ご遺族の願い
戦後、戦没者の慰霊祭や同期生会などでの会合で、ご遺族の方とお話しする機会が多い。
ほとんどのご遺族は「戦死の証」がほしいと言われる。飛行兵だから、遺骨が帰らないこ
とは理解されている。しかし、遺骨に代わる遺品や遺稿など、なにか戦死したことが納得
できる証しを求めておられるご様子である。
また、 戦死したことの実感が得られないため、まだどこかで生きているのではないかと
言われる方もおられる。 ご遺族にすれば表向きには戦死を認めていながら、内心では未だ
に生きていてほしいとの願いが強いのであろう。
あの当時われわれ下士官兵は、遺書などを書いたとしても、両親や兄弟に手渡す手段を
持たなかったのである。遺品や遺書などが届けられたご遺族はごく一部に限られている。
それも従来のように、 「海軍葬」にご出席して受け取るといった正規の手続きによるもの
ではなく、つてを求めての幸便に託されたものがほとんどである。
昭和二十年代になると、空襲による交通機関の混乱などから、航空隊で行う「海軍葬」
もほとんど実施されない状態であった。だから、大多数のご遺族には「○○方面で戦死」
と記された、一片の通知書が渡されただけである。またその通知書にしても、人事管理の
混乱から時期を逸し、終戦後になって、やっと届けられた方も数多くおられる様子である。
ご遺族にすれば、どんな飛行機に乗っていたのか。いつどこの基地から飛び立つたのか。
どこの攻撃に行ったのか。そして、どんな状況で戦死したのかなど、最後の様子を知りた
いと思うのは人情であろう。幸い戦没同期生の最後の模様は、防衛研究所の資料や生存同
期生の協力でほぼ解明することができた。同期生として当然の勤めである。
慰霊祭にご出席されたある父親は、「もし代われるものなら、自分が代わりに死んで、
息子には長生きして欲しかった」と、涙ながらに慨嘆された。またある母親は、空襲の激
しい中を、今生の別れに出撃基地を訪れた話をしておられた。手塩にかけて育てたご子息
の死の門出を、なす術もなく見送らねばならなかった母親の胸中は察するに余りある。
また別の母親は、ご子息が無事に帰還することを願って、「茶断ち」「塩断ち」などの
祈誓をされたと話しておられた。あの当時、われわれが命に代えて護ろうとしていた肉親
もまた、自分の命を縮めてもと、わが子の無事を祈っていたのである。
「焼野の雉(きぎす)夜の鶴」との諺がある。野火に追われた雉は飛べない雛を庇って
一緒に焼け死ぬという。野鳥に教えられるまでもなく、 子を思う親の愛情がいかに深く断
ち難いものであるか、しみじみと感じさせられた。
子は親の安泰を願ってわが身を犠牲にすることを厭わず、親はわが身を削ってまで子供
の無事を祈る。この肉親相互の愛情が重なり合って、あの必死必殺の「体当たり攻撃」が
生まれたのだとすれば、真に非情である。「体当たり」の瞬間、彼らの脳裏には、慈愛に
満ちたご両親の面影が焼き付いていたに違いない。
昭和二十年五月十一日、「第八桜花特別攻撃隊」の攻撃隊員として一式陸攻に搭乗して、
〇六〇五鹿屋基地を発進。沖縄周辺の敵艦船群攻撃を決行して散華された、福岡県浮羽郡
吉井町出身 故海軍少尉菊池邦壽君のご母堂が、 ご子息を偲んで詠まれた和歌を紹介させ
ていただく。
吾子をしのびて折々に 菊 池 ハ ル カ
いとし子のいさみたちたる晴れすがた またみるときのなきぞかなしき
特攻の重きつとめをかくごして 母にもつげずいでしますらお
永久の別れをひめてはらからと 笑いかわせしこころいじらし
あらわしのつばさもかろくはばたきて かけり行きたる姿なつかし
君のため國のためにと身はかろく とびたち行きし沖縄の海
はたとせを最後にきえしいとし子の 今日のしらせに涙つきせず
かつことをただ信じつついさぎよく 肉をくだいて艦をしずめし
いとし子のみたまむかえて今日ここに 何とたたへんたてしいさおを
國やぶれみだれる御代となりしとも いつか香らん靖國の花
「桜花」を抱いた七二一空の一式陸攻。
かえらざる翼目次へ[AOZORANOHATENI]