台湾の思い出
川口 武(福岡県出身)
野中先生の日記は、 私が三年ほど前に、虎尾空の名簿を作成していた際に、当時虎尾空
で一緒に勤務していた、当村教員(日記の随所に名前が出てくる)から戴いたものです。
これを読みながら、 当時を思い出して感慨無量でした。
この日記をぜひ関係者のご遺族や同期生の方々にも読んで戴きたいと思い、出版の許し
をもらうため、中野先生(結婚されて竹内)を探しました。内地に帰還された後、 鹿児島
の鶴丸高校の先生をされていたと聞き、指宿市在住の同期生浜田健一君に連絡をとるよう
依頼しました。
ところが、すでに先生は亡くなられていました。ご家族の住所でもわかれば同意を得た
いと思って、出身地の小倉や本籍地である佐賀など八方手を尽くして探しました。しかし、
それでもわかりませんでした。
この貴重な日記を、一人でも多くの方々に読んでもらいたいとの思いから、先生の許可
を得られないまま出版を決意して、永末君に依頼しました。日記を公開して、関係者に読
んで戴くことは、決して故人の意志に反するものではないと信じております。
この日記に記載されている、振天隊の鳥居君と黒岩君は鹿児島空の予科練から上海空の
飛練と一緒に訓練を受け、飛練を卒業した後彼らはツドウモの十二空に配属されました。
また、柴田君と福元君は上海空から私と尾辻君と四人で、虎尾空に配属されました。奇し
くも、特攻隊員となった四人が宜蘭で再会し、お互いに旧交を暖め合ったことと思います。
この日記には、一カ所だけ女性にしては意外な言葉が記されています。若い特攻隊員と
の交流によって、その純情さを肌身に感じていた先生が、この若者たちに死を命じる者に
対する、精一杯の抗議の言葉と思います。
「玉井司令、くそくらえ!」
虎尾空は昭和十九年五月十五日、台南州に開隊した陸上機操縦の教育部隊です。予備生
徒の一期生・飛練三十九期・飛練四十期が在隊していました。台中派遣隊は永康と後龍に
分かれ、飛練三十八期と飛練三十九期それに飛練四十一期(各期とも甲飛十三期生)が在
隊していました。
昭和二十年二月十五日、操縦訓練の中止にともなって、虎尾空は解隊されました。内地
への引き揚げに際し、練習生は無事帰還できたのですが、「南京丸」に乗船した約五十名
の士官(ほとんど十三期予備学生)と教員約二十名、それにわれわれの衣嚢などの荷物は、
基隆を出港した三月十七日夜、アメリカの潜水艦により撃沈されました。
護衛の海防艦に便乗していた、同期生の小深田君と前田君の話によれば、生存者は殆ど
いなかったそうです。
私たち教員二十名は、新竹基地からダグラスに便乗して内地に帰りました。他の十五名
の教員は台北基地から帰る予定でした。ところが、迎えに来たダグラスが給油を終了した
途端、グラマンにやられ飛べなくなり、再び虎尾空に帰ったのです。この中に、柴田君や
福元君がいました。
彼らは残務整理に残っていた者と合流して、台南空へ行きました。そこで、「忠誠隊」
に編入されて「特攻作戦」に参加して、大空に散華されたのです。その後、虎尾空は解隊
され、私たちが訓練に使っていた九三中練による、「特攻隊」が編成されました。
中でも特筆すべきは、七月二十九日に出撃した、「第三龍虎隊」の活躍です。 この隊は
赤トンボと呼ばれた鈍足の練習機にも拘わらず、アメリカ海軍の駆逐艦キャラガンを撃沈
したのです。そのうえ、ブリチェット、キャッシンヤング、ボレース・バイにも損害を与
えました。これはアメリカ側の記録にも残されています。
十二空はサイゴン郊外のツドウモ基地にあり、上海空の飛練を卒業した多数の同期生が
配属されました。その後、台湾に移り「神風特別攻撃隊振天隊」が編成され、宜蘭基地や
新竹基地から沖縄周辺へ出撃し、 大空に散華されました。
忠誠隊出陣式
神風特別攻撃隊 忠誠隊の勇士。
前から二列目、左から二人目柴田一飛曹。右端、福元一飛曹。
福元清則君遺影。
宜蘭基地及び新竹基地から特攻出撃した同期生は次のとおり。
[☆中野先生の日記に記載されている]
五月 三日 振 天 隊 九九艦爆 (新 竹) 高辻 萬里(福岡・十八歳)
振 天 隊 九九艦爆 (新 竹) 田中 良光(宮崎・十八歳)
五月 七日 振 天 隊 九九艦爆 (新 竹) 石田 儀進(宮崎・十七歳)
五月 九日 振 天 隊 九九艦爆 (宜 蘭) 鳥居 信(熊本・十七歳)☆
振 天 隊 九九艦爆 (宜 蘭) 黒岩 芳人(福岡・十七歳)☆
五月 十三日 振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 大曲 重賢(福岡・十八歳)
忠 誠 隊 九六艦爆 (宜 蘭) 福元 清則(鹿児島・十八歳)☆
忠 誠 隊 九六艦爆 (宜 蘭) 柴田 昌里(高知・十八歳)☆
五月 十五日 振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 島元 義春(鹿児島・十八歳)
振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 小原 辰夫(鹿児島・十七歳)
五月二十九日 振 天 隊 九七艦攻 (新 竹) 伊藤 信照(福岡・十八歳)
★「第三龍虎隊」について編集者追記。
第三龍虎隊は七月二十八日深夜宮古島基地より八機発進。二十九日0130より0220の間に
攻撃を実施。故障及び煙幕展張のため四機帰還、四機未帰還。
二十九日深夜三機発進。三十日0230ら0330の間に攻撃を実施、全機未帰還。
未帰還機七機を、聯合艦隊告示第二五六号で「第三龍虎隊」として布告。
未帰還者。七名のうち五名は甲飛十二期出身者(三重空)。
一三二空。七月二十九日 一飛曹 川平 誠 一飛曹 近藤 清忠
一飛曹 原 優 一飛曹 松田 昇三
七月三十日 一飛曹 佐原 正二郎
参考図書 澤田祐夫著「予科練と戦場」(株式会社 図書刊行会)
石川知里著「熱涙を抑えて・・・」(非売品)
第三龍虎隊の戦果。(大塚好古氏の資料)
米側の作戦記によると、7月28日にCallaghan(DD-792)が沖縄南西水域で沈没。
Callaghanを救援中のPrichett(DD-561)も神風により損傷。Callaghanに損害を与えた
のは複葉の練習機Willowという記載もあります。
なお、Cassin Young(DD-793)とHorace A. Bass(APD-124)が沖縄周辺水域で損傷
したのは、7月29日の事になっています。ただし7月30日の0326時にCassin Young
(DD-793)に対して神風が突入したとする資料がありますので、これは日付の記載が、
7月29日〜30日夜間という意味で書かれている事によるか、もしくは米時間及び現地時
間表記による差異かもしれません。
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