伊東宣夫君を偲ぶ
小野 昭二郎(大分県佐伯市出身)
昭和十八年八月一日、伊東宣夫、小寺一男、宮崎昭、渡部義彦、安藤裕康それに私(小
野昭二郎)は、佐伯中学校同級生のトップをきって、第十二期海軍甲種飛行予科練習生と
して、鹿児島航空隊に入隊した。
憧れの七つボタンの予科練の制服を着て、鹿児島まで送りにきた親たちの前で、笑顔で
敬礼。予科練生活のスタートをきった。入隊したらすぐにでも飛行機に乗せてくれるもの
と思っていた。ところが、予科練とは本科に相当する飛行術練習生に対する予科の意味で、
搭乗員としての基礎である気力、体力、学力を身につけるところであった。
入隊の日はやさしかった教員は、翌日から豹変した。海軍伝統の「軍人精神注入棒」い
わゆるバッターで追い回されることになった。基本教練をはじめ、陸戦、水泳、カッター
と、息つく暇もない猛訓練の連続である。モールス信号の送受信をはじめ、発光信号、手
旗信号、旗旒信号など搭乗員として必須の通信手段は徹底的に教育された。
昭和十九年三月、無事に予科練を卒業した。操縦員に指定された安藤君を除いた同級生
は、揃って上海空に転属となった。ここで、第三十七期飛行術練習生の教育が始まった。
分隊や班こそ違ったが、暇をみつけては同級生が集まり、語り合ったものである。
昭和十九年九月、飛練を卒業して晴れて一人前の搭乗員として実施部隊に配属された。
伊東君と私は台南空の所属となり、ダグラス輸送機で台北を経由して赴任した。伊東君は
艦爆、私は艦攻とそれぞれ配置が決まった。
小寺君は七〇一空の所属となり、上海空で別れたのが最後であった。小寺一男二飛曹は、
昭和二十年四月七日、沖縄周辺の敵艦船攻撃の命令を受け、九六陸攻に搭乗し、一五五五
新竹基地を発進し、雷撃敢行中に被弾戦死した。
台湾沖航空戦の終了後、二人とも七二一空に転属となった。艦攻、艦爆それぞれの飛行
機で沖縄を経由して宇佐空に向かった。一足先に発った伊東君は、久しぶりに佐伯の土地
を踏むことができた。池船橋でお墓参りに行った母親と偶然出会ったそうである。最後の
別れにどんな話をしたのであろうか。私も僅か一時間ではあったが、 家に帰り両親と会う
ことができた。
昭和二十年三月二十六日、私たちは百里原空へ転属となった。その当時、練習航空隊か
ら実施部隊に編制替えになった百里原空では、次々と「特攻隊」の編成が行われた。台南
空時代に、艦爆の配置にあった者から順次編入されたように思う。伊東君は第二正統隊の
一員に選ばれた。私はどうしたことか、特攻出撃を前にして厚木空に転勤を命ぜられた。
「俺もすぐいくから……」そう言って別れたのが最後であった。
伊東宣夫遺稿集 写真前列左から、小野義明・伊東宣夫・福田周幸
伊東君は学校時代は成績もよく、文才家であり漢詩にも長けていた。また、いくつかの
小説や詩などを書き残している。彼が特攻出撃に際して家族へ送った「十有七春秋……」
にはじまる遺書は、予科練に入隊してから最後まで行動を共にしていた私には、涙なくし
て読むことはできない。祖国の必勝を信じ、国のためとは言え何のためらいもなく十七歳
の若さで散った彼を思うとき、何とも言えない気持ちになる。
目次へ戻る
次頁へ
[AOZORANOHATENI]