♪故郷♪
甲飛12期の事績

        

   老兵の回想

 私は昭和二年二月、福岡県田川郡方城村で兄二人姉三人の末っ子として生まれました。 方城村は田川郡の北西部に位置し、 標高九百メートル余の福知山の南斜面に開かれた農業 が主体の山村です。農業といっても肥沃な田圃などはありません。生産性に乏しい山間の 段々畑の耕作と山林の植林と伐採、それに山菜などの採取に頼る貧しい生活でした。  だから、幼いころから家業の手伝いをするのは当たり前のことでした。農繁期になると 「田植え休み」と云って、小学校が数日間休校になります。高学年の児童は一人前の働き 手として田植えの手伝いを行い、手伝いのできない低学年の児童は、幼い弟妹の子守など が役割りでした。これが昭和の初期における不況時代の農村の実態です。  一、北にそびゆる 福智山  南にながるる 英彦の川    田園広く 見下ろして  輝きたてる 我が校よ                                 二、自然の土に はぐくまれ 清き心と くろがねの    強き腕を 誇りつつ   学びの道を 踏み行かん  三、正直 努力 親愛の   尊き教えを 範として    良き里人と 我ならん  良き国民と 我ならん                               これは、私の学んだ辨城尋常小学校の校歌です。当時在職されていた、加来絢子先生が 作詞作曲されたものと聞いています。 私の育った辨城と呼ぶ集落は、「上野焼」で有名な上野村(現在福智町)に隣接してい ました。子供の頃は、古くからの窯元である熊谷窯や高鶴窯などによく遊びに行きました。 そして、唐臼(とううす)で土を砕く様子や、仕事場では轆轤(ろくろ)を足で回しながら、 茶碗やお皿などを作っている有り様を興味深く眺めていたものです。  また、延元・建武時代の武将、足利尊氏にゆかりのある「興国寺」には、毎年四月八日 の「お花祭り」に、甘茶を戴きにまいりました。夏になると上野峡の「白糸の滝」に遊ん だり、「福智山」にも再三登って、その雄大な眺めを楽しんだものです。

     飛行兵志願

 山深い田舎で平穏な子供時代を過ごした私は、小学校を卒業して中等学校へ進みました。 現在では想像もできないことですが、当時の田舎では中等学校への進学率は二割程度でし た。 農家の三男坊には分けてやるだけの田畑はありません。だから、将来のため少しでも 学問をさせてやりたいという親心からでした。学校は遠いので汽車通学をしていました。 最寄りの駅まで三・八キロの坂道を歩いて往復する日々が続きました。そして、国際情勢 や国家の将来を敏感に感じとる年齢へと成長していったのです。  当時の世相に目を向けますと、国家の存亡にかかわるような重大な事件が次々に起こり、 激変の時は刻々と迫りつつあったのです。               昭和 六年九月  満州事変勃発。   昭和 七年一月  上海事変勃発。   同年   三月  「満州国」建国を宣言。   昭和 八年三月  日本政府、国際連盟脱退を通告。(四月・小学校入学)   昭和十一年二月  2・26事件発生。      (小学校・三年)   同年  十一月  日独防共協定調印。      (小学校・四年)   昭和十二年七月  支那事変発生。        (小学校・五年)   昭和十三年四月  国家総動員法公布。      (小学校・六年)   昭和十四年五月  ノモンハン事件発生。     (旧中学・一年)   昭和十五年三月  新中国政府(中央政府)樹立。 (旧中学・一年)   昭和十六年四月  日ソ中立条約調印。      (旧中学・三年)     同年   四月  日米交渉開始。   同年   七月  米政府、在米日本資産を凍結。   同年   八月  米政府、対日石油輸出を全面禁止。   同年  十一月  米政府、「ハルノート」を提示。   同年  十二月  大東亞戦争勃発。       (旧中学・三年)  私は開戦当時、田川商工学校商業科の三学年に在学していました。旧制中学校は五年制 です。だから、卒業後の進学や就職など将来の進路については、まだそれほどの深い関心 はありませんでした。それでも、同級生の中には「日本郵船」や「大阪商船」などの船員 (パーサー)になって、外国へ行くと言う者や、「満鉄」や「華北交通」など、大陸に雄飛 する夢を語る者もいました。  ところが、戦争が始まってからは、海軍の甲種飛行予科練習生や陸軍の少年航空兵など、 大空に対する関心が高まり始めました。私の郷里からは、 香月一利氏が甲種飛行予科練習 生の第一期生として入隊していました。氏の弟が私と同級生であった関係で、当時一等航 空兵曹に進級し第一線で活躍していた氏の様子はいろいろと聞かされていました。  氏は航空母艦「隼鷹」の艦上爆撃機の偵察員として南太平洋海戦に参加しました。昭和 十七年十月二十六日、母艦を発進して敵空母エンタープライズを爆撃後、敵戦闘機と交戦 して壮烈なる機上戦死を遂げられたのです。操縦員中岫正彦飛行兵曹長は破壊された機を 操り、必死の帰還を試みましたがついに適わず、海上に不時着して駆逐艦「浦風」に収容 されました。

鈴鹿空教員当時の、香月一利一等航空兵曹。
  *  私は、昭和十七年度前期の甲種飛行予科練習生に志願を試みましたが、入隊時満十六歳 以上との年齢制限により、受験することができませんでした。昭和十七年十月、十七年度 後期の甲種飛行予科練習生の募集が海軍省から告示されました。当時甲種飛行予科練習生 は一年に前期と後期の二回募集が行われていました。ミッドウエー海戦や、ソロモン群島 方面での航空戦で、虎の子の飛行機搭乗員を大量に喪失した海軍は、これを急速に充足す る必要に迫られました。  そこで訓練期間が短くてすむ、甲種飛行予科練習生の増員を計画したのです。第十期生 千百名、第十一期生千二百名に対して三倍に近い、三千二百余名を採用したのです。その ため、年齢制限を一歳切り下げて入隊時満十五歳としました。そして、服装もジョンベラ (水兵服)から海軍兵学校に準じた「七つ釦」の新しい形の制服に改めて、志願者の拡大 を図ったのです。募集告示をみて早速志願の手続きをしました。    第一次の身体検査と学科試験は、昭和十八年一月六・七日の両日全国一斉に実施されま した。試験科目は、国語漢文・数学・英語・地理歴史・物理化学の五科目でした。福岡県 では福岡市以外に、小倉市と久留米市でも実施されました。私は、小倉市で受験すること になり、前日から八幡市の親戚に泊まり込んで試験場に通いました。  次に、第一次試験の合格者が佐世保海軍航空隊に集められました。海仁会の佐世保集会 所に集合した一次試験合格者を、一名ずつ呼び上げながら班が編成されました。私の班は 田川郡、京都郡、宗像郡出身の者十五名で第三十班が編成されました。 そして、善行章を 一線付けた神野兵長が班長として付き添うことになりました。福岡市内から受験した者な ど大半の者は、航空隊の中に宿泊していましたが、兵舎が足りなかったのか、私たちの班 は海仁会の集会所に宿泊して、朝夕ランチで試験場に通いました。

第二次試験。後列左から三人目筆者。四人目西部君。
 第二次試験は、精密身体検査と各種器具を使っての航空適性検査です。まず身長・体重 ・胸囲の測定など型通りに始まり、各種機材を使った適性検査が一週間にわたつて実施さ れました。各自番号札を首から吊りさげ、各班ごとに係の指示に従って検査場を順番に回 るのです。そして、各自が所持している検査表にその結果が記入されていきます。  身体検査の初日、血圧の測定で基準以上の数値がでたため赤印がつけられました。過度 の緊張によるものと思いました。再検査するので他の検査が終わってから再度来るように との指示を受けました。  昼飯が終わり、廊下で休憩していると、 「永末! 永末はおらんか?」と、白い事業服に黒線一本の帽子を冐った下士官が呼んで います。 「ハイ!」と言って立ち上がりました。すると近寄って来て、 「上野の青木だ……」と、話しかけてきました。  隣接の上野村に長兄の親友がいて、海軍に志願して飛行兵になっていると聞いていまし たが、佐世保航空隊にいるとは知らなかったので驚きました。早速血圧検査の件を話すと、 「今朝用便はしたのか?」と聞くので、今朝起こされると同時に船に乗せられてこちらに 連れてこられ、朝飯が終わると直ぐに検査が始まったので、顔を洗う暇もなかったと話し ました。すると、海軍では「総員起こし」の前に一度起きて個人の用などは済ませておか ないと駄目だ、と言って笑っています。  そして、私を血圧検査のあった部屋に連れて行きました。午後の検査の準備をしている 兵隊に、私の検査表を見せながら何か話していましたが、引き返してきて「合格だ!」と、 小さな声で言って検査表を返してくれました。見ると血圧検査の欄には再測定の数値が記 載されていました。なーるほど軍隊にはこんな裏技があるのだと感心しました。  その後も暇をみては逢いに来て、海軍生活の予備知識を話してくださいました、そして 「絶対操縦員になれ!」と激励されました。彼は今、佐世保航空隊で二座水偵の操縦員の 配置に就いているとのことでした。航空隊前面の海上では飛行艇や水上偵察機が離着水を 繰り返しています。検査の合間に飽かず眺めていました。飛行艇が離水後、瀧のような海 水の尾を引いて上昇するのは特に勇壮な眺めでした。  第二次試験の最終日、波止場近くで帰りのランチを待っていると、二隻の戦艦が駆逐艦 を伴って入港してきました。「金剛と榛名だ……」見送りに来ていた、青木兵曹が小声で 教えてくれました。初めて見る戦艦の威風堂々たる勇姿に感激を覚えました。 金剛
巡洋戦艦「金剛」。
 三月中旬に合格が発表されました。私の学校からは数名の者が受験していたのですが、 福島安政君と私だけが合格しました。だが、私の合格通知書には予定と違って「八月一日、 鹿児海軍島航空隊に入隊すべし」と書かれていました。同級生の福島安政君は当初の予定 どおり四月一日に鹿児島航空隊に入隊しました。

予科練から飛練そして実施部隊へ  

 昭和十八年八月一日、我々は第十二期甲種飛行予科練習生として、鹿児島海軍航空隊へ 入隊しました。ここでは、海軍軍人としての基礎教育から、飛行機搭乗員としての必須な 訓練を受けました。  翌年三月、予科練を卒業し操縦員と偵察員に分かれそれぞれの航空隊へ転属しました。 私は陸上機操縦員として、谷田部海軍航空隊へ転任しました。谷田部航空隊では第三十七 期飛行術練習生を命じられ、九三中練による飛行訓練を開始しました。  次に実用機教程は艦上攻撃機に指定され、百里原航空隊で訓練を受けました。昭和十九 年末全ての訓練を終了、飛行術練習生を卒業して一人前の搭乗員として、第九〇三航空隊 に配属されました。第九〇三航空隊では艦上攻撃機操縦員としい、対潜哨戒や艦隊・輸送 船団の護衛などの任務に服しました。  昭和二十年三月、沖縄戦が始まると同時に大井航空隊に転属を命じられました。ここで 「神風特別攻撃隊・八洲隊」に編入され、特攻訓練を開始しました。  昭和20年4月当時。

運命の八月十五日  

その当時、空襲の被害を少なくするため、 兵舎をはじめ基地の施設は、飛行場から離れ た場所に分散されていました。金谷の町から南側へ坂道を登り、牧之原台地を飛行場へ向 かう道路の両側は一面の茶畑です。その西側の林の中に小さなバラック建ての病室が設け られていました。ここには、三十名程度の外傷患者が収容されていました。 この患者の中に、飛行隊の搭乗員が二名含まれていました。過ぐる日、敵機動部隊の空 襲の際に交戦中負傷した者です。彼らを看護するために、同僚が交替で付き添いに行くこ とになっていました。 看護と言っても別に仕事らしいものはありません。空襲その他の非常に際して、彼らを 安全な場所へ退避させる手助けをするのが目的です。だから、航空食などを持ち込んで食 べながら、囲碁や将棋などで遊んでいればよかったのです。 八月十五日、その日私がその病室当番に当たっていました。朝食を終えて暑くならない うちにと思い早めに病室に行きました。過日の空襲で負傷した関戸兵曹(乙飛十七期出身) と雑談していると、《総員集合! 格納庫前》の指示が出たので、患者以外の者は飛行場 へ行くようにと、看護科の当直下士官からの伝達がありました。 私は、せっかくの休養を兼ねた病室当番に当たっているのに、暑い最中を三十分もかけ て飛行場まで歩くのが厭なので、横着を決め込んで、空いたベッドに寝転んで雑誌を読ん でいました。 やがて午後も遅くなって、看護科の兵隊が総員集合から帰ってきました。そして、何や らヒソヒソと話し合っています。どうも、戦争が終わったなどと言っている様子です。 「オイ! 総員集合で何があったんだ?」 「ハイ、天皇陛下がラジオで直接放送されました。雑音がひどくて、よく聞き取れません でしたが、分隊長の話では戦争は終わったらしいです!」 「エェッ! それ本当かっ?」  半信半疑でした。一刻も早く事実を確かめたい。こんな所でぐずぐずしているわけには いきません。すぐに「湖畔の宿」と呼んでいた兵舎に向かって急ぎました。これが本当な ら、もう死ななくてすむんだ。今まで胸につかえていた重苦しいものが一瞬に消し飛んで、 浮き立つような気持ちで茶畑の中の小道を走りました。  兵舎に帰ってみると、皆も興奮して今後のことについて議論を交わしています。やはり 戦争は終わったのです。だが、戦争に負けたとは思いたくありませんでした。同僚の話で は、一度《総員集合》が伝達されたが、搭乗員は兵舎でラジオを聞けと指示され、総員集 合には参加しなかったそうです。ならば私の不参加は当を得たものでした。 * 当夜予定されていた夜間飛行訓練は中止されました。その夜は久し振りに酒盛りとなり ました。取って置きの酒や缶詰などを持ち寄っての無礼講です。戦争に負けた悔しさと、 死から解放された嬉しさが同居した妙な雰囲気でした。 翌日から、先行き不透明で不安定な生活が始まりました。目的を失いぼう然自失してい る時、厚木航空隊から「銀河」が飛来して《徹底抗戦》を訴える檄文を撒いて行きました。 これに呼応する意見も出ましたが、賛同者は少数でした。      陸海軍健在ナリ      満ヲ持シテ醜敵ヲ待ツ 軍ヲ信頼シ我ニ続ケ      今起タザレバ 何時ノ日栄エン      死ヲ以テ 生ヲ求メヨ      敗惨国ノ惨サハ 牛馬ノ生活ニ似タリ      男子ハ奴隷 女子ハ悉ク娼婦タリ 之ヲ知レ      神洲不滅 最後ノ決戦アルノミ       厚木海軍航空隊

神風は吹かず

日が経つにつれ、終戦の実状も次第に明らかになりました。軍隊は解体され帰郷できる との話です。また一方では、日本全土は占領され、搭乗員は皆殺しにされるとの噂も流さ れていました。まさかと思いながらも、南北アメリカ大陸や、フランス領印度支那それに オランダ領印度その他南方諸島に対する、西欧列強の過去の侵略の歴史を考えるとき、こ れを一概には否定できない真実味を帯びていました。 文永・弘安の役で、対馬や壱岐それに鷹島の住民が、来襲した蒙古軍から受けたような 残虐な仕打ちが、全国各地で再び行われるのだろうか。また、白人に土地を奪われ、騎兵 隊に追い立てられて行くインディアンの悲哀を、映画ではなく、現実のものとして味わう ことになるのだろうか。厚木航空隊の「銀河」が撒いて行ったビラの内容も、将来の我が 国の姿を暗示しているように思われて、不安は増すばかりでした。 要務飛行などに必要な最小限の飛行機以外は、プロペラを外して並べられました。機関 銃その他の武器も一ヵ所に集められて、種類ごとに整頓しました。昔映画でみた忠臣蔵の、 赤穂城明け渡しの場面を思い出させる状況でした。これを海軍式号令で表現すれば、 「大東亜戦争終わり、用具収め!」となるでしょう。 《任海軍上等飛行兵曹、依命予備役編入》という、帝国海軍から最後の命令を受けて復員 が決まったのは、八月も終わりに近くなっていました。 持ち帰る最小限の品物を整理して、手荷物にまとめました。そして、不要になった所持 品を焼却することにしました。大切にしていた「航空記録」その他も、皆に倣って次々に 燃やしました。最後に、「御守袋」を胸のポケットから取り出しました。過ぐる日、父親 が面会に来たとき戴いたものです。ちょっと拝む仕種をして火中に投じました。  その瞬間、いつの間にか中身の板札が真っ二つに割れているのが、指先の感触で分かり、 慄然たる思いがしました。これは、「御守札」が身代わりになって割れると聞かされてい たからです。 いよいよ復員できる日がきました。復員証明書といくばくかの旅費を受け取り、思い出 深い「湖畔の宿」を後にして、堀之内駅から汽車に乗りました。私は石井勝美兵曹(長崎 県壱岐郡出身)と一緒に帰ることにしました。汽車はすし詰めで、おまけに鈍行でした。 乾パンなどの食糧は準備していましたが、最悪の旅となりました。 京都駅で途中下車して、石井兵曹の親戚宅に一泊することにしました。浜松、名古屋、 岐阜と焼け野原ばかり見てきた目には、数回の空襲を受けて、相当数の死傷者を出したに しても、比較的被害の少なかった、古い京都の街のたたずまいは、妙に落ち着いた雰囲気 を醸していました。 それにしても、街には店らしい店は開いていません。八坂神社の前で氷屋が一軒店を開 けているのを見つけて、氷を一角買いました。蜜や砂糖など有るはずがありません。オガ 屑を拭きとり、タオルに包んで玉垣に打ち付けてカチ割りにしました。そして、石段に腰 を降ろしてカリカリと噛みました。暮れなずむ京都の街並みを眺めながら、物を食べると いう事で満ち足りた気分になり、戦争が終わった喜びをしみじみと感じました。 翌朝、しばらく親戚の家に滞在して、様子をみると言う石井兵曹と別れて、今度は一人 で汽車に乗りました。広島駅で乗り換えのため下車したついでに、街に出て市内の様子を 見て回りました。「七十年間は草木も生えない」と、言われるように一面瓦礫の山です。 「体当たり攻撃」などでは太刀打ちできない化学兵器の破壊力を、まざまざと見せ付けら れた感じでした。 夕方、下関駅に着きました。故郷九州はもう目の前です。関門海峡を見渡すと、おびた だしい数の沈没船が、マストや船体の一部分を海面にさらしていました。この光景を眺め ながら、フト以前歴史の教科書でみた挿絵が頭に浮かびました。それは「弘安の役」で、 博多湾に押し寄せてきた蒙古軍の大船団が、「神風」に吹き寄せられて、折り重なるよう にして沈没する様子を描いたものです。 今眼前にみる情景が、本土上陸を目指して、関門海峡に押し寄せた敵艦船群が、「神風」 によって壊滅した残骸であればとの願いが、一瞬脳裏を掠めた。しかし、現実にはB29の 投下した機雷による、わが方の被害であった。 われわれが、心密かに必ず吹くと期待していた「神風」は、ついに吹きませんでした。 また、源平の昔、都を追われ壇之浦の合戦に敗れた平家の落人達が、九州各地の山奥深く 隠れ住んだ故事を偲びながら、先行き不安な敗戦を現実のものとして認識させらました。 また反面、生きて再び故郷の土を踏むことのできる喜びを、全身に感じていました。         詔 書      朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠 良ナル爾臣民ニ告ク朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨 通告セシメタリ 抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措 カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ 出テ他國ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス 然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆蔗ノ奉公 各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ワラズ戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ 新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻リニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至 ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲ モ破却スヘシ 斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政 府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ  朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國 臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂 ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然 レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト 欲ス 朕ハ茲ニ國軆ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫 レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世 界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ 建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラム コトヲ期スヘシ爾臣民共ニ克ク朕カ意ヲ體セヨ     御 名    御 璽           靖国神社について  戦争は敗戦で終結しました。そして数多くの戦友が「靖国神社」に祀られています。 当時家族の安寧と国家の存続を願って戦った者たちです。「靖国神社で会おう」は我々 の合言葉でした。「靖国神社」は現実の社で地獄・極楽など幻想の世界ではありません。 我々戦士の心の拠所でした。だから、事ある毎に参拝しています。  私が参拝するのは、「靖国神社」祀られた戦友の御霊であり長兄の御霊です。その他 の方々を意識して参拝することはありません。 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合って忘れられぬ 貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょう国のため 貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 枝の梢に咲いて逢おうよ
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