特攻くずれ自衛隊に入る
自衛隊がつくられたころ
有限会社 海鳥社 1995年11月10日発行
福岡市中央区大手門3丁目6番13号
電 話 092(771)0132
はじめに
平成三年十二月八日、「神風は吹かず」を出版した。内容は、帝国海軍時代の戦争体験
である。自衛隊在職当時、戦争中の資料を折にふれて収集整理すると共に、海軍甲種飛行
予科練習生の同期の集いである、甲飛十二期会や第三十七期百里会などの各種会合に参加
して、旧友との歓談を通じて得た事例などを一冊の本に纏めたものである。
巻末に全戦没同期生の戦没時の事績を収録した。これは、ご遺族の方々が戦没者の最期
の状況などを知りたいと願って、慰霊祭や同期生会に参加しながら、その希望がなかなか
適えられない事情を知り、少しでもお役に立てばと願ったからである。
厚生省援護局や防衛研究所及び各基地の資料館などに保管されていた資料、それに、生
存同期生から見聞した戦没者の消息を確認すると共に、神風特別攻撃隊に関する告示など
を調査して、戦没時の状況を解明したものである。
また、戦没月日順に整理することで、甲飛十二期生の辿った道を俯瞰する事ができる。
即ち、いつどこの部隊で訓練を受け、いつどこの基地でどのような戦闘に参加し、いつい
かなる状況で大空の彼方へ消え去ったのか。
平成四年八月、靖国神社で実施した戦没同期生の慰霊祭で、ご遺族や関係者に配布する
ことで宿願を果たすことができた。その後、新たに入手した資料による内容の充実と、校
正ミスによる誤りの是正、戦没者名簿の補正などを行い、平成六年九月、「かえらざる翼」
を出版した。
またこれと並行して書きためていた、戦後の自分史の原稿を「かえらざる翼」の一部と
して出版する予定であったが、諸般の事情で分離し「特攻くずれ自衛隊に入る」と題して
出版することにした。
これは、発足と同時に入隊した航空自衛隊における体験談である。憲法違反と言われな
がらも着実に成長した自衛隊は、曲がりなりに四十周年を迎えた。発足当時のアメリカ軍
との共同勤務での失敗談。一本立ちするまでの苦難な体験。外部からは想像もできない内
輪話等々、部内から見た色々な物語りを発表するのも意義があると思う。
またこの原稿は、朝雲新聞社の月刊誌「MONTHLY ASAGUMO」で平成六年
十月号から「空はわが友」の題で連載していただいたものである。ただ、原稿を書いた時
期と出版までに相当な時間的ずれが生じたため、内容に一部不満が残るが、それぞれの時
代の思い出としてそのまま出版することにした。
あとがき
航空自衛隊を停年退職してすでに十数年が経過した。その間、年一回行われる“つばさ
会”の支部総会など、限られた交流以外には自衛隊とも疎遠になった。だから、現在の編
制や装備などほとんど知らないのが実情である。恐らく編制も機能化され、装備の近代化
も一段と進んでいると推察する。だが、隊員の思考や生活などは、あまり変化していない
のではなかろうか。
在隊当時を思い浮かべ、暇をみて戦後の自分史を纏めたのが本書である。「かえらざる
翼」の続編として出版を模索していたところ、巻頭でも述べたとおり、原稿未完のまま朝
雲新聞社の月刊誌「MONTHLY ASAGUMO」に「空はわが友」の題で連載して
いただいた。さらに、航空自衛隊の機関紙である「会計要報」にも掲載していただくこと
になっている。
これらの総仕上げとして「かえらざる翼」の出版元である「海鳥社」から、今回単行本
として出版していただくことになった。挿絵については、潮書房や朝雲新聞社その他の関
係紙上でおなじみの九州漫画協会々員である柏木康武君から、全面的なご協力をいただき、
厚く御礼申し上げる次第である。
また、昨年出版した、「かえらざる翼」が「集英社」の目にとまり、若者向けに衣替え
され「蒼空の果て…」の題で、北条司氏の絵によって「週刊少年ジャンプ」に連載された。
戦争中、神風特別攻撃隊員として修羅場を経験した身には、戦後五十年の平和な生活は夢
のようである。しかし、この平和が永久に続く保障はない。戦争を知らない世代に、 いさ
さかなりと啓発ができれば幸いである。
最後に、「大東亜戦争」の呼称について説明したい。この名称は、昭和十六年十二月十
二日閣議により決定され、次のように発表された。
閣議決定 昭和十六年十二月十二日
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時間等ニ付テ
一、今次ノ対英米戦争及ビ今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルベキ戦争ハ、支那事
変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等に関スル、平時戦時ノ分界時期ハ、昭和十六年十二月八日午前
一時三十分トス (以下省略)
関係法律としては、昭和十七年二月十七日、法律第九号で、
「勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為シタル場合ヲ除クノ外、各法律中支那事変ヲ『大東亜戦争』ニ
改ム」と定められて、一般にも定着した。
昭和二十年九月二十日、「ポッダム宣言」受諾により連合国軍の管理下に置かれた日本
政府は占領下の特別処置として、 次の勅令を公布した。
ポッダム宣言の受諾に伴い発する命令の件(昭和二十年勅令第五四二号)。
「ポッダム宣言」の受諾に伴い、連合国最高司令官の為す要求に係わる事項を実施するた
め、特に必要ある場合においては、命令をもって所要の定めを為し、及び必要な罰則を設
けることを得。
これを基に、同年十二月十五日、連合国軍総司令部参謀副官発第三号。終戦連絡中央事
務局経由日本政府に対する覚書の中で、
「公文書ニ於テ『大東亜戦争』『八紘一宇』ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ、日本語ト
シテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザルモノハ之
ヲ禁止スル、而シテカカル用語ノ即刻停止ヲ命令スル」。
との命令がだされ、「大東亜戦争」の呼称は公文書などからは姿を消すことになった。
昭和二十七年四月十一日、講和条約成立に伴い、政府は法律第八一号によって、前記の
勅令第五四二号を廃止した。これによって、占領軍の命令指示はその効力を失い、占領時
代の制限は消滅した。
国内法としては、昭和十六年十二月十二日に閣議決定された「大東亜戦争」の呼称は、
それ以降これを改廃する決定はなされていない。だから、法律上は正式名称として復活し
たとみるのが妥当である。かりに、名称の改廃が行われたとしても、わが国が過去に「大
東亜戦争」を戦かったことは、歴史的事実であり、この事実まで抹殺することは不可能で
ある。
「大東亜戦争」の戦域は中国大陸からビルマに及び、さらに遠くインド洋に達した。し
かし、当時の説明では「『大東亜戦争』トハ大東亜新秩序建設ノ為ノ軍事行動ノ総称ナリ」
として、これを「目的」としてとらえ、必ずしも地域を示す用語ではなかった。
第二次世界大戦は、アメリカの「太平洋戦争」やソ連の「大祖国戦争」のように、それ
ぞれの国で呼称が異なり、世界的に共通した呼び名はない。現在わが国で使われている、
「太平洋戦争」も国際的な呼称ではない。アメリカ合衆国の公刊戦史などに「The War in
the Pacific」と、使われているが、これは、アメリカ合衆国からみてヨーロッパ戦域に
対する、太平洋戦域との意味である。
結末は敗戦に終わったとは言っても、自ら命名した「大東亜戦争」を使用せず、「太平
洋戦争」などと、借り物で呼称するのは改めるべきではないだろうか。
昭和に生まれ、昭和に育ち、激動の昭和を生き抜いた記録を、昭和七十年の節目にあた
り、出版できることは望外の喜びである。いささかなりと、読者諸兄の脳裏に止めていた
だければ幸いである。
昭和七十年五月吉日
「特攻くずれ自衛隊に入る」あとがきより