初陣そして特攻隊へ
昭和十九年九月、上海航空隊及び大井航空隊で飛行訓練を受けていた同期の偵察員が、
第三十七期飛行術練習生を卒業して実施部隊に配属された。次に操縦員が機種別の実用機
教程を卒業して偵察員の後を追った。実施部隊においても更に錬度の向上を図るため、実
戦さながらの錬成訓練が実施された。そして、空中衝突その他の事故により多くの犠牲を
払いながら、一人前の搭乗員として鍛え抜かれたのである。
上海空「白菊」の列線。
またこの間に、戦局は急激に推移していた。入隊当時の遠いソロモン群島方面での戦闘
は、今や南洋群島から比島方面へ、更に台湾沖へと身近に迫っていたのである。十月中旬
に敵機動部隊が沖縄及び台湾方面へ来襲した際の戦闘、即ち「台湾沖航空戦」がわれわれ
同期生の初陣となった。
そして、最初の戦死者を出すに至ったのである。これ以降それぞれの所属部隊で、索敵
や哨戒、または雷撃や爆撃にと本格的な戦闘に参加することになり、戦死者は次第に増加
していった。明けて昭和二十年、戦闘はますます激烈となり、戦線が内地に近づくにつれ
て戦没者は急激に増加した。
同期生の小河原正澄君(福岡県出身)の話を紹介する。彼は上海航空隊で飛練を卒業し、
龍華基地に所在する二五六空(雷部隊)所属となった。そして、昭和十九年十月十三日の、
「台湾沖航空戦」が彼の初陣である。
その後対潜哨戒や船団護衛などの任務に服していた。戦艦を改造した空母「伊勢」及び
「日向」が、フィリピン方面の作戦に出勤した際は、その前路哨戒を実施した。
ある日、海軍のダグラス輸送機が上海南方の南翔に不時着したとの連絡を受けた。これ
を救出する陸軍に協力するため、零戦と九七艦攻が出動することになった。彼も九七艦攻
に搭乗してこの作戦に参加した。だが、乗員の救出は成功しなかった。
この時ダグラス輸送機に乗っていたのは、フィリピンや台湾方面から内地に引揚げる、
司令部関係のお偉方と、翼を失った搭乗員たちであった。そして、九〇一空所属の同期生、
徳光・金井・村山二飛曹も搭乗していたとの話である。
私の調査では、この事件は三月一日で、ダグラス輸送機の乗員は徳光武二飛曹(大分)
で、村山泰視(香川)金井二雄(愛媛)の両二飛曹は、同じ目的で台湾の高雄基地から相
前後して飛び立った一式陸攻に搭乗していた。ところが、彼らもまた同じように目的地に
到着することなく消息不明となったのである。
*
昭和二十年三月十七日、二一〇空の小林毅(新潟)中園利之(福岡)吉富昇(鹿児島)
二飛曹が雷撃訓練中に空中衝突事故を起こして殉職した。いずれも、艦上攻撃機の操縦訓
練を受けた同期生である。その日、同じ訓練に参加してこの事故を目撃した同期生がいる。
平岡健哉二飛曹(長崎県出身)である。
彼の話によれば、当時二一〇空艦攻隊は大分基地に移動して、航空母艦「鳳翔」を標的
とした、魚雷の実射と襲撃運動の訓練を実施していた。その日は、天山艦攻十二機編隊で
襲撃運動を実施するため、隊長の佐藤大尉が指揮官となり大分基地を離陸した。編隊を組
みながら高度をとり豊後水道に向かった。間もなく、全速力で航行中の標的艦「鳳翔」を
発見した。一番機のバンクを合図に、突撃準備隊形を作った。
突撃準備隊形とは編隊を解散して単縦陣になりながら、標的艦を中心にして、半径約一
万メートルの円を描いて包囲する陣形を作るのである。包囲陣が完成するのを見計らって、
指揮官は「突撃」を指令する。全機一斉に標的艦に向かって「突撃」を開始する。
魚雷の発射は高度二十メートル以下で目標との距離は八百メートル前後で行う。つまり、
参加した全機が標的艦前方の上空で一瞬に交差することになる。その日の約束事は、右舷
側から攻撃する機が左舷側から攻撃した機の上を通過して衝突を避けることで統一されて
いた。
ところが同じ左舷側から攻撃する場合でも、発射角は六十度から百二十度とまちまちで
ある。そのうえ同じ側から攻撃する機ごとの高度差は示されていなかった。だから、魚雷
発射後の各機は思い思いの高度で一点に集中することになる。
実戦に即した訓練のため安全は無視されていた。平岡機は右舷側から「突撃」を開始し
た。ところが、魚雷発射の直前に標的艦の艦首前方に突然水柱が上がり、飛行機の破片が
バラバラと海上に落ちてきた。これは左舷側から攻撃していた二機が、空中衝突して墜落
したものである。すぐに訓練を中止して基地に帰った。
衝突したのは橋本飛曹長機(乙飛七期)と同期生の小林二飛曹機であった。それにその
後席に搭乗していた者を含め、六名の犠牲者を出したのである。小林機の後席には同期生
の中園・吉富両二飛曹が搭乗していたのである。これより六日前の三月十一日、二〇一空
の艦攻隊が同じ場所で、同じような事故を起こしてやはり六名の犠牲者を出したばかりで
あった。訓練計画に反省すべき点はなかったのか悔やまれる事故である。
平岡二飛曹は前年十二月、百里原航空隊での空中衝突事故の際には、一番機の後席に同
乗していてあの事故に遭遇した。尾翼を破壊され操縦不可能に近い飛行機で、九死に一生
を得ての生還であった。その彼が、再び眼前で衝突事故を目撃する巡り合わせとなった。
*
七六二空攻撃二六二飛行隊では「丹作戦」に呼応して「菊水部隊『梓』特別攻撃隊」を
編成して、初めて内地からの特攻作戦を実施した。早春の三月十一日〇九二〇、鹿屋基地
を発進した銀河二十四機は、洋上長駆千三百六十カイリを飛翔して、ウルシー岩礁内に停
泊する敵機動部隊の攻撃に向かった。そして、十時間に及ぶ飛行の末一九〇〇過ぎ、夕闇
せまる敵泊地に殺到して必死必殺の「体当たり攻撃」を敢行したのである。
この攻撃に、葛佐真夫二飛曹(徳島)と原田照和二飛曹(佐賀)、それに林栄一二飛曹
(愛知)が参加し、同期生として「体当たり攻撃」の魁となった。バンドを締めた狭くる
しい座席での長時間の飛行が、どれほど肉体的な苦痛を伴うものであるか、まして、生還
が許されない死出の旅路であってみれば、その胸中は察するに余りある。
彼らは十時間にも及ぶ長い飛行中、何を思い何を語り合ったのであろうか。おそらく、
遠ざかりゆく故郷の山河に思いを残しながら、過ぎし日々の回想に耽っていたと想像する。
そして、体当たりの瞬間、父母の面影を脳裏に焼き付けていたに違いない。
昭和二十年一月は八柱、二月は三柱、三月三十五柱、さらに四月には五十八柱と、沖縄
周辺での戦闘が激化するにつれて、戦没者は急激に増加した。そしてその大半は「神風特
別攻撃隊員」としての「体当たり攻撃」による戦死者である。
予科練を卒業し、飛行訓練を開始してからわずか一カ年。心身共に鍛えぬかれた若鷲は、
爆装零戦をはじめ艦攻、艦爆、陸攻とそれぞれの愛機を駆って、沖縄周辺の敵艦船群に対
して、次々と「体当たり攻撃」を敢行した。そして、大空の彼方へ消え去ったのである。
三月二十一日、九州南東方海上の敵機動部隊攻撃の命令を受けた、野中五郎少佐率いる
「神雷部隊」の一式陸攻十八機は「桜花」を抱いて勇躍鹿屋基地を発進した。神雷部隊の
初陣である。しかし、優勢なる敵戦闘機の迎撃を受けて全機未帰還となった。この攻撃に
は、高橋幸太郎二飛曹(山形)が参加して、愛機と運命を共にしたのである。
神雷部隊の出撃。楠公の旗印「非理法権天」
*
小河原君の手記によれば、二十年三月になると、二五六空でも特攻隊員の希望者を募り、
特攻作戦に協力することになった。そして、新たに編成された、第十航空艦隊第十二連合
航空隊の宇佐航空隊、光州航空隊、釜山航空隊に分かれてそれぞれ転属した。
龍華基地256空の勇士。
特攻要員として宇佐空に転属した、松木昭義・堤昭・小河義光・犬童憲太郎君が写っている。
まず宇佐航空隊に赴任した者は「神風特別攻撃隊八幡護皇隊」に編入され、鹿児島県の
串良基地に進出した。搭乗機は九七艦攻である。そして四月六日、「菊水一号作戦」が発
動されるや、沖縄周辺に来襲した敵艦船群に対して、次々に「体当たり攻撃」を敢行した。
昭和二十年四月六日
八幡護皇隊 二等飛行兵曹 松木 昭義 (愛媛・十八歳)
同 四月十二日
八幡護皇隊 二等飛行兵曹 堤 昭 (福岡・十八歳)
同 四月十六日
八幡護皇隊 二等飛行兵曹 小河 義光 (福岡・十七歳)
同 四月二十八日
八幡神忠隊 二等飛行兵曹 犬童 憲太郎(鹿児島・十八歳)
(以上は特攻隊要員として宇佐航空隊に転属した、元二五六空の同期生)
光州航空隊に配属された小河原二飛曹は、ここで最後の特攻訓練を受けた後、懐かしい
故郷福岡の上空を飛んで、鹿児島県の国分基地に進出した。ところが、出撃の機至らず、
ついに八月十五日を迎えることになった。また釜山航空隊に転属となった若佐芳彦一飛曹
(長崎)は中間練習機による特攻隊に編入された。
この時期、中間練習機まで「体当たり攻撃」に使用されたのである。そして、鹿児島県
の出水基地に進出の途中、天候不良のため行方不明となり、ついにその目的を達成するこ
とができなかった。終戦を一月後に控えた七月十五日のことであった。
中練特攻の勇士
3列目左から2人目 小河原一飛曹。
3列目右から2人目 高橋一飛曹。
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