松木学君を送る
(古小路 裕・大阪府堺市)
昭和十九年十二月五日、私は宇佐空において艦上爆撃機による実用機教程を卒業した。
実施部隊は七六二空の所属と決まり、鹿児島県の出水基地へ赴任した。ここで、当時の最
新鋭機である、陸上爆撃機「銀河」による錬成訓練を開始した。
明けて昭和二十年四月、アメリカ軍の沖縄侵攻に対応して「菊水作戦」が発令された。
四月十五日、七六二空攻撃四〇六飛行隊では「神風特別攻撃隊第七銀河隊」が編成された。
編成表を見ると二小隊二番機に私の名前がある。出撃は翌十六日となっている。さすがに
その夜は眠られなかった。己の人生もこれで終わりかと思うと、いろいろな過去の出来事
が走馬灯のように頭に浮かび、ほとんど一睡もできずに夜が明けた。
その日の特攻出撃は、銀河六機の編成であった。目標は喜界島の一五五度五〇浬付近に
游弋する敵機動部隊である。総員の見送りを受けて離陸して間もなく、私の飛行機は突然
エンジンカバーが破裂するという事故が起きた。直ちに進撃を中止して基地に引き返した。
予備機に乗り換えて皆の後を追おうと思ったが、すぐに飛行できる代替機がなく、出撃
を取り止めることになった。他にエンジンの故障で一機が引き返してきたので、この日の
出撃は四機となった。この攻撃で、三小隊二番機は江藤賢助(操縦)・榎田重秋(偵察)
・岡田武教(電信)各二飛曹の同期生だけのペアで出撃し、壮烈なる戦死を遂げられた。
昭和二十年四月二十七日、攻撃四〇六飛行隊は出水基地から美保基地に移動して訓練を
実施することになった。これは、南九州地区がB29や相次ぐ敵機動部隊の艦上機による
空襲を受け、飛行訓練に支障を来していたからである。美保基地に移動してからは空襲を
受けることもなく、訓練は順調に進んでいた。
五月十日、私はいつものように急降下爆撃の訓練を終えて指揮所で休憩していた。する
と、飛行隊長の壱岐少佐が、「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せ
よ」との命令を出して、搭乗割が示された。
私たちは単なる飛行機の空輸だと思っていたので、宮崎基地に着陸しても、なんら普段
と変わらない気分で指揮所に入った。美保基地へ帰る便はどんな手配になっているのか、
それとも今夜はここで一泊することになるのか、などと思いながら待機していた。すると、
とんでもない命令が伝達された。
「翌朝四時に発進し、沖縄周辺の敵艦船に対して『体当たり攻撃』を実施せよ」。との
命令である。まさに晴天の霹靂であった。「爆撃せよ」や「雷撃せよ」ならまだしも「体
当たり攻撃」を実施せよとの命令である。つまり、「死ね!」という命令である。
「壱岐の奴、俺たちを騙しやがって!」「人の命をなんだと思っているんだ!」
「最初からそう言えば、心の準備だってできたのに、 俺たちを信用していないんだ!」
「畜生! 今夜限りの命か!」
だが、なんと言っても後の祭りである。命令には絶対に服従しなければならない。攻撃
計画の打ち合わせを済ませ、遺書を書いたりしていると、もう午前二時であった。洞窟の
中の木製ベッドに、シラミのわいた毛布を被って、少しウトウトとしたと思ったら番兵に
起こされた。時計を見るともう三時である。
指揮所前で行われた出撃前のセレモニーが終わった出撃隊員は、小型三輪トラックに乗
せられ、それぞれの飛行機まで送り付けられた。ところが、私たちの飛行機が昨日駐機し
た場所からなくなっている。私たちのペア三人は最後まで残り、暗闇の中を飛行機を探し
て三輪トラックで駆けずり回った。
そして、やっと見つけたのは昨日駐機した所とは全然違った場所であった。見ると私た
ちの飛行機は右エンジンのカバーを外し、大勢の整備員が作業をしている。これで状況が
理解できた。昨日着陸した際に、担当整備員に右エンジンが不調であることを伝え、修理
を依頼していたのである。
ところが、修理が手間取ったらしくて、まだ出来上がっていなかったのである。これで
出撃は不可能となった。私たちペアの三人は、修理が終わるまで仕方なく飛行機のそばで
待機した。この間に、準備のできた他の飛行機は次々に離陸して行った。その中に、同期
の操縦員松木学一飛曹と偵察員山根三男一飛曹それに電信員伊藤勲一飛曹(乙飛十八期)
で編成した、下士官だけのペアが含まれていた。
彼らは離陸直後から二度と着陸することのできない基地にオルジス(発光信号を発信す
る器具)を向けて、「サヨウナラ サヨウナラ……」と、繰り返し繰り返し送信を続けな
がら、南の空へと消え去って行った。
恐らく彼らは遠ざかりゆく祖国の山河を振り返りながら心の中でも「さようなら……」
と、 万感の思いを込めて別れを告げていたに違いない。結局この出撃で「第九銀河隊」は
八機が出撃し、 六機が未帰還となった。
爆撃機「銀河」
それから一ヶ月後の六月十一日、私は攻撃四〇五飛行隊に転属となり、宮城県の松島基
地に赴任した。
ここでは、陸軍と協同した「大特攻作戦」が計画されていた。この作戦は、八月二十二
日決行の予定で訓練が急がれていた。
内容は、一式陸攻六十機と銀河七十機の合計百三十機を使って、B29の基地となって
いるサイパン、テニアン、グアム島に爆撃と銃撃を行ったのち強行着陸を敢行し、B29
を爆破して基地機能を破壊するというものである。
強行着陸の「斬込決死隊」が「剣部隊」で、基地を銃爆撃する部隊が「烈部隊」と名付
けられていた。
この作戦に使用する特攻機の内訳は、
「剣部隊」 一式陸攻六十機 うち三十機、海軍特別陸戦隊三百名搭乗。
うち三十機、陸軍空挺部隊三百名搭乗。
「烈部隊」 銀河七十機 うち三十六機、各機親子爆弾八百キロ搭載。
うち三十四機、各機二十ミリ機銃二十挺装備。
私は「烈部隊」に所属し、改造「銀河」の銃撃隊に配属され、松島湾に浮かぶ無人島を
目標にして、超低空射撃の訓練を実施していた。だが、この作戦計画も遅きに失し、訓練
途上で終戦を迎えたのである。
*
同期生の葉室昭義君(福岡県出身)の手記がある。それによると、彼は谷田部航空隊で
中練教程を終了し、実用機教程は豊橋航空隊で陸上攻撃機を専攻した。卒業後は厚木基地
所在の三〇二空に配属された。ここで新鋭機「銀河」を改造した夜間戦闘機に搭乗して、
B29の迎撃に活躍していた。
その後、同じ厚木基地に所在する、一〇八一空に転属となった。この部隊は新造された
「銀河」の試験飛行を実施して受領し、これを各基地所在の実施部隊に空輸するのがその
任務であった。
五月の初旬、新しい機材を美保基地に空輸した。短い滑走路に着陸してエプロンに入り、
手を挙げて誘導する搭乗員の指示に従って駐機した。乗ってきた搭乗員の顔をみると同期
生の松木学一飛曹であった。
彼とは予科練時代に同じ班で生活を共にした仲である。また、谷田部空の飛練でも同じ
分隊で飛行訓練を受けた。彼は実用機教程を大分航空隊の艦上爆撃機に進んだ。卒業後は
七六二空攻撃四〇六飛行隊の所属となり、「銀河」の操縦員として活躍していた。
「待ちくたびれたぞ!」
と言いながらこちらの顔を見て、
「オオッ! 葉室やないか!」
「オーウ、松木か……、元気だったか?」
「間に合ってよかった! 飛行機が足りんので今度の編成から外されるとこだったぞー」
奇遇であった。彼の話によればこの飛行機の到着が間に合わなければ、明日の「特攻隊」
編成から外れるところであったという。
舵の利き具合など、新造機の癖などを手短に説明した。
「今夜は飲もう……、皆生温泉で待つとれ!」
皆生温泉ではささやかな、「出陣祝い」が催された。彼の誘いを受け末席に参加した。
久しぶりの再会なのに、これが別離の宴になるとは無情である。飲みかつ談笑の別れの宴
で夜は更けた。翌朝、美保基地に帰ってみると、彼ら特攻隊員は既に前線基地宮崎に向け
て出発した後であった。
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