空 > 調べてみます。しばらくお待ちください。
(2005/05/03(Tue) 06:22:01)
かおる > お返事ありがとうございました。このホームページの意図とはちがうことを質問
してしまったかもしれません。場違いだったら本当にすみません。よろしくお願いします。
(2005/05/03(Tue) 08:54:49)
hush > Ans.Q拝見 パクニと言う地名を検索した結果ではインド中央部に1ヶ所見つかり
ましたが、インドシナ半島では御座いませんし日本軍が関係するような場所ではありません。
そこで、近似する地名を考えた所、パタニではないかなと考えております。
タイ南部、マレーシア国境に近いこの町は、1941年12月8日、太平洋戦争開始時に
日本第25軍の安藤支隊が上陸した場所として記憶に残っております。
推測で申し訳ありませんが、現在の所、思いつくのはここ位です。 (2005/05/05(Thu) 10:33:05)
蒼空 > 情報有難うございました。かおるさん、これ以上は無理なようです。
(2005/05/05(Thu) 13:18:14)
かおる > ありがとうございます。たくさんのホームページの掲示板に投稿してみましたが、
お返事もいただけない状況でした。その中でこのような情報をいただけて、大変うれしく
思っています。「パタニ」ということも視野において、また探してみようと思います。
本当にありがとうございました。 (2005/05/05(Thu) 15:02:55)
蒼空 > 出沼ひさし様から情報頂きました。
マレー半島に「スンゲイパタニ」という地名があります。字面、語感からすると、こちらかも
しれません。場所は下記を参照してください。
http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-10katou.htm (2005/05/06(Fri) 06:07:45)
蒼空 > chuukichi様から新しい情報を頂きました。ハノイの北東約20kmにあるバクニンの
ことではないでしょうか昭和20年の「明」作戦時であれば第37師団が展開しています。
(2005/05/06(Fri) 16:19:19)
カンタニャック > かおる様 もうすこし情報をいただけないでしょうか。
まずかおる様は「インドシナパクニ」という言葉を耳で聞かれたのでしょうか?
あるいは文字に書かれたものをお読みになったのでしょうか。
耳で聞かれたのでしたらおそらく「タ」を「ク」と聞き違えた可能性は低いでしょう。
文字でしたら活字か手書きかによってもミスの可能性が違ってきますが、手書きなら
「パ」と「バ」、「ク」と「タ」、「ニ」と「ン」などのミスがある可能性が出てきます。
また紙に書かれたものならそのほかにどんな事が書かれているのかなどお教えいただけると
助かります。またお調べの対象が陸軍関係者か海軍関係者かあるいはそれ以外の方か、
また時期がいつ頃かなどについても、情報をもいただければと思います。
もちろん個人のプライバシーに関わる問題もあるかとも思いますので、ご無理なさる必要は
ありませんが、いろいろ細かい情報をいただければ、もう少し可能性を絞れるかも知れません。
(2005/05/06(Fri) 22:58:05)
かおる > 皆様からお返事をいただいておりましたのに、旅行に行っておりましたので、
(2005/05/08(Sun) 10:52:46)
かおる > 蒼空様をはじめ、出沼様、ctuukichi様、カンタニャク様、情報をありがとうございました。
皆様のご協力に本当に感謝しております。何とお礼を言ったらよいのか分からないくらいです。
出沼様、早速教えていただいたアドレスのページを見てみました。こちら可能性がありますね。
ありがとうございました。さて、「インドシナパクニ2」という場所は、叔父の亡くなった場所と
されているところです。叔父は沖縄出身ですので、沖縄の平和記念館のある資料によると、
そこが叔父の死亡場所となっていました。叔父は21歳で戦死しておりますので、妻子もなく、
兄弟も高齢のため亡くなっており、叔父のことを知ることがほとんどできない状態です。
平和記念館内の資料によりますと、叔父の死亡した日は昭和20年5月20日となっていますので、
chuukichi様が教えてくださったことも十分考えられます。それから、カンタニャク様、平和資料館内
に平和の礎に刻名されている方の刻銘板の位置を検索できるパソコンがあります。
そこに刻銘版の位置と、その人の生年月日、死亡日、死亡場所が表示されます。
「インドシナパクニ2」という場所はそのデータで知りました。現在、沖縄県の担当係に死亡場所は
何を基としたものかお尋ねしていますが、まだ回答はいただいておりません。
また、叔父は陸軍であったようです。なにしろ、現在生きている者で叔父を知っているものは当時
4,5歳だったので確実とは言えませんが。
参考になるかはわかりませんが、叔父の父は近衛師団にいたと聞いています。たくさんの方が
そうだとは思いますが、叔父も遺骨は戻ってきておりませんし、妻子もなかった叔父が忘れられて
しまうのが、とても心に痛く、今、懸命に調べている次第です。 (2005/05/08(Sun) 11:38:30)
カンタニャック > かおる様 「叔父様は昭和20年5月21日に「インドシナパクニ」で戦死(21歳)
おそらく陸軍所属。叔父様の父上は近衛師団にいたと聞いている。」ということでよろしいでしょうか。
追加質問をお許し下さい。
1)「インドシナパクニ」「インドシナパクニ2」いずれが正しいのでしょうか?
2)叔父様の戸籍は沖縄にあったのでしょうか?(お祖父様の戸籍が戦争中どこにあったかが
わかれば、養子にいかれたなどの例外的な場合を除き同じ戸籍の筈です。)
(戦前の日本の徴兵制度では、二十歳(1944年からは一九歳)になった若者は、各人の戸籍の
ある地域で徴兵検査を受け、徴兵される場合はその地域の部隊に配属されるのが原則です。
沖縄の場合は複雑ですが、九州(熊本など)の部隊に配属された可能性が高いでしょう。 )
いままでの情報から考えますと、叔父様は、一九四四年に二十歳(ないし十九歳)で徴兵検査に
合格。徴兵により現役兵としておそらく九州のいずれかの部隊に配属。南方に派遣され
「インドシナパクニ」で戦死。という可能性が高そうです。ただし、叔父様が志願兵だった場合、
本籍が沖縄にない場合、海軍だった場合などは違ってきます。あくまでも、比較的可能性が
高そうな憶測 と考えて下さい。
また、叔父様の戸籍のあった市町村がわかれば、その町役場に問い合わせる、あるいはその町
の町史を調べるなどの方法によってもなんらかの資料が得られるかもしれません。
(沖縄の場合、戦火で多くの資料が失われていますので、空振りに終わる可能性もありますが。)
叔父様とは直接関係があるわけではありませんが、読谷村史
http://www.yomitan.jp/sonsi/index.htm で、 五巻 資料編4「戦時記録」上巻 に進み 第二章
第三節 4戦争と軍人・軍属概説 体験記 に進むと、沖縄県読谷村出身で南方戦線で戦われた
方々の体験がつづられています。
文末で失礼いたしますが、叔父様のご冥福をお祈りさせて頂きます。 (2005/05/08(Sun) 21:58:36)
かおる > 本日、叔父の戸籍を入手できました。そこには、なんと「インドシナバクニン」と記載され
ていました。平和の礎で見たデータには確かに、「インドシナパクニ2」とありました。プリントアウト
しましたので手元にありますが、見直してみてもやはり「インドシナパクニ2」と書いてあります。
平和の礎の担当の方が「パクニン」を読み誤って「パクニ2」としてしまったのではないかと思います。
インドシナバクニンでしたら、ベトナムのようですね。本当にお騒がせしました。在りもしない地名を
皆さんに探してもらっていたとは、申し訳ありませんでした。叔父の亡くなった場所がバクニンなら、
chuukichi様から教えていただいた第37師団にいたのかもしれませんね。カンタニャック様、前回
の私の発言中、カンタニャック様のお名前を間違えており、大変失礼いたしました。
当時の徴兵制度を全く知らない私にとっては、カンタニャック様のお話はとても勉強になりました。
このようなことを教えていただけるなんて、そうそうないことです。本来ならば、自分で調べるところ
を楽をして? 教えていただいて、感謝しております。叔父の戸籍は沖縄県です。
当時4、5歳だった親族に聞くと、19歳で徴兵されたと言っておりました。その反面、眉つばもの
ですが、叔父の父が近衛師団にいた関係で、かなり後になって徴兵されたとも言っています。
なにしろ、子供のころの記憶なのであやしいことはあやしいのですが・・・ 紆余曲折しましたが、
叔父の死亡場所が分かりましたので、これをもとにカンタニャック様に教えていただいたように、
那覇市役所等で調べてみたら、もっと詳しいことが分かるかもしれませんね。
私の個人的な質問ですが、カンタニャック様は当時兵隊に行かれた方なのですか?
あまりにも詳しいのでそうなのかなと思ったのですが。嫌な質問でしたら、無視してくださって
けっこうです。 (2005/05/09(Mon) 20:31:01)
カンタニャック > かおる様 パクニンですと、ハノイの郊外(北方)のバクニン市(あるいは
バクニン市を含むバクニン省)で間違いないでしょう。1945年、バクニンはchuukichiさんの
おっっしゃるように久留米で編成された37師団の管轄下にありましたから、叔父様は第37師団
に配属された可能性が高いと思います。1945年春まで仏印(フランス領インドシナ・現在の
ベトナム・ラオス・カンボジア)はフランス植民地政府が存続し日本軍はフランス植民地政府との
協定によって駐留するという形を取っていました。しかし44年後半にフランス本国がドイツの
占領から解放されると、仏印のフランス植民地政府も日本と距離を置こうとするようになってきた
ため、1945年3月に日本軍は「明作戦」を発動し仏印政府を解体しました(仏印武力処理)。
仏印武力処理の過程ではあまり大規模な戦闘はなかったと思うのですが、おそらく叔父様は
仏印武力処理後の何らかの戦闘で亡くなられたのだと思います。
私は戦後生まれの一介の法律教関係の教師です。戦前戦中については蒼空さんの方が
おくわしいとは思ったのですが、一応質問したり説明したりすることにつきましてはプロです
ので、なくなられた叔父様がご遺族の心の中で生きていくことの一助になればと思い、
出しゃばらせていただきました。 (2005/05/10(Tue) 03:07:49)
蒼空 > 情報をくださいました皆様に感謝致します。今後とも宜しくお願い致します。
(2005/05/10(Tue) 06:35:32)
[469] お久しぶりです、ご無沙汰しました。
投稿者:長崎-武蔵
投稿日:2005/05/03(Tue) 23:42:26 お元気な様子、何よりです。
地震大変でしたでしょう。福岡方面これまで発生してなく
驚きました。 長崎も深度3ほどだったようです。
甘木市のゼロ戦見たいものです。又、TV出演の件
放送日はいつですか、教えてください。
ぜひ、見たいものです。
蒼空 > MEGA Television はギリシャのテレビ局です。こちらでは見られません。
DVDでも寄越すかと思ったのですが、未だ何の挨拶もありません。
こちらは震源地に近いので地震は大変です。 (2005/05/04(Wed) 09:13:10)
[470] お邪魔いたします!
投稿者:燕
投稿日:2005/05/07(Sat) 15:22:03 福岡市在住の燕と申します。宜しくお願い申し上げます!
軍国少年さんのブログから参りました。素晴らしいHPで心から賛意を
称したいと思います。
さて、私が物凄く感動したフラッシュをご紹介いたします。
既出だったらすみません。
これを見て何とも思わない輩は日本人にあらず、と断言します。
http://nandakorea.sakura.ne.jp/media/sinjituwadokoni.swf
蒼空 > ご来訪ありがとうございます。陣中談議・うら話の「特攻の原点」を
ご一読ください。 (2005/05/07(Sat) 16:43:32)
[471] 感動しました!!
投稿者:長崎-武蔵
投稿日:2005/05/08(Sun) 00:30:02 燕さんのFLASHみました。
フィッリピンには何度もいきましたし、一緒に仕事もしました。
宴会では、日本語で--見よ、東海の空明けて--と上手に
歌ってくれました。
日米の戦争で大きな被害も受けてますし、中には無論
良い記憶でない方もいましょうが、大多数は私たちに好意的でした。
マバラカット(セブ島)には、彼らによる--特攻の記念碑もあります。
今の多くの日本人よりも、彼らのほうがよほど--サムライ精神を
持ってるでしょう。
蒼空 > 「国破れても国滅びず」もご観賞ください。
http://www.ch-sakura.jp/asx/tokko.asx
[472] >長崎−武蔵様
投稿者:燕
投稿日:2005/05/08(Sun) 11:27:40 あのFLASHでのフィリピンの方の言葉でお爺さんは救われたのだろうと思いますが、
同時にそれは重大な問題を孕んでいるな、とも思いました。
恐らくあのお爺さんは、戦後も「言論の自由」がなく、フィリピン訪問も堂々とやってきた
訳ではないように思ったのです。
大東亜戦争に出征した方々が「戦争の悲劇を語る」という論点でのみ、戦後「言論の自由」
が認められていたような風潮の問題点と申しますか、フィリピンの方の方が事の本質を
見抜き、「自虐史観」に染まった日本人に忠告すらしてくれている様というのは、
日本人としてあまりに情け過ぎるのではないか、ということです。
今朝、サンデープロジェクトで加藤紘一が反日デモは靖国が云々とか言っていましたが、
台湾の旧同胞、蔡敏三氏も著書『帰らざる日本人』の中でこのように述べています。
「私は知覧にも行ったことがあります。ここから千人以上の若者が飛び立って行ったのだと
思うと、心打たれます。特攻に行く方達が残した言葉や遺書などを読むと、やはり涙なし
には読めません。こういう人達をおろそかにして日本の発展はないですよ。
当時の状況では、国の為に死ぬのは当たり前だったのです。その人達は皆、
靖国神社に祀ってもらえる、靖国神社で会おう、といって散っていったのです。
ですから、国の長である首相が靖国神社に参拝できないなどというのは、ひどい話です。
参ってはいけないなどという中国と韓国のあんな無理を聞くなど、とんでもない話です」
悪い冗談みたいですね・・・・
[473] >蒼空様
投稿者:燕
投稿日:2005/05/08(Sun) 12:14:48 私は知覧に一度行った位で、無知蒙昧の輩ですので、各項目を熟読させていただきたく
存じます。他国民も巻き込みましたし、戦争に至る過程や甚大な被害に対しては反省と
検証をせねばならないと思いますが、それは「正義の連合国に悪の日本が挑んだから
敗けたのだ」といった東京裁判史観とは全く異なるものです。
教科書問題というのは、「帝国主義という当時の世界の趨勢の中で、日本がどういう位置
におかれ、どう動いたか」という本質的な視点が欠落しているから生じる問題だと思います。
朝鮮戦争を経験したマッカーサーが「大東亜戦争は自衛戦争であった」と認識を改めた
ことや、インドのパル判事のことは書かれているのか?
「肉ばかりでなく、魚も食べさせてこそ栄養のバランスが保たれる」というのと全く同じこ
とだと思うのです。精神面における「武装解除」こそがアメリカの真の狙いだったのは異論
のないところでしょう。
彼らが恐れたのは「神風特別攻撃隊」の精神の復活です。原爆は作れても、その精神は
決して真似できないと思ったのでしょうね。
私は33歳ですが、英霊への思いを一言で言うなら「感謝」です。戦争という行為は否定
されたとしても、その大儀に殉じた先人達の純粋な思いを否定するのは天に唾するに
等しいと思います。
パル判事が「ハル・ノートなどを突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国
だって矛を取って立ち上がる」と言ったように、間違いなく日本に大儀はあった。
今の日本があるのは誰のお陰であるか?復員された先人達も、敗戦国の汚名に耐え、
巨額の戦後賠償を払い、焦土と化した国土を再興してきたのです。 そして、
東京大空襲の焼け野原から19年目にして、幻と消えた東京五輪が開催されました。
零戦の技術は時速210キロで走る前代未聞の弾丸列車、新幹線へと引き継がれました。
東京五輪では、前回のローマ大会と期を同じくして独立を果たしたアフリカ諸国が新たに
加わりました。戦後独立を果たしたアジア諸国にアフリカ諸国が加わり、史上最多の
参加国を誇った東京大会、それは、「欧米列強からの大東亜解放」という大儀が具現化
した瞬間ではなかったでしょうか。
蒼空 > 燕さん 私は新宮町です。メールください。一緒に飲みましょう。
senri@dn.nyanchu.net (2005/05/08(Sun) 14:27:36)
[476] 60年目
投稿者:酒匂智彦
投稿日:2005/05/11(Wed) 07:31:14 本日、5月11日は931航空隊251飛行攻撃隊、菊水雷桜隊の出撃から60年目です。
彼らの偉業に感謝し、称え、後々まで伝えていきたいと思います。沖縄の方に向かい、
合掌しました。朝から涙が止まりません。隊員の皆様のご冥福を祈ります。 酒匂智彦
蒼空 > 酒匂様 ありがとうございます。この部隊で戦死した、坪川・山岡・小野・桑野・小林
・石橋・大武一飛曹は私の同期生です。 (2005/05/11(Wed) 15:57:16)
[477] Untitled
投稿者:紗知
投稿日:2005/05/13(Fri) 01:19:46 蒼空様こんにちは。お久しぶりです。
GWは、鹿児島の知覧の特攻平和会館・鹿屋の資料館を回りました。
最後の特攻隊員大木正夫の航跡辿りも1年が経ち、あちこち取材しておりましたが、
最近、反対に私が新聞社からの取材受け、土曜の読売新聞に掲載させて頂く運びと
なりました。きちんと伝えたいことを述べたつもりですが、私も内容を見ておりま
せんので土曜が気がかりです。
大木の航跡辿りはこのHPからはじまりました。例えどんなかたちであれ、特攻隊員ら、
また多くの戦没者達は国家国権の維持のため、愛する家族を想い命を捧げた。
そんな彼ら一人一人の意志を無視しないで欲しい。という私なりの想いを伝えたつもり
です。今月の戦後60年企画は特攻についてで、13日金曜からの3日間連載です。
蒼空 > 貴方の想いが通じたのですね。当日の新聞、私も読ませて頂きます。
(2005/05/13(Fri) 13:12:12)
蒼空 > 読売新聞の記事を、近況紹介の欄に掲載致しました。
(2005/05/16(Mon) 09:24:01)
蒼空 > 大分基地跡の祈念碑を追録しました。大木上飛曹の氏名が刻まれています。
(2005/05/17(Tue) 14:55:46)
紗知 > 記念碑、新聞の掲載有難うございます。この1年間、たくさんの方の協力無しには
成し得なかった事です。皆様との巡り合わせに感謝するとともに、見えない糸で導いてくだ
さった大木やたくさんの戦没者の方々に感謝致しております。 (2005/05/22(Sun) 15:52:11)
[479] >長崎−武蔵様
投稿者:燕
投稿日:2005/05/14(Sat) 15:08:47 何か思いつくままに書いて恐縮ですが、「東京五輪史観」というのもいいかな、と思い
ました。自民党はまだあれですが、民主党何て「妄言」を吐きまくって目も当てられない
状態ですよね。首相の靖国参拝は当然のことですが、戦後60年も経ったのだから、
米国の大統領は広島・長崎を詣でて欲しいなと個人的には思っています。「謝罪しろ」
とか卵投げつけたる、というつもりではなく、犠牲者への哀悼の意を表して欲しいな、と。
私はクラシック音楽が好き何ですが、米のオーケストラの来日公演でも広島や長崎には
寄らないんですよね。何か引け目があるのでしょうか? 因みにオランダのオーケストラ
は長崎に必ず寄りますね。団員に言わせると、鎖国の時代から交流があったところで、
オランダ人も大変親しみを感じているし、誇りに思っているそうで。
最近はロシアの対独戦勝60周年の式典にカチンと来ているのですが、私と同様の感慨
を抱いている人も多いようです。
http://blog.goo.ne.jp/tsubamerailstar/
[480] 【日経】救われた島へ慰霊の旅 不時着の元特攻隊員、式典に
投稿者:燕
投稿日:2005/05/14(Sat) 15:15:15 鹿児島・黒島「散った戦友が平和くれた」
本日の日経九州版の社会面に、元海軍少佐の江名武彦さん(81)が鹿児島の黒島を
訪問された記事が載っていました。
江名さんは、自ら出資して島に平和観音像を建立されているそうですね。
蒼空 > 江名氏は戦没隊員のご遺族と相談して、出撃した串良基地跡にも祈念碑を計画
しています。正気隊の写真は百里原航空隊6−5に掲載しています。 (2005/05/14(Sat) 17:02:01)
燕 > 柴田信也陸軍少尉のご長男の「島の皆さんにお礼が言えた」というコメントを感慨深く
読みました。>蒼空様 (2005/05/14(Sat) 18:14:40)
[482] 例の件
投稿者:土屋二飛曹
投稿日:2005/05/16(Mon) 22:21:03 一応お伝えはしましたが、よろしければ、疑問の箇所をお教えいただけませんでしょうか。
先方は私が疑問の詳細を知っていると思っていらっしゃるもので。
蒼空 > メールを送付しました。 (2005/05/17(Tue) 11:23:31)
[484] 初めまして
投稿者:義烈
投稿日:2005/05/24(Tue) 21:54:18 とても工夫されたホームページで、興味深く拝見させて頂きました。
今の私たちに出来る事は、あの戦争を忘れることなく後世に伝えて行く事だと思います。
これからも、このホームページの発展を楽しみに拝見させて頂きます。
蒼空 > ご来訪ありがとうございます。今後とも宜しくお願い致します。
(2005/05/25(Wed) 06:04:38)
[485] お返事ありがとう御座います
投稿者:義烈
投稿日:2005/05/25(Wed) 21:20:24 当然ですが、「義烈空挺隊」の事について、ご存じでしたら教えて頂けないでしょうか。
蒼空 > yahooの検索をお勧めします。
http://www.yahoo.co.jp/ (2005/05/25(Wed) 22:03:24)
[486] 蒼空さんへ
投稿者:義烈
投稿日:2005/05/25(Wed) 23:12:01 ありがとう御座います。私なりに調べていきます。
私は、戦後生まれで活字や画面でしか戦争の事を知りません。
そんな私が「特攻隊」の事について調べたいと思ったのは、私自身の弱い心を「特攻作戦」
で散華された方々の「鉄の意志」のように「私も強い心に変わりたい」と言う気持ちで始め
ました。
しかし私なりに今「特攻隊」に対する思いは変わってきました。
「戦争」「特攻作戦」に参加された方々も今の私達と変わらない気持ちだったと私は感じ、
ある意味安心しました。「鉄の意志」と思っていた方達も、人間らしい優しい気持ち、弱い
気持ち、を持ち合わせた方々なんだと。その時の時代により、そう成らざるを得なかったと
思いました。
特に、昭和19年10月25日第1神風特別攻撃隊隊長 関行男大尉が報道記者に語った
言葉が印象に残っています。蒼空さんはどうお考えでしょうか。
蒼空 > ご免なさい。私の資料では、関大尉が報道記者と会見した記録が見付かりません。
(2005/05/26(Thu) 10:18:15)
[488] はじめまして
投稿者:旭光
投稿日:2005/05/28(Sat) 11:30:10 たいへん興味深く拝見いたしました。
私は昭和40年代生まれですので、戦争当時を知る由もありませんが、蒼空様が休日に
外出されたという浜松で育ちました。
浜松は、被弾したりエンジンが不調になったりしたB29が、爆弾を投棄する場所だった
と聞きました。もちろん浜松を標的にした空襲もありましたし、艦砲射撃にもやられました
ので、子供の頃は、「不発弾発見」のニュースがしばしばありました。ご承知の通り、
今も空自基地がありますので、飛行機は身近な存在だったのですが、「大井海軍航空隊」
の存在を知りませんでした。見出しで『大井』の字を見たときに、東京の大井町にも基地が
あったのか、と思ったほどです。
東京で長く暮らしており、静岡県に帰ることもあまり無いのですが、いつか大井基地跡を
訪ねてみようと思います。長文失礼いたしました。
蒼空 > 大井・静岡・浜松、懐かしい場所です。私の青春の思い出が詰っています。
(2005/05/28(Sat) 18:48:58)
[490] 伯父の最後を知りたい
投稿者:本田宏淵
投稿日:2005/05/31(Tue) 01:02:41 私は昭和20年9月生まれ、終戦直後に生まれました。
伯父の最後の場面を知りたくて投稿しました。母の実弟で、海軍上等飛行兵曹、偵察(特通)
木村吉宏(滋賀県出身)は乙種第16期生で、昭和19年10月26日比島方面海戦ニテ戦死
(当時21歳)と役場よりの戦死通報のみの報告となっております。
一式陸攻機に搭乗していたときいています。
決戦を前にした、同僚の寄せ書き、遺書、荒鷲のメダル等、両親を若くして亡くし、唯一の
嫡男であったにもかかわらず、皇国のために奉じました。
姉である母は生前、元気で勇敢であった弟の話をよくしてくれました。母は亡き後、60歳前
になって、伯父の遺品を詳しく点検して多くの若き仲間が南方に散った現実を考える時、
今の日本の国家のあり方に義憤の毎日でございます。
このサイトで神風特攻隊の戦没者名簿があることを知り、伯父の名前があるのではと、
探しましたが載っておりません。仲間の皆さんで生存しておられる方はもう少ないと思い
ますが、どなたかご存知の方がおられたら、ご連絡お待ちしております。
よろしくお願いいたします。
蒼空 > 当時一式陸攻での特攻はありませんでした。16期の同期生をメールで紹介します。
(2005/05/31(Tue) 06:40:12)
本田宏淵 > メールありがとうございました。早速ご連絡しお聞きしました。残念ながら面識は
ありませんでしたが、いろいろとお話いただき参考になりました。
(2005/06/01(Wed) 01:03:31)
蒼空 > 次のサイト投稿することをお勧めします。
http://www.warbirds.jp/ansqn/ (2005/06/01(Wed) 13:46:30)