♪抜刀隊♪

蒼空の果てに

葉隠れ武士たらんと

本田 敏明(兵庫県揖斐郡) 岩部敬次郎君とはじめて出会ったのは、昭和十八年十月予科練で操縦専修と偵察専修に 別れて分隊の編成替えが行われ、二十三分隊三班に編入された時であった。彼は班の中で は「中」ぐらいの体格で特に目立った存在ではなかった。 また自分の意見を主張する際には、大きな目玉をクリクリさせて佐賀弁まじりで喋った が、人のよい彼は他人と言い争いをするようなことはなかった。一度彼と会ったことのあ る者なら殆どが忘れられない愛嬌如きものを感じたものだった。 彼がハガキの宛名に「相知町相知」と書いているのを見て、「それは何と読むんだ」と 聞いたところ、「オーチ町オーチだ」と教えてくれた。それは、自分の故郷に強い誇りを 持っている口調であった。 「武士道と云うは死ぬことゝ見附けたり。二つ一つの場にて早く死ぬ方に片附くばかり なり。云々」と葉隠の文句をよく聞かしてくれた。私は彼によってはじめて葉隠の一部を 知ることができた。 葉隠は鍋島武士道の教えで、彼はこの教えで自らを鍋島武士たらんと していたと思われる。 「二つ一つの場にて」とは、生きるか死ぬかの場に臨んでのことと解釈していたのだが、 正しくは、「二つ二つの場にて」であり、私の聞き違いであった。葉隠は、生きることを 初めから考えていないという、凄まじい生き様を述べたものであると知ったのは後年のこ とである。 送信訓練で彼が電鍵を叩いているのを見ていると、農作業で鍛えられたのであろう節く れだった指をしているので、「お前の指はキーを叩く指じゃないナー」と、冗談を云った こともあった。
鹿児島航空隊23分隊3班
鹿児島空二十三分隊三班。前から二列目中央が岩部君。
  上海空の飛練を卒業して台南空の艦攻隊に配属され、また彼と一緒になった。入隊して
十日目の十月十二日から始まった台湾沖航空戦では、敵の空爆の目標になった防空壕の中 
にいて、共に「今日が最期か」と、 観念したこともあった。  
        
  その後、特攻隊編成に志願した約四十名の同期生が、茨城県の神ノ池基地の七二一空へ
転勤となり内地へ帰還するこになった。その時、彼も私もその中にいた。神ノ池基地では、
昭和二十年の初頭から約二ヵ月余り、彗星三三型で錬成訓練を受けた。そして三月下旬、  
私たちは百里原空へ転勤を命ぜられた。 

  百里原空に入隊して間もない日のことである。夕食後皆で雑談している所へ先任下士官
がやって来て、「六〇一で彗星の偵察員を欲しがっている様子だが、行く者はいないか」  
と云った。いないどころではない、皆が彗星に乗りたがっていたのである。
     
  そのうえ、六〇一空と云えば海軍切っての精鋭部隊である。我も我もと全員が希望した。
そして、岩部敬次郎君以下数名の者が指名され、勇躍六〇一空へ転属して行った。我こそ  
はと皆が思っていたのだが、彼らが抜擢されたのは、彼らが我々より高い評価を得ていた  
からに外ならない。

  数日後、岩部君が真新しい飛行服に身を固め、首から大きな航空時計を下げて晴れ姿を
見せに我々のデッキにやって来た。六〇一空の隊員になってまだホヤホヤなのに、グーン
と貫録がついたように感じた。「よかったなあ、しっかりやってくれよ……」と、みんな
が羨ましがりながら激励した。
               
 ところが、これが彼の勇姿を見た最後であった。その後、六〇一空での彼の行動は知ら
ないが、彗星の優速を利して索敵や偵察それに哨戒などに飛び回ったものと想像する。

  郷里の生家の上空を低空で飛んだとの便りがあったと聞く。また、唐津市の映画館で、
ニュース映画に彼の姿が映っていると知らされたご両親は、何度も映画館に足を運んだそ
うである。

  昭和二十年八月九日一四三〇。六〇一空攻撃第一飛行隊で編成した、「神風特別攻撃隊
第四御盾隊」の彗星艦爆十二機は、勇躍百里原基地を発進した。第三小隊一番機榊原中尉
の操縦する彗星艦爆の偵察席に搭乗した岩部一飛曹は、一五五〇、「敵艦見ユ、金華山ノ
一二五度一四〇カイリ」と、電報を打ったあと消息が途絶えた。

  敵発見と同時に、猛然と突撃して行った彼の胸中に去来したものは、あの葉隠の「死ぬ
ことゝ見附けたり」であったのかも知れない。岩部敬次郎君は葉隠のサムライであった。  
それにしても何たる運命のいたずらか、その時期には既に戦争終結が目前に迫っているこ
となど夢にも知らず、ただ必勝を信じて若い命を散らしたことは、返すがえすも残念でな   
らない。
        
  彼の魂魄還り来って、今は戦死された二人の兄上の霊と共に、古里の山ふところに抱か   
れて静かに眠ってる。五十回忌の法要には、旧制唐津中学校の同級生二十二名の方々が、 
墓前に参詣されて彼の生前を偲ばれたそうである。彼が郷里の人々にいかに愛されていた
かを知る、 慶ぶべき話である。また彼の中学校の同級生の一人は、昭和四十七年、鹿屋航
空基地史料館に展示されている、岩部兵曹の遺影に偶然対面して涙を流されたという。   
                                                                        合  掌
岩部練習生 初飛行記念
初飛行記念。三式初練の前で。
                                                              
  昭和十九年十一月下旬、帰仁基地から七二一空に転属したのは、艦爆十名、艦攻三十名
であった。そのうち百里原空には三十名が移り、次の十三名の者が「神風特別攻撃隊」に  
編入され還らざる攻撃に飛び立ち、沖縄の海に消え去ったのである。[階級は出撃当時]

昭和二十年四月十七日
神風特別攻撃隊第三御盾隊  二飛曹  右田    勇 (大  分・十八歳)六〇一航空隊

昭和二十年四月二十八日
神風特別攻撃隊第一正気隊  二飛曹  弥永  光男 (福  岡・十八歳)百里原航空隊     
神風特別攻撃隊第二正統隊  二飛曹  漆谷  康夫 (福  岡・十七歳)同
    同          同   小野  義明 (福  岡・十七歳)同
    同                    同   福田  周幸 (福  岡・十七歳)同              
    同                    同   伊東  宣夫 (大  分・十七歳)同               

昭和二十年五月二十五日                                      
神風特別攻撃隊第三正統隊  一飛曹  鹿島  昭雄 (福  岡・十七歳)百里原航空隊

昭和二十年六月三日
神風特別攻撃隊第四正統隊  一飛曹  南里    勇 (佐  賀・十七歳)百里原航空隊

昭和二十年八月九日
神風特別攻撃隊第四御盾隊  一飛曹  増岡  輝彦 (福  岡・十八歳)六〇一航空隊
  同          同     万善  東一 (鹿児島・十七歳)同
  同          同      岩部  敬次郎(佐  賀・十七歳)同

昭和二十年八月十五日
神風特別攻撃隊第四御盾隊  一飛曹  溝口  和彦 (佐  賀・十八歳)六〇一航空隊
    同                    同   田中    喬 (福  岡・十八歳)同 

           御盾特別攻撃隊 慰霊碑
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