♪如何に強風♪

蒼空の果てに

    神雷部隊奮戦記 

                         長濱 敏行(宮崎県延岡市)  昭和十九年十一月、私たちは豊橋海軍航空隊において実用機教程の卒業を目前に控えて、 編隊飛行や魚雷発射運動など連日厳しい飛行訓練が続けられていた。 ある日昼飯の食卓に ついていると、 「本日は午後の飛行作業を中止する、一三〇〇練習生は居住区に総員整列せよ」 との指示があった。皆が緊張した面持ちで整列すると、分隊長田中大尉はゆっくりと全員 を見渡したのち口を開いた。 「本日集まってもらったのはほかではない、最近の戦局は皆も承知の通り、今や国家は危 機存亡の秋である。この窮状を打開するために、航空機による画期的な戦法が採用される ことになった。但しこの攻撃方法は一機で一艦を葬ることを狙いとしたもので、生還は度 外視されている。この攻撃に参加を希望する者は、明朝〇八〇〇までに申し出るように。 これは強制ではないが、諸君の勇気と殉国の熱情に期待する」  水を打ったように静まり返った居住区で、皆は思い詰めた表情をして身を堅くしていた。 だれに相談すべき問題ではない。一晩中思い悩んだ末、この美しい山河や父母の住む町を 守るために、搭乗員としての名誉にかけても、俺たちが犠牲にならなくてどうする、よし やろうじゃないか! そんな気持ちで志願する決心をした。  昭和十九年十二月、飛練卒業と同時に希望どおり神雷部隊と呼ばれた、七二一航空隊に 転属が決まり宮崎基地に赴任した。家田・和田・飛鷹・福原・佐藤・成清・城市・酒井ら の同期生と一緒であった。  着任して隊長に挨拶するため士官室に行った。すると見覚えのある顔が近づいてきた。 八木田大尉である。 「お前たちが来るのを待っていたぞ!」 そう言って、笑顔で話しかけてきた。われわれは、 「分隊長!」 と、思わず叫んで取り囲んだ。     八木田大尉は豊橋航空隊でわれわれの分隊長であったが、教育途中に交替して、一足先 に七二一空に転勤していたのである。ここで再び分隊長として指導を受けることになり、 一同勇気百倍の思いであった。  搭乗配置は一式陸攻のサブ(副操縦員)である。神雷部隊のサブは、「桜花」搭乗員が 機上で負傷などの事故が起きた場合これと交替して「桜花」に乗り込み、体当たりを敢行 すると聞かされた。それでなくても一式陸攻は防禦に弱く、その上重量が魚雷の二倍以上 の「桜花」を搭載するので運動性は極端に悪くなり速力も落ちる。出撃すれば先ず生還は 望めない。これで私の運命も決まったと覚悟を新たにした。  昭和二十年一月、家田・佐藤・酒井ら同期生の一部が輸送機部隊に転属を命じられた。 しかし、彼らは輸送部隊への転属を潔しとせず、隊長に抗議をしたが聞き入れられず別れ を惜しみながら退隊して行った。  残った連中は茨城県の神ノ池基地や大分県の宇佐基地などに移動しながら、「桜花」の 投下訓練その他の錬成訓練に励んでいた。またこの部隊には、われわれ操縦員とは別に、 偵察専修の飛練を卒業した同期生、大沢・佐藤・片岡・大坪・山本兵曹たちが所属してい ることを知り気を強くした。  昭和二十年三月中旬、攻撃七〇八飛行隊は宇佐基地において錬成訓練を実施していた。 ある日、敵機動部隊が九州南東海上に接近しているとの情報が入った。そして遂に、「神 雷部隊」に出撃の命令が下った。第二、第三中隊の十八機が翌朝を期して出撃することに なった。私は第一中隊の所属で今回の出撃編成表に名前はなかった。
「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機
「桜花」を抱いた七ニ一空の一式陸攻。
 三月十八日〇七〇〇、「搭乗員整列」が下令された。飛行場には胴体に「桜花」を抱い
た一式陸攻がズラリと列線に並び、轟々とエンジンを響かせている。同期の佐藤千年二飛
曹が堅い表情で近寄ってきて、時計と現金を差し出した。
「わかった! 必ず両親に貴様の出撃の様子は知らせる。どちらが先になるかと思ってい
たが……」
そう言って受け取った。彼とは同郷であり同じ延岡中学から一緒に入隊した仲である。

 格納庫前にはテーブルが並べられ、簡単な別盃の準備ができていた。飛行隊長の足立少
佐が段上に立ち、整列した搭乗員に敵の位置や攻撃要領などの説明を始めた。突如として、
《ダダダーン》と爆弾が炸裂し《バリバリバリッー》と機銃音が響き渡った。     

 見上げると、何とグラマンの大群が急降下してきているではないか。機銃弾が飛び交い
砂埃が舞い上がった。集合していた搭乗員がバタバタと倒れる。残った者は、クモの子を
散らすように逃げ惑う。飛行場は一瞬にして大混乱に陥った。

 列線に並べられていた一式陸攻は瞬時に火を噴き、真っ赤な炎と真っ黒な煙りに覆われ
て壊滅した。これでは出撃どころではない。ただ胴体の下に吊るした「桜花」が誘爆しな
かったのが幸いであった。これが爆発すれば被害は倍加したであろう。

 昭和二十年三月二十一日、この日は海軍の誉望を担い起死回生の兵器として開発された
「桜花」の初陣である。鹿屋基地に展開していた、攻撃七一一飛行隊は、飛行隊長の野中
少佐を先頭にして十八機の全力出撃である。

 三十数機の戦闘機に護衛されて万全の進撃であったが、レーダーに誘導された敵グラマ
ン戦闘機群の組織的な迎撃を受け、目標に到達することもできず敢え無く全滅した。この
攻撃には、同期生の高橋幸太郎二飛曹が参加し、愛機と運命を共にした。

 攻撃七〇八飛行隊は空襲の後始末が終わると陣容を立て直すため、石川県の小松基地に
移動し、ここで錬成訓練を再開した。この時期、飛行隊長には八木田大尉が昇格し、壊滅
した攻撃七一一飛行隊からも大勢の搭乗員が転入してきた。この中に笹見・川頭など数名
の同期生が含まれていた。

 四月上旬のある朝、
「搭乗員は、至急掩体壕前に集合せよ」
との当直将校の指示があった。大沢兵曹から当直下士官を引き継いだばかりの私は、隊内
を駆け回って指示を伝達した。

 掩体壕の上に立った沢本中尉は紅潮した面持ちで、   
「本日、第五航空艦隊司令部から出撃の命令が下った。今回の出撃は十二機である。まだ
ペアが決まっていない機は速やかにペアを編成せよ」              
と指示した。これは、攻撃七一一飛行隊から合流した者を含めて再編成の途中で、配置に
欠員のあるペアがあったからである。さーて、どの機長のペアに入ろうかと一瞬迷った。

 その時、
「よーし、行くぞ!」                                             
と、大声を上げて飛び出した者がいた、相川兵曹である。その声に釣られるように我先に
と各ペアに合流した。これで配置は埋まり、ペアの編成は完了した。ところが、私は集合
に遅れて列の最後尾にいたので、前に並んでいた同期生に先を越されて配置を取られてし
まって、出撃に参加できなかった。

 この出撃では片岡貞夫・山本政一・大坪春義二飛曹が戦死し、福原正一二飛曹は撃墜さ
れて重傷を負った。昭和二十年四月十四日のことである。

 不本意ながら、この出撃を編成もれで見送った私にも、いよいよ出陣の時がきた。四月
下旬、第一中隊第四小隊三番機の副操縦員の配置を得た私は、勇躍して壮途につくことに
なった。七生報国と染め抜かれた鉢巻を締め、腕に日の丸を付けて記念撮影。やはり一種
の悲壮感が漂う。

 離陸して日本海沿いに飛び、山口県の上空で変針して南下した。ところが、目的地であ
る鹿屋は空襲を受けているとの情報が入り、出水基地に降りることになった。今夜はここ
で一泊できるかと淡い希望をもったのも束の間、夕刻に鹿屋へ向けて離陸した。鹿屋基地
は連日ように空襲を受けて滑走路は穴だらけで、格納庫や兵舎などはほとんど破壊されて
いた。既にここは最前線基地なのである。

 飛行場の南西の外れ、雑木の茂るダラダラ坂を下ってしばらく行くと、田圃の中に古い
木造平屋建てがあった。野里小学校である。入口に「憂国の志士天誅組岡村一家駐屯所」   
と大書した標札が掲げてある。ここが「桜花隊」と、「爆装零戦隊」の居住区である。

 われわれ陸攻隊員の居住区は、田圃を隔てた南側の丘の中腹に穿つた、横穴式の防空壕
であった。ジメジメとした湿気に悩まされながら壕内の生活では熟睡することもできない
状態である。そのうえ、いつ命令が出ても出撃できるように、心の準備をしながらの待機
は緊張感の持続を要求される。精神的にも肉体的にも苦しい生活が続いた。

 昭和二十年五月二十四日、菊水七号作戦が発令され、遂にわれわれ「第九桜花特別攻撃
隊」に出撃命令が下った。だがこの日、沖縄方面は天候不良との情報が入り出撃は翌日に
延期された。

 ところが、夕闇迫る頃になって高知航空隊から進出していた「菊水白菊隊」の白菊が、
二十五番を二発づつ抱いて次々に離陸を始めた。その数二十機、あんな練習機にこの悪天
候の中、夜間攻撃を命じるとは狂気の沙汰である。無事に沖縄まで到達できるのだろうか、
他人ごとながら心配であった。

 明けて二十五日〇五〇〇、
「出撃搭乗員は、直ちに指揮所前に整列」
当直将校が宿舎の中を告げて回った。外をみるとまだ薄暗い。飛行場ではすでに試運転が
始まっている様子で、エンジンの音が轟々と響いてくる。

 この世に生をうけて十八年の今日まで過ごした歳月は、ただ敵艦に体当たりするための
ものだったのだろうか、出撃までの一刻、さまざまな思いが脳裏をかすめた。
「相川、最善を尽くして頑張ろう、結末は神のみぞ知るだ!」              
と言葉を交わして、それぞれの愛機に乗り込んだ。

 本日の出撃は十二機、敵のレーダーに補足されることを避けるため、間隔をおいて単機
ごとに離陸、それぞれ独自の針路で進撃することになっていた。
「さーあ、いよいよ祖国ともお別れだ!」スロットルレバーを徐々に開く、帽子を振りな
がら見送る整備員の油まみれの顔が次々と後方に流れる。滑走路を一杯に使って、慎重に
離陸する。「桜花」を抱いた愛機は重く、エンジンは喘ぐように唸っている。

 その日も天気が悪く、南西諸島方面の海上は一面に雨雲が垂れ込めていた。進撃するに
したがって雨雲は益々濃くなり、操縦席前面の風防ガラスを雨が激しく叩く。「桜花」が
重いせいか、それともエンジンの調子が悪いのか、なかなか高度が取れない。沖縄方面は
既に梅雨に入っている様子である。

 進撃高度は四千メートル、雲に入ると一面真っ白で飛行機の姿勢も分からない。目安に
なる物は何も見えないので、完全な計器飛行である。時折雲の切れ間から海面が見えると
飛行機の姿勢が確認できるのでホッとする。

 他機の様子が気になる。しかし、電波管制で敵発見などの重要事項以外は発信出来ない
のである。天気はますます悪くなり、他機の状況も一切不明である。ふと後ろを振り返る
と、桜花搭乗員は腕組みをして端然と瞑想している。彼は死を目前にして、何を思い何を
考えているのだろうか。思わず目をそむけた。

 母機のわれわれには万が一にも生還の希望を持つことができる。しかし、彼には母機を
離れたが最後、「桜花」と共に炸裂する以外に還る道など残されていないのだ。そして、  
刻一刻とその最後の時は迫っている。また非情にも、「桜花」の投下ボタンを押すのは副
操縦員である私の役目なのだ。

 航程の半ばを過ぎても天候は回復せず、他機の様子も不明であった。機長の上田上飛曹
は、遂に進撃を断念し再起を計ることを決心した。このような視界不良の天候では、「桜
花」の発進は無理と判断したのである。

 鹿屋基地に還ってみると、すでに数機が着陸していた。指揮所に報告して待機している
と、一機また一機と還ってくる。彼らも悪天候のため進撃を諦めたのだ。話によると一機
はエンジン不調で出撃を取り止めたらしい。するとまだ三機が未帰還である。相川の機が
気になり電信室に問い合わせて愕然となった。

「我、燃料ノ続ク限リ索敵攻撃ヲ続行ス」                                   
との電報が届いていたのである。そして、それ以後の連絡が途絶えているというのである。
見敵必殺、再び生きて還らじの決意で悪天候の中を、敵艦を探し続けているのだろうか。

 いや、グラマンの待ち伏せに会い、壮絶な空中戦を展開したのかも知れない。あるいは、
猛烈な対空砲火に曝されたのか、最期の状況は知る由もない。掛け替えのない命と引き換
えに大和民族の誇りを守り、祖国に殉じたのであろう。

 翌日から再び出撃待機の生活が始まった。六月に入り、連日の特攻機の出撃にもかかわ
らず、沖縄の攻防戦は敵の物量に押されて最悪の状態に至った様子である。六月二十二日、
遂に最後の秋を迎えた。菊水十号作戦が発令され、「桜花特別攻撃隊」にも出撃の命令が
下った。今回は単機ごとの出撃でなく、護衛戦闘機を配しての正攻法である。今度こそ生
きては還れまい。

「お前達だけを死なせはしない、俺も必ず後から行く」                           
司令岡村大佐の別離の言葉も何か空々しい。

 離陸して高度をとりながら、ふと見ると、右前方に薩摩富士とよばれる開聞岳が迫って
きた。これが祖国の見納めとなるであろう、喰い入るように山肌を見つめた。東支那海に
出るや、《ドドドッー》と、機銃の試射が始まった。また胴震いが起こり、なかなか止ま
らない。外を見回しても護衛戦闘機の姿はない。                    

 進撃するにしたがって天候は次第に悪化しついに雲量は十となった。そのうえエンジン の調子もおかしい。搭乗整備員の関谷兵曹が窓に頬を付けるようにして、エンジンの様子 を見守っている。  ついに油圧が下がり始めた。オイルが漏れているらしい。現在の位置は沖縄まで三十分 とのことである。このまま突込むか、それとも引き返すか機内で議論が始まった。上田機 長は「突進あるのみ」と宣言した。  関谷兵曹はエンジンの状況から、「桜花」を積んだ過荷重状態での進撃は無謀である。 完全な状態に整備して出直すべきだと言って譲らない。上田機長は、 「我エンジン不調ノタメ基地帰投ノ見込ミナシ、母機諸共体当タリヲ決行ス」 と、電信員に打電を指示した。私を含めてペアの面々は、視界不良のうえエンジン不調で の進撃は無謀だと思っていた。  そんな雰囲気を察したのか機長は関谷兵曹の意見を容れて、「桜花」の投棄と反転を指 示した。この間、桜花搭乗員は瞼を閉じたまま終始無言であった。「桜花」の投下ボタン を押すと急に身軽になった。左に変針して不時着する島を探すために、全員が見張りの配 置についた。その途端、左前方にオレンジ色の火達磨となった飛行機が、クルックルッと 落ちていくのが見えた。 「雲に突込め!」 指示と同時に操縦捍を倒し、スロットルレバーを全開にして雲中に退避した。列島線上に はグラマンが、三段構えの迎撃態勢を整えて待ち受けているのだ。雲の隙間から黒煙が見 える。まただれかが撃墜されたのだ。我が機は雲を利用して退避運動を続けながら、どう にか喜界島に緊急着陸して虎口を脱することができた。  この日の出撃で、飛鷹義夫一飛曹は遂に還らなかった。私は命からがら生還することが できた。出撃の日の航空弁当は五目寿司とおはぎであった。それにビワの実が添えられて いた。毎年ビワの実が黄色に色づく梅雨の季節になると、当時の状況が眼前に彷彿とする。 目的を一つにして生死を共にした同期の友の面影が強烈に蘇る。 「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機 「桜花」を抱いた一式陸攻。
 神雷部隊(七二一航空隊)で共に戦い戦没された同期生。 三月二十一日 第一桜花特別攻撃隊 攻撃七一一飛行隊 二等飛行兵曹 高橋 幸太郎 (山形) 同 同 同 松尾 登美雄 (長崎)  同 同 同 石垣 當晃  (東京)  同 同 同 湯澤 康男  (栃木)  四月一日 第二桜花特別攻撃隊 攻撃七〇八飛行隊 二等飛行兵曹 田川 喜八郎 (福岡) 四月十二日 第三桜花特別攻撃隊 攻撃七〇八飛行隊 二等飛行兵曹 鬼木 俊勝  (福岡) 同 同 同 住吉 敬二  (東京) 同 同 同 岸田 幸夫  (徳島) 同 同 同 武田 竹司  (長野) 同 同 同 稲垣 只次  (愛知) 四月十四日 第四桜花特別攻撃隊 攻撃七〇八飛行隊 二等飛行兵曹 月尾 清一  (熊本) 同 同 同 片岡 貞夫  (長崎) 同 同 同 片山 邦治  (栃木) 同 同 同 大坪 義春  (福岡) 同 同 同 小黒 寿夫  (東京) 同 同 同 栗岡  嗣  (高知) 同 同 同 山本 政一  (石川) 同 同 同 林  芳一  (長野) 四月十六日 第五桜花特別攻撃隊 攻撃七○八飛行隊 二等飛行兵曹 大沢 龍二郎 (福岡) 同 同 同 宇津木 勝次 (千葉) 同 同 同 小池 孝吉  (山形) 同 同 同 柴田 悦生  (福岡) 四月十九日 (小松基地から鹿屋基地へ進出の途次) 二等飛行兵曹 成清  広  (福岡) 五月四日 第七桜花特別攻撃隊 攻撃七○八飛行隊 一等飛行兵曹 中川  明  (徳島) 同 同 同 遅澤 芳郎  (栃木) 同 同 同 野崎  敬  (大分) 同 攻撃七一一飛行隊 同 小幡 和人  (宮城) 同 同 同 柳  義信  (長崎) 五月十一日 第八桜花特別攻撃隊 攻撃七〇八飛行隊 一等飛行兵曹 田中 辰三  (山形) 同 同 同 千葉  登  (鹿児島) 同 同 同 菊池 邦寿  (福岡) 同 同 同 大河内 一春 (愛知) 五月十四日 第十一建武隊 戦闘三〇六飛行隊 一等飛行兵曹 古田  稔  (愛知) 五月二十五日 第九桜花特別攻撃隊 攻撃七〇八飛行隊 一等飛行兵曹 相川 和夫  (佐賀) 同 同 同 早坂 敦郎  (山形) 同 同 同 藤原  薫  (福岡) 同 同 同 三宅 六男  (福井) 六月二十二日  第十桜花特別攻撃隊 同        一等飛行兵曹 飛鷹 義夫  (熊本) 同 同 同 佐藤 貞志  (福島)           神雷部隊之碑  以上は神雷部隊で活躍した長濱敏行君の手記である。長濱君は予科練時代は筆者と同じ ニ十ニ分隊五班で訓練を受け、谷田部空の飛練も同じ四分隊で苦労を共にした仲であった。 また「第十一建武隊」で特攻戦死した古田稔君も同じ班であった。  古田君は、予科練卒業後天草空の水上機に進んだ。その後、七二一空戦闘三〇六飛行隊 の所属となり、陸上機に転換し、戦闘機の錬成訓練を受けた。五月十四日、「爆装零戦」 による出撃を命ぜられ、種子島東方海上の敵機動部隊に対して「体当たり攻撃」を敢行し、 祖国防衛の礎となった。この功績は、聯合艦隊告示一一三号により全軍に布告された。
攻撃七〇八飛行隊の勇士
       攻撃七〇八飛行隊の勇士。(宮崎基地)

夕刊デイリー〔平成16年7月1日〕         Mr. Bill Gordon と対談(平成16年6月24日)
     平成21年3月8日、延岡総合文化センターで講演を行いました。 長浜敏行君が自分史の出版を準備しています。全面的に協力致します。

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