特攻作戦の経過
私は、昭和20年4月、菊水作戦開始と同時に特別攻撃隊に編入されました。「発進」
「接敵」「攻撃(体当たり)」の飛行訓練と同時に、精神的には生に対する執着と、死に
対する恐怖と闘いながらこれを克服してきたのです。誰れでも一時の感情に激して死を選
ぶことはできるかも知れません。しかしながら、理性によって自分の死を肯定し、その心
境を一定期間継続することが如何に大変なことか、体験した者でなければ理解できないと
思います。われわれの同期生は当時17〜8才の若さでこの世の未練を断ち切り、還らざ
る攻撃に飛び立って、次々に散華したのです。
鈴鹿空・大井空・徳島空・高知空で構成された第13聯合航空隊は、練習機「白菊」に
よる特攻隊を編成しました。そして、5月24日の菊水7号作戦から、 遂に第5航空艦隊
に編入され、鹿屋基地や串良基地に進出し、次々と「体当たり攻撃」を敢行しました。
そして、6月26日の菊水10号作戦までに、118機が未帰還となり230余名が大空
に散華したのです。
今日は人の身、明日は我が身という状況のもとで、さらに死ぬための訓練が続けられま
した。飛行訓練が終り、宿舎(当時基地外の林の中に分散されていた)に帰る途中、なに
げなく道端で見かけた蓮華草の花に故郷の野辺を偲び、夜中にふと目ざめて父母(長兄は
戦死、次兄も出征中)の行末を案じ、一度は決心したものの果たしてこれでよいのかと、
煩悶したことも度々でした。
その間も戦局は推移し、6月末の菊水10号作戦をもって沖縄周辺に対する特攻作戦は
打ち切られました。これに伴い私は特攻待機を解かれ、鈴鹿基地の田中部隊に派遣されま
した。鈴鹿基地では、偵察員の練成訓練を担当することになりました。機上作業練習機の
操縦教員という地味な配置に対する不満と、特攻待機から解放された安堵感の入り混った
複雑な気持ちでした。
しかし、アメリカ軍の本土侵攻が予想され、8月5日を目途に再び特別攻撃隊が編成さ
れ、特攻待機となりました。そして、沖縄戦の戦訓から今度は夜間攻撃のみを対象にして
昼夜入れ替えの訓練が実施されました。即ち、飛行訓練は夜間のみ実施し、昼は横穴式の
防空壕の中で寝るといった変則的な生活が続いたのです。単に死ねばよいという安易な考
えでなく、如何にして有効に死ぬかということに日夜努力を重ねていたのです。
戦後の特別攻撃隊に対する評価には、戦果(結果)のみを対象としたものが見受けられ
ます。しかし、真にこれを評価するならば、20歳にも満たない若者が、いかなる理由に
せよ死をもって任務を遂行するという境地に至った精神状態、即ち特攻精神こそ評価すべ
きだと思います。
以上述べたとおり、特攻隊員の精神基盤は肉親に対する「愛情」の一言につきると思い
ます。祖国愛や民族愛など抽象的な理論ではなく、本来愛とは主観的一方的かつ献身的な
行為です。理屈ではないことを認識すべきです。そして、深い愛情で結ばれた信頼関係こ
そが、有事に際して思いもよらない力を発揮する原動力となることを銘記すべきだと思い
ます。
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[AOZORANOHATENI]