目次へ戻る 星の位牌へ [AOZORANOHATENI]若鷲の歌
ことしも十二月となり初雪が降りそうな季節となりました。日ごろはご無沙汰いたしま して誠に申し訳なく心苦しく思っています。ご尊家皆様にはご健勝にて日々お過ごしのこ とと心からお慶び申しあげます。 先だってより遺稿集出版の趣意についてお知らせの手紙をいただきまして、誠にありが とうございます。遺品や手紙などが残っていればとのことでしたが、家には何も残ってな いようです。 昭和二十八年六月の筑後川の氾濫で、田も畑も家もひどい被害に遇ったため、残ってい ないのでしよう。いえ、 遺書など初めから送られて来なかったように思います。ただ写真 が二枚ありましたのでお送りいたします。 昭和十九年十二月一日、大分県の宇佐航空隊にて訓練中の賢助さんに面会するため、母 と早朝家を出ましたが、あの頃はとても寒くて毎朝霜が真っ白に降りていました。肩には パラパラと小雪が舞っていました。 母と私は自分たちの食事とチマキなどを手土産に持って、久大線の吉井駅まで歩いて行 き、そこから汽車に乗り込み、柳ケ浦駅に着いたのはもう夕方近くでした。行った先は旧 家のような大きな農家の二階でした。ここに着くまでの道も、水害にでも遇ったように田 も畑も洗い流されていました。そんなところを歩いて行った思い出があります。 母は以前、父と二人で一度たずねており、間違えることもなく二階の薄暗い部屋に着き ました。用意よく消し炭も持って行きましたので、早速暖をとって賢助さんが来るのを待 ちました。しばらくすると賢助さんが来て、「あした宇佐神宮に一緒にお参りに行こう、 朝迎えにくるから……」。そう言ってすぐに帰ってしまいました。 翌日十二月二日、友達と二人で迎えに来てくれ、母と四人でお話しをしながら、ゆっく り参道を歩きました。その時の母は笑顔でとてもうれしそうでした。 本殿にお参りして「武運長久」でありますようにと、心を込めてお願いしたことを思い 出します。お参りした後、近くの写真屋さんで撮った写真です。 向かって左から賢助(十七歳)連れのお友達、母親トヨ(四十九歳)私ミスヱ(二十四歳) です。![]()
中央は同期の市橋一男君。 江藤賢助君遺影。
それから私たちは柳ケ浦駅に、賢助さんたちは航空隊へと別れました。それが永遠の別 れとなりました。後にも先にもない最後の写真です。 昭和二十年になりますと、賢助さんも鹿児島県の出水航空隊へ転勤したようで、出水ま で面会に来れないかだろうかとの便りもありましたが、空襲が激しくなり、その上汽車の 切符を手に入れるのが大変でしたので、母も面会には行きませんでした。 その後四月二十日ごろでしたが、佐賀県の原田文枝様から手紙が届き、四月十六日に、 賢助さんが搭乗した爆撃機が、沖縄近海に出撃して翌日になっても帰ってこなかったとの お知らせでした。原田様がちょうど弟さんに面会に行って聞いたとのことでした。 今思えば、五十二年前の悲しい知らせでしたがいまだに忘れることはありません。それ からの母は、夜になって静かになると仏壇の前で、「若鷲の歌」を寂しい声で繰り返し繰 り返し歌っていました。私も毎晩お経を唱えながら慰め合っていました。