甲飛12期の事績


       7−5 ご遺族の願い
   
 戦後、戦没者の慰霊祭や同期生会などでの会合で、ご遺族の方とお話しする機会があり
ます。ほとんどのご遺族は「戦死の証」がほしいと言われます。飛行兵だから、遺骨が帰
らないことは理解されています。しかし、遺骨に代わる遺品や遺稿など、なにか戦死した
ことが納得できる証しを求めておられるご様子です。

  また、 戦死したことの実感が得られないため、まだ何処かで生きているのではないかと
言われる方もおられます。 ご遺族にすれば表向きには戦死を認めていながら、内心では未
だに生きていてほしいとの願いが強いのだと思います。

 あの当時われわれ下士官兵は、遺書などを書いたとしても、両親や兄弟に手渡す手段を
持たなかったのです。遺品や遺書などが届けられたご遺族はごく一部に限られています。 
それも、従来のように「海軍葬」にご出席されて受け取るといった正規の手続きによるも
のではなく、つてを求めての幸便に託されたものが殆どです。

 昭和20年代になると、空襲による交通機関の混乱などから、航空隊で行う「海軍葬」
などは殆ど実施されない状態でした。だから、大多数のご遺族には「○○方面で戦死」と
記された、一片の通知書が渡されただけです。またその通知書にしても、人事管理の混乱
から時期を逸し、終戦後になって、やっと届けられた方も数多くおられる様子です。

  ご遺族にすれば、どんな飛行機に乗っていたのか。いつどこの基地から飛び立つたのか。
どこの攻撃に行ったのか。そして、どんな状況で戦死したのかなど、最後の様子を知りた
いと思うのは人情でしょう。幸い戦没同期生の最後の模様は、防衛研究所の資料や生存同
期生の協力でほぼ解明することができました。同期生として当然の勤めです。

 慰霊祭にご出席されたある父親は、「もし代われるものなら、自分が代わりに死んで、
息子には長生きして欲しかった」と、涙ながらに慨嘆されました。またある母親は、空襲
の激しい中を、今生の別れに出撃基地を訪れた話をしておられました。手塩にかけて育て
たご子息の死の門出を、なす術もなく見送らねばならなかった母親の胸中は、察するに余
りあります。
 
 また別の母親は、ご子息が無事に帰還することを願って、「茶断ち」「塩断ち」などの
祈誓(願かけ)をされたと話しておられました。あの当時、われわれが命に代えて護ろうと
していた肉親もまた、自分の命を縮めてもと、わが子の無事を祈っていたのです。

  「焼野の雉(きぎす)夜の鶴」との諺があります。野火に追われた雉は、飛べない雛を
庇って一緒に焼け死ぬといいます。また鶴は霜の降る寒い晩には、自分の翼で子を包んで
護ると云われています。野鳥に教えられるまでもなく、 子を思う親の愛情がいかに深く断
ち難いものであるか、しみじみと感じさせられました。    

 子は親の安泰を願ってわが身を犠牲にすることを厭わず、親はわが身を削ってまで子供
の無事を祈る。この肉親相互の愛情が重なり合って、あの必死必殺の「体当たり攻撃」が
生まれたのだとすれば、真に非情です。「体当たり」の瞬間、彼らの脳裏には、慈愛に満
ちたご両親の面影が焼き付いていたに違いありません。      

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