白菊特攻隊
還らざる若鷲たちへの鎮魂譜
株式会社 光人社 1997年8月31日発行
東京都千代田区九段北1−9−11
電 話 03(3265)1864
昭和の初期に生まれ、満州事変、 支那事変そして大東亜戦争と、戦乱の昭和を生きてき
た私には、戦争を抜きにして自分の人生を語ることはできない。若くして、 海軍甲種飛行
予科練習生を志願して、大空に散華された私たちの同期生は、 純粋に国家の安寧と国民の
繁栄を願って、己の青春を祖国防衛の礎として捧げたのである。
当時のわれわれには、一片の私心もなかった。すべてを犠牲にして、皇国の伝統を護り
肉親の安寧を願って、国難に殉じようとしたのである。幸いにも私は、命永らえて終戦を
迎えることができた。
だがあの当時、国民から畏敬の念をもって迎えられていた「神風特別攻撃隊」も、終戦
後は、単なる無駄死としか評価されなくなってしまったのである。そして、若くして大空
の果てに消え去った英霊に対して、何ら報いることのできない世の中にと、 変わり果てた
のである。
戦後、慰霊祭などでご遺族とお話しする機会がある。ご遺族に示された「戦死公報」は
あまりにも形式的、抽象的なものが多い。原因は、戦争末期に採用された、「空地分離」
と呼ばれる編制によるものと思われる。飛行機と搭乗員のみが基地を移動するこの方式は、
作戦運用のみに重点が置かれ、人事管理が粗雑になったと思われるからである。
派遣した部隊と受け入れた部隊双方の混乱から、戦死した時点での所属さえも、資料に
よって異なる事例もあった。だが、ご遺族の方々にすれば、いつ、どこから、どんな飛行
機に乗って出撃し、どこで戦死したのか、具体的な状況を知りたいのは人情であろう。
戦没者の最後の状況を解明し、その功績を顕彰することは、生き残ったわれわれの勤め
であると思う。しかし、当時の航空戦の実情から、これらを解明することは非常に困難な
ことであった。いささか時期を逸した感じであるが、戦没同期生、二百二十三柱(内特別
攻撃隊の戦死者六十一柱)の事績をほぼ解明することができた。だが、紙数の関係で全員
の事績が収録できないのを残念に思っている。
この度、戦争を知らない若い世代の方々に、いささかでも、戦争の実態とその悲惨さを
理解していただきたいと願って、 筆をとった次第である。用語など分かりやすくするとと
もに、解説などを挿入するように心掛けた。
しかし、言うは易くして行うは難し。出版を思い立ってから年月ばかり経過し、当初予
定していた戦後五十年には間に合わなかった。だが、ようやく日の目をみる運びとなった。
いささかなりと、戦没同期生の慰霊顕彰に役立てれば幸いである。
一九九七年七月
白菊特攻隊 あとがき より
こころあてに 折らばや 折らむ 初霜の
おきまどわせる 白菊の花