終戦と戦後の沖縄
昭和二十年八月十四日、天皇陛下のご聖断によって、日本政府は「ポツダム宣言」の受
諾を決定した。翌八月十五日正午、天皇陛下自ら戦争終結の決意を全国民に放送されて、
大東亜戦争は終わった。
戦争終結から既に五十年以上が経過した。昭和に生まれ、昭和に育っ私たちの世代は、
好むと好まざるとに拘らず、貴重な青春時代を戦争に明け暮れ、激動の昭和を生き抜いて
きたのである。これらの過去を回想しながら、わが国が現在のような平和国家として生ま
れ変わる転機となった、「終戦の詔書」をあらためて読み直してみるのも、無意味ではな
いと思う。
昭和四十一年一月、筆者は本土復帰前の沖縄本島に旅行した。当時沖縄の通貨はドルで、
1弗360円であった。その上パスポートまで必要な時代で、まるで外国旅行であった。
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まず、「ひめゆりの塔」や摩文仁が丘の「黎明之塔」「空華之塔」に参拝し、沖縄戦で
散華された御霊安かれと祈念した。次に、嘉手納基地や普天間基地をはじめ、海兵隊の演
習場などアメリカ軍関係の施設や訓練の状況などを、四日間にわたって、つぶさに見学し
て回った。
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空華の塔とひめゆりの塔。
残波岬の対空陣地では、無人機を飛ばしてこれを標的とした実弾射撃が展示された。まず、
低空用のホークミサイルが発射され、眼前で標的機に命中し見事に撃墜した。
次は高々度迎撃用のナイキミサイルの発射である。あいにく上空には薄雲が広がっている。
発射されたナイキミサイルは、 ほぼ垂直に上昇して3万メートルの上空に達する。次に降下し
ながら「コマンド誘導」にしたがって標的に命中する。雲を通して遥か上空でオレンジ色の閃
光が広がった。
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キャンプハンセンの訓練場と残波岬の対空陣地。
また、嘉手納基地ではアメカ軍の沖縄侵攻作戦の資料館を見学した。館内の壁面には、
沖縄侵攻軍司令官バックナー中将が、戦死する直前に糸満付近の前戦観測所で、海兵隊の
進撃状況を視察している姿を、等身大に描いた油絵が飾られていた。
館内を案内したアメリカ軍将校は、資料館の中央床面に設置した大きな沖縄のパノラマ
模型を示しながら、アメリカ陸海空軍が一体となっての上陸作戦の模様、 それに続く陸上
戦闘の推移や、激戦の様子などを説明した。
昭和二十年三月末、バックナー中将の率いるアメリカ沖縄侵攻軍は、強力なる海軍艦艇
と航空機の援護のもとに、陸軍及び海兵隊を合わせて十九万余の大軍を沖縄に上陸させた。
激戦四カ月、地上戦だけでも三万七千名を越える犠牲を払って沖縄を占領したのである。
そして、 その延長線上に現在の沖縄基地が存在することを強調した。
昭和二十年六月十八日、進攻軍司令官バックナー中将戦死。続いてその翌日には歴戦の
勇将イーズリー准将が戦死した。これらの状況をスライド写真などを使いながら説明し、
日本軍の勇敢さを称えた。また、連日連夜にわたって行われた「カミカゼ」による「体当
たり攻撃」は、アメリカ軍将兵に強い衝撃を与え、恐怖心から一時パニック状態となって
精神異常者が続出したという。
これらの説明を聞き、展示された武器や遺品などから当時を回想し、過ぎし沖縄攻防戦
において、数多くの同期生や先輩が、皇国の繁栄と家族の安寧を願って、わが身を犠牲に
して勇戦敢闘された往時を偲び、感慨深いものがあった。
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特攻兵器「桜花」
特攻隊の回想へ
[AOZORANOHATENI]