翼なき搭乗員
大空で戦い大空に散華した者はまだ恵まれていたのかもしれない。相次ぐ空襲で愛機が
破損し修復の見込みもないまま、脱出の機会を失って敵中に取り残され、 陸戦隊に編入さ
れて戦った者たちがいたのである。彼らは慣れない地上戦闘に巻き込まれ、鍛え抜かれた
搭乗員としての腕前を発揮することもできず、泥まみれになりながら、最後まで勇戦敢闘
し、ついに草むす屍と朽ち果てたのである。
九五一空所属の広友喜代志(岡山)箕輪久和(新潟)両一飛曹は沖縄本島で、敵上陸軍
に対する、「斬込隊」に参加して戦死している。両名とも、予科練は二十二分隊の五班で
私と同じテーブルで飯を食った仲である。そして、谷田部空の飛練でも同じ四分隊で飛行
訓練を受け、実用機教程は姫路航空隊の艦上攻撃機へ進んだ。
飛練を卒業して実施部隊は九五一空に配属され、小禄基地にて哨戒任務に就いていた。
ところが、敵機動部隊の空襲を受けて乗機が破壊され、翼なき搭乗員となってしまった。
やむなく陸戦隊に編入されて、地上戦に参加することになったのである。
九〇一空の所属でフィリピン方面に派遣されていた、鈴村文雄一飛曹(愛知)の戦死公
報は、「昭和二十年二月以来、ルソン島マニラ防衛隊に編入され敵上陸軍と交戦中、七月
五日、マニラ東方ウミライ方面の戦闘に於いて戦死」となっている。また、九五五空所属
の海田秀雄(広島)林二郎(岡山)両一飛曹も翼なき搭乗員である。彼らの戦死公報は、
「昭和二十年七月二十八日、比島マニラ方面にて戦死」となっている。
また、森川孝之一飛曹(広島)は「昭和二十年九月一日、比島方面で戦死」とされてい
る。しかし、いろいろの状況を考え合わせると、戦死の状況は不明で推測で認定したので
はないかと思われる。
恐らく彼ら翼なき搭乗員たちは、給食なども十分に受けられず、搭乗員としての矜持を
保つこともできず、遥か遠い故郷に思いを残しながら最期を迎えたであろうと推察する。
また、終戦後になっても、外地にあるため行動の自由を奪われ、帰国を待ち侘びながらも、
ついに遠い異国の地に骨を埋められた方々も忘れることができない。
昭和二十年十二月十一日 秋葉和哉(福岡)台湾高雄兵站病院にて戦病死。
昭和二十年十二月二十九日 福田博教(島根)中支方面にて戦死。
昭和二十一年五月十五日 斎藤広顕(熊本)満州間島省延吉収容所で戦病死。
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